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第131話:山への帰還――唯一の敗北と、生命の語り部


山から戻ったカニの瞳には、以前のような冷たい静寂ではなく、どこか遠くの景色を追い求めるような、不思議な光が宿っていました。


櫻守事務所の応接室。咲子の前に座ったカニは、手渡された温かいココアには目もくれず、自作の「森の地図」を机に広げました。


「先生。わたくし、決めました。……山に帰ります」


その言葉に、隣で記録を取っていたみゆが、あっと驚いてペンを落としました。


「えっ、山に帰るって……カニさん、ようやく一期生として絆が深まったところなのに! 配信はどうするの?」


「配信は続けます。でも、このコンクリートに囲まれた箱の中では、命の本当の震えが聞き取れません。わたくしは、人間社会のルールに無理やり自分を当てはめることよりも、あの山で繰り返される生と死を、世界に伝える語り部になりたいのです」


カニの声は、かつてのような無機質な響きではなく、確かな意志という熱を帯びていました。


咲子は、ゆっくりと扇子を閉じ、カニの瞳を正面から見据えました。


「……おほほ。わたくしの100年の経験をもってしても、あなたをこの『都会の檻』に繋ぎ止めることはできませんでしたわね。……完敗ですわ。わたくしの長い人生において、唯一の敗北かもしれません」


咲子はわざとらしく深いため息をつきましたが、その口元には、誇らしげな笑みが浮かんでいました。


「いいでしょう。あなたの選んだ道です。……ただし、たまには美味しいお茶を飲みに、下山してくることを約束なさいな」


「ええ。若返りをした先生は貴重なサンプルなので、新しい『年輪』が増えていないか、定期的に観察しに来ます」


「……その毒舌だけは、山に行っても枯れそうにありませんわね」


数日後。カニは最小限の機材と、咲子から贈られた最高級の登山リュックを背負い、静かに事務所を去っていきました。見送りに来た一期生たちは、泣き笑いの表情で彼女の背中を見守っていました。


それから数ヶ月後。 ネット上では、ある不思議な配信が話題になっていました。


画面に映るのは、朝日を浴びて黄金色に輝く森の景色と、パチパチとはぜる焚き火の音。そして、落ち着いたトーンで語られる、一人の少女の声です。


『……今日は、一羽の鳥が巣立ちました。人間社会ではこれを「孤独」と呼ぶかもしれませんが、ここには寂しさなどありません。ただ、命が次の場所へ繋がったという、圧倒的な事実があるだけです』


カニの「山からの手紙配信」は、都会の喧騒に疲れた人々の心に、静かに、けれど深く染み込んでいきました。  



彼女はもう「心を欠いた観察者」ではなく、誰よりも命の重さを知る「山の守護者」になっていたのです。


【佐藤家にて】

「おばあ様……カニさんからの手紙、届きましたよ。山で見つけた珍しい苔の標本が同封されてます」


みゆが差し出した手紙を、咲子は愛おしそうに受け取りました。


「……ふふ。あの子、わたくしを負かしたままでいるのが、よほど楽しいようですわね。手紙でも毒舌は変わらないみたい」


「本当だ! 徹底的にいじられてますね」


咲子は三郎ルンバの背中をポンと叩き、窓の外に広がる遠い山脈に目を向けました。


「人を救えなくても、命を伝えることはできる。……外交官として、彼女の『独立』を認めざるを得ませんわ。……さあ、みゆちゃん。次なる『外交』の準備をいたしましょうか」

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