第120話:【外の空気】HAL、公園のベンチで。――マイクを通さない言葉の重さ
暗闇の「要塞」から咲子に連れ出されたHAL。彼が辿り着いたのは、事務所のすぐ近くにある、何の変哲もない公園のベンチでした。
夕暮れ時、子供たちの元気すぎる叫び声、遠くを走る車のエンジン音、そして風に揺れる木の葉のざわめき。ネットの完璧な静寂に飼い慣らされたHALにとって、それは耐え難いほどの「不協和音」の塊でした。
「……っ、ハァ、ハァ……。咲良さん、もう無理だ、限界。帰らせて。空気が……重すぎて、溺れそうなんだ……」
HALはパーカーのフードを限界まで深く被り、膝を抱えてガタガタと震えています。
いつも配信で聞かせる、自信に満ちた合成音声の面影はどこにもありません。生身の声は、使い古されたカセットテープのように掠れていて、今にも消えてしまいそうでした。
「HALさん。足元の砂利の感触をしっかり確かめなさいな。あなたが『不快な雑音』と呼ぶこれこそが、あなたがずっと見ないふりをしてきた現実というものですわ」
咲子は隣に座り、優雅に扇子をパタパタと動かしました。
「学校でのこと、思い出しましたかしら? 確かに人間関係は不便極まりないものですわね。思い通りにはいきませんし、突然牙を剥いてくることもある。……でもね、HALさん。予想がつかないからこそ、心は大きく揺さぶられるのですわ」
「……心なんて、止まってていいんだ。僕は、画面の中で、僕を認めてくれる文字だけを数えていたいんだ」
HALが顔を上げずに、地面のアリを数えるような勢いで呟きました。
「それは『自分』を愛しているのではなく、自分にとって都合の良い『反応』を愛しているだけですわ。……いいですか、HALさん。今あなたが向き合うのを拒んでいるその『雑多な世界』は、30年後、あなたが老いて動けなくなった時、あなたの冷えた手を握ってくれるかもしれない『誰か』の住処なのです」
咲子は、冷たくなったHALの手を、自分の温かい手でそっと包み込みました。
「デジタルは便利ですが、最期にあなたの体温を分かち合うことはできませんわ。わたくしが今日、あなたのコンセントを引き抜いたのは、あなたが『便利なデータの塊』としてではなく、『不器用で愛おしい一人の人間』として、誰かとつながる強さを持ってほしいと願ったからですの」
」
その時、ベンチの横を通りかかった小さな子供が、HALの足元にボールを転がしてしまいました。
「あ、……ごめんなさい!」
子供がトコトコと寄ってきて、不思議そうにHALを見上げます。
HALは一瞬、心臓が跳ね上がってショートしそうになりました。どう反応すればいい? どのキーを叩けば「正解」? しかし、膝の上にキーボードはありません。
「……あ、……っ、……ん、……ほら」
HALは震える手で、泥のついたボールを拾い上げました。
そして、喉の奥にこびりついた砂を吐き出すように、必死に言葉を絞り出しました。
「……気をつけて、……遊びなよ」
子供はニッコリ笑って「ありがとう、お兄ちゃん!」と元気に走り去っていきました。
たったそれだけの、ネットなら一瞬で流れていくやり取り。 けれど、HALはその場にへたり込み、自分の手のひらを見つめて呆然としていました。
「……僕の声、届いた……? 合成音声なしでも、あの子、笑った……」
「ええ。あなたの『震える声』だったからこそ、あの子の心に届いたのですわ。……おほほ。完璧な暗号よりも、ずっと素敵な平和交渉でしたわね、HALさん」
HALの目から、大粒の涙がこぼれ、砂利の上に落ちて吸い込まれていきました。
ネットという水槽から引き揚げられた魚が、初めて「地上の空気」を肺いっぱいに吸い込んだ瞬間でした。
【佐藤家にて】
「おばあ様……。HALさん、まだ産まれたての小鹿みたいに震えてましたけど、少しだけ顔つきが柔らかくなった気がします」
みゆが報告を聞いて、ほっと胸を撫で下ろしました。
「ええ。彼は今日、初めて『回線』ではなく『肌のぬくもり』で世界と握手したのですわ。……さて、明日の彼の配信は、どんな音がするかしらね」
咲子は、主電源を切ったままのHALの部屋を思い浮かべました。
次にその部屋に明かりが灯る時、そこはもう「逃げ場」ではなく、世界へ挑むための「司令部」に変わっているはずです。




