第119話:【電脳の王】HAL、画面の外へ。――つながっているのは「回線」だけ?
櫻守事務所の一番奥。そこは大量のモニターが怪しく光り、絶え間ない冷却ファンの音が「ゴォーッ」とうなるHALの「要塞」です。この暗い部屋で、彼は自分を全知全能の王だと信じ込んでいました。
HALはかつて、聖蘭高校の教室で徹底的に「居場所」を失った少年です。 相手の顔色を伺うのが苦手で、放った言葉がなぜか裏目に出る。クラスメイトとの微妙なズレが積み重なり、気づけば彼は「透明人間」か「笑いのネタ」になっていました。
そんな彼を救ったのがネットの海でした。画面の向こうなら、指先一つで世界を支配できる。しかしそれは、現実の痛みを和らげるための、ただの「麻酔」に過ぎませんでした。
「……HALさん。いつまでその、カビが生えそうな穴ぐらに引きこもっていらっしゃるの?」
スピーカーから突然流れた咲子の優雅な声に、HALはマウスを親の仇のように連打して応戦しました。
「……咲良さん。言ったはずだ。僕はここから一歩も出ない。ここなら僕は完璧だ。誰も僕のツラを見ない。僕の言葉だけが、僕のすべてなんだ」
合成音声ソフトで作られた声は、感情を完全に削ぎ落とした「鉄壁の防御」です。しかし、咲子は扇子を広げる音と共に、クスリと笑いました。
「ふふ、完璧。……それは今、この瞬間だけの、お菓子で作ったお家のようなまやかしですわ。あなたは今、若さという武器で自分を守っているつもりでしょうけれど、30年後、40年後はどうかしら? ネットの海が枯れ、指先が震えだした時、そこには『誰の体温も知らぬまま、ポテチの袋に囲まれて枯れ果てた老人』が残るだけですわ」
「……そんな先のこと、知るか。今、僕を崇める拍手があればそれでいいんだ」
「いいえ、よくありませんわ。わたくしがあなたを引っ張り出すのは、あなたが数十年後、自分の人生を後悔しながら、ルンバの三郎だけを友として孤独に死んでいくのを阻止するためですのよ」
「……帰れよ! 僕は、ここから絶対に出ないからな!」
「あら。交渉決裂……いわゆるデッドロック(行き詰まり)ですわね。……ならば、物理的に『停戦』していただきますわ。お母さま、よろしくて?」
「えっ、お母さん……っ!?」
その瞬間、HALの要塞から**「ブツンッ……!」**という絶望的な音が響きました。 無数のモニターが同時に漆黒に染まり、頼もしかったファンの音が止まり、部屋は静寂と、恐ろしいほどの暗闇に包まれました。
「な、……!? 嘘だろ、僕の『臓器』が……!」
「お母さまに協力いただき、物理的にコンセントを引っこ抜かせていただきました。どんな天才も、電気がなければただの、暗い部屋で震える可愛い子猫ちゃんですわね」
ドアがゆっくりと開き、廊下の光が差し込みました。
そこには、ハイテクな機材の真ん中で、なぜか**古びた「猫耳付きの毛布」**を頭から被ってガタガタと震える、一人の小さな少年の姿がありました。
それは、かつて学校で傷つき、逃げ込んできた時のまま、心の成長を止めてしまった弱々しい背中でした。
「……あ、……っ、……見ないでくれ……こっちに来るな……!」
HALは、久々に浴びた生身の「視線」に耐えきれず、顔を覆って蹲りました。合成音声を通さない彼の地声は、あまりに細く、震えていました。 あまりの恐怖と、物理的にコンセントを抜くという咲子の「外交(力技)」への怒りが混ざり合い、彼の口からついに、加工されていない本音の「産声」が飛び出しました。
「黙ってろよ、このババア!! 僕は……僕は、勝手にやるんだ……っ!」
瞬間、廊下に控えていたマネージャーのみゆが「ひぇっ」と短い悲鳴を上げ、時が止まりました。 17歳の絶世の美少女の姿をした咲子に向かって、引きこもりの少年が放った、あまりにもストレートで救いようのない罵倒。
しかし、咲子は怒るどころか、扇子で口元を隠して「おーほほほ!」と高らかに笑い声を上げました。
「お聞きになりました? みゆちゃん。これがHALさんの、加工されていない『真実の声』ですわ。……おほほ! 100年生きて初めて言われましたわ、ババアだなんて! 愉快、実に愉快ですわね!」
「笑い事じゃないですよ、おばあ様……!」
「いいえ、笑い事ですわよ。……HALさん。暗闇ごっこはもうおしまいです。その『ババア』を黙らせるほどの外交を、画面の外で身につけてご覧なさいな」
咲子は、恐怖と怒りで固まるHALの肩に、そっと手を置きました。 デジタルでは再現不可能な、少し熱いくらいの「他者の体温」。HALは思わず「ひっ」と短い悲鳴を上げましたが、その温もりを拒絶しきれず、ただ子供のように泣きじゃくりました。
【佐藤家・リビングにて】
「おばあ様……。HALさんに『ババア』って言われて、本当にショック受けてないんですか?」
三郎にホコリをプレゼントしながら心配するみゆに、咲子は優雅にハーブティーを啜り、微笑みました。
「ショック? とんでもない。交渉において、相手が感情を剥き出しにしてくるのは心を開いた証拠。むしろ喜ばしいことですわ。……それにわたくしをババアと呼ぶのは、ある意味、この上なく誠実で正確な事実ですもの。あの子、やはり見所がありますわ」
「……おばあ様、三郎の背中、もう鏡みたいにピカピカですよ。あと、さっきからハーブティーじゃなくて、間違えて出汁を飲んでます」
咲子は「ハッ」として手元の湯呑みを見つめ、震える手でそれを置きました。
「……みゆちゃん。最近の若者は、語彙力が乏しいのかしら。『お姉様』や『古風な麗人』といった、もっと外交的に適切な表現があるはずですのに。ババア……ババアですって……? 100年以上も優雅に生きてきたわたくしに対して……?」
「おばあ様、めちゃくちゃ根に持ってるじゃないですか。目が泳ぎまくってますよ」
「泳いでなどいませんわ! ……ただ、あの子の次の配信は、わたくしが直々に『言葉の選び方』を叩き込んで差し上げようと、少しばかり……ええ、少しばかり気合が入っているだけですわ」
咲子の外交戦略において、「ババア」という言葉はHALとの大切な絆になった……はずですが、同時に咲子のプライドに消えない「ささくれ」を作ったようです。
「……みゆちゃん、明日のわたくしの大福、一番高いものに変えてちょうだい」
「はいはい、了解です」
オノレ・ド・バルザック(フランスの小説家)
「孤独は素晴らしいものだ。だが、孤独は素晴らしいと語り合える『誰か』が、そこには必要なのだ。」




