第115話:【対話】「折れた剣」の騎士――救いたいという病(やまい)
櫻守事務所の一角、アイリス・ヴォルガの個人練習室。
そこは他のライバーの部屋とは違い、物が最小限に片付けられ、ピンと張り詰めた「司令部」のような空気が漂っていました。
「……失礼いたします、咲良様」
アイリスは咲子が入室した瞬間、椅子から立ち上がり、迷いのない動作で敬礼しました。
彼女が元自衛官であり、災害派遣の最前線で戦ってきた人間であることは、その無駄のない所作を見れば一目瞭然でした。
咲子は、ましろに赤いリボンを授けた時とは対照的な、冷徹な外交官の顔で彼女の前に座りました。
「アイリスさん。ましろさんの配信は見ましたわね? 彼女は自らの弱さを曝け出し、自由を手にしました。……対して、あなたはどうかしら。より一層、自分を『規律』という殻に閉じ込めていらっしゃいませんこと?」
咲子の鋭い指摘に、アイリスの肩が微かに震えました。
「……私は、彼女のように器用ではありません。私は自衛官として、国民の命を守るために訓練を受けました。……たとえ配信者になっても、私は『救う側』でなければならない。隙を見せることは、敗北を意味します」
「救う側、ですか。……ふふ、あの日と同じように?」
咲子がそっと差し出したのは、アイリスが自衛隊を辞めるきっかけとなった、ある大規模土砂災害の資料でした。
「……っ! なぜ、それを……」
「わたくしを誰だと思っていらっしゃいますの? ……土砂に埋まった家屋、あと数分でさらなる崩落が起きる極限状態。あなたは目の前の老人の手を握り、引き抜こうとした。けれど、上官の命令は『即時撤退』。……あなたは命令に背き、老人を救おうとして――結果、救えなかっただけでなく、同行した部下にまで重傷を負わせた。……違いますかしら?」
アイリスは拳を握りしめ、顔を伏せました。
「……私は、見捨てられなかった。一人でも多く、救いたかった。……なのに、私は結局、誰も救えなかった。だから私は、自分を許せないんです。配信の中でも、誰かの役に立たなければ、私には価値がない……!」
「アイリスさん。あなたは『優しさ』を履き違えていますわ」
咲子の声が、凍てつくように響きました。
「外交の場でも救助の現場でも、最も困難で、かつ最も尊い決断は『誰を救うか』ではありません。**『誰を救わないか』**を決めることですわ。全員を救おうとする者は、結局、全員を破滅に導きます。あの日、あなたが命令に従って即座に撤退していれば、部下が傷つくことはありませんでした。……あなたの『救いたい』という執着が、被害を広げたのです」
アイリスの目から、隠していた涙がこぼれ、机に落ちました。
「騎士とは、剣を振るう者ではありません。守るべきもののために、何を切り捨てるかを選べる者のことですわ。……アイリスさん。今のあなたは、折れた剣を必死に抱えて震えている子供に過ぎません」
咲子は、アイリスに黒いリボンを差し出しました。
「これからは、配信の中で『完璧な正義の味方』を演じるのはおやめなさい。……あなたが向き合うべきは、視聴者という名の『助けを求める群衆』ではありません。自らの手で『救うもの』と『見捨てるもの』を選別し、その責任を背負う『覚悟』ですわ」
アイリスは、震える手で黒いリボンを受け取りました。
「……私が……誰かを見捨てる……決断を……」
「ええ。それができた時、あなたは初めて『折れた剣』を打ち直し、本当の騎士として戦場に戻れるでしょう。……ましろさんが自分の『嘘』を葬ったように、あなたは自分の『傲慢な優しさ』を葬りなさい」
咲子は立ち上がり、出口へ向かいました。
「次の配信、楽しみにしていますわよ。……救えない命を、どう見送るのか。あなたの『騎士道』を見せていただきましょう」
一人残されたアイリスは、黒いリボンを凝視していました。
彼女がこれから行うのは、ヒーローショーではありません。誰の心を選び、誰の心を切り捨てるかという、残酷な「魂のトリアージ」でした。
【佐藤家・屋根裏にて】
「おばあ様……。アイリスさん、あんなに追い詰めて大丈夫なんですか? 彼女、自分を責めてばかりなのに」
三郎を撫でながら心配するみゆに、咲子は静かに微笑みました。
「みゆちゃん。彼女は『責任』という重荷がないと立てない人なのですわ。ならば、中途半端な罪悪感ではなく、一生背負いきれないほどの『冷徹な決断』を与えてあげるのが、わたくしの優しさですわ」
咲子の瞳は、すでに次の「戦場」を見据えていました。
スティーブ・ジョブズ(Apple創業者)
「最も重要な決定とは、何をするかではなく、何をしないかを決めることだ。」
(Deciding what not to do is as important as deciding what to do.)




