第114.5話(中編):出征前夜、繋げなかった手
「文通相手の方への背伸びした想いとは別に、わたくしにはもう一人、どうしても心から離れないお方がおりましたの」
咲子は窓の外、遠くの街並みを眺めながら言葉を継ぎました。
それは近所に住んでいた、三歳年上の幼馴染の青年でした。
物心ついた時から兄のように慕い、時には泥だらけになって喧嘩もし、共に育った大切な存在。
「1942年の冬、彼にもついに出征の赤紙が届きました。当時の女学生にとって、異性と公然と会うことは固く禁じられていましたから、二人で並んで歩くことすら憚られる不自由な時代でしたわ。わたくしたちは、偶然を装って道角で立ち話をするか、家族の使いを口実にして、ほんの数分だけ視線を交わすのが精一杯でしたのよ」
「……そんな、立ち話だけでお別れになっちゃったの?」
みゆが三郎の手入れを忘れ、食い入るように尋ねます。咲子は静かに首を振りました。
「出征の前夜、わたくしたちは誰にも見つからぬよう、裏の小さな橋の上で密かに待ち合わせをしましたの。冷たい川風が吹く中、彼はいつもの明るい口調を押し殺し、『身体に気をつけてな』とだけ言いましたわ」
咲子の手元にある古い茶器が、微かにカタ、と鳴りました。
「本当は、その震える手を力いっぱい握りしめたかった。本当は、『行かないで、死なないで』と子供のように泣き叫びたかった。……けれど、わたくしはまたしても『強くて立派な日本人女性』という仮面を被ってしまったのです」
「おばあ様……」
「わたくしは、彼の方を見ることさえできず、ただ地面を見つめたまま答えましたの。『あなたも、国のために立派に努めてきてくださいまし』……そんな、誰かに教わった通りの、氷のように冷たい正解を。彼が寂しそうに一瞬だけ笑ったのを、今でも鮮明に覚えていますわ」
自分をよく見せよう、強く見せようと、心の鎧を着飾るほど、大切な人との距離は果てしなく離れていってしまう。
「……結局、彼が戦地から生きてこの街へ帰ることはありませんでした。わたくしが最後に彼へ贈ったのが、あんな嘘の言葉だったなんて、今でも後悔しています」
咲子の声が、微かに、けれど確かに震えました。
17歳の彼女が学んだのは、完璧な模範解答よりも、不器用で泥臭い本音の方がずっと尊いという、あまりにも重すぎる教訓だったのです。
「……さて、みゆちゃん。しんみりするのはこれくらいにいたしましょうか」
咲子は瞬時にいつもの外交官の顔に戻り、スッと背筋を伸ばしました。
しかし、その瞳の奥には、今もあの夜の冷たい川風が吹いているようでした。




