第114.5話(前編):墨に託した偽りの心
佐藤家のリビング、みゆは三郎の車輪に絡まった糸屑を丁寧に除いていました。
ふと、隣で古い外交記録の束をめくっていた咲子に、みゆは素朴な疑問を投げかけます。
「ねえ、おばあ様。一期生のましろちゃんには『自分を偽るな』って、あんなに厳しく言ってるじゃない? でも、おばあ様自身はどうだったの? 100年の人生で、一度も自分を飾り立てたり、嘘の姿を演じたりしたことって……本当になかったの?」
咲子は資料をめくる手を止めて、おほほと鈴を転がすような声で笑いました。
「……ありまくりですわよ、みゆちゃん。それこそ、呼吸をするのと同じくらい、自分を偽って生きていた時期もありましたわ」
咲子の瞳が、遠い記憶の地平を見つめるように細められました。それは1942年、世界中が激動の渦中にあった、彼女が17歳の頃の記憶です。
「当時、女学校に通っていたわたくしは、学校の活動として『慰問文』を綴ることになりましたの。それが、ある若き兵士の方との文通の始まりでした。……お恥ずかしい話ですが、彼に気に入られたくて、わたくしは必死に『理想の乙女』を演じましたのよ」
「えっ、おばあ様が?」
みゆが驚きで手を止めると、咲子は少しだけ悪戯っぽく肩をすくめました。
「ええ。本当はもっと騒がしく笑いたい質なのに、手紙の中では、どこまでも淑やかで、銃後の守りを健気にこなす慎ましやかな少女として振る舞ったのです。当時の手紙には、厳しい決まりがありましたのよ。『会いたい』や『行かないで』なんて本音は、検閲という分厚い壁に阻まれて、決して届きません。だからわたくしは、『御武運を』といった、どこかで借りてきたような勇ましい言葉ばかりを並べましたの」
自分の本当の願いを心の奥底へ押し込み、真っ白な嘘で塗り固めた便箋。
けれど、言葉にできない募る想いだけは、便箋の隅にそっと季節の押し花を添えることで、静かに託していました。
「おばあ様にも、そんな切ない時代があったんだね……。なんだか、意外」
「ええ。でもね、みゆちゃん。理想の姿が褒められれば褒められるほど、わたくしの心には冷たい隙間風が吹き抜けました。彼が愛しているのは、わたくしが必死に作り上げた『偽りの乙女』であって、生身のわたくしではありませんでしたから」
咲子は懐かしそうに、けれど少しだけ寂しそうに目を細めました。
17歳の咲子が抱えた、言葉にできない葛藤。その物語は、さらに切ない夜へと続いていきます。
「……それに、もう一人。わたくしには、どうしても本音を言えなかった相手がおりましたのよ」




