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伯爵の逃亡

 劣勢と見たのか、もはやここに用はないと判断したのか、ブレンディア伯爵は待機していた馬車で会場から逃れた。

 途中、どこからともなく現れた部下の誘導に従い、未完成の橋を越えた。鉄骨がギィギィ軋んで、落ちそうな様子だが、どうにか速度を落として渡りきれた。

 生臭い川面に顔をしかめつつ窓越しに後ろを見て、満足気に笑みを浮かべた。名も知らぬ手下が板を川へ落とした。


「これでいくら追ってきても追いつくこともできまい。裁判所へ走らせろ」


 空飛ぶ馬が追い抜いた。


「な、何と!」

「ママ、追い抜いて。伯爵よりも早くカルディのところに行かないといけない」

「フリーダム号!奴には構わないで!」


 アマランタは叫んだ。フリーダム号に突き放されたブレンディア伯爵が、御者に苛立ち、空に潜んでいた翼人に窓越しに追いけろと命じた。


「レメディオスは殺すな!」


 新都市開発の目玉でもある裁判所は、ロイロット発祥の地から少し離れた場所に建てられていた。市民たちは、国に認められた専門家による裁判に期待を寄せた。

 都市のシンボルだ。平等とは美しい響きだが、それを維持しようとするものは多くはない。たいていは日々の暮らしに追われ、いつしかすべてを法律の専門家や政治家に任せる。しかしブレンディア伯爵はそうではない。市民がそうしている間、わずかなカネと自由、巨大な恐怖で縛られた部下が街路から街路、街全体を支配する。

 天使や死神ですらひれ伏すのだ。

 

 しばらくして馬車が裁判所の前で停まった。ブレンディア伯爵は、外套を跳ね上げて心躍らせながら、堂々とした階段を駆け上がると、広い庇の下、すでにバリケードが構えていた。するとそこにロイロット伯爵が必死に追いかけてきた。


「よく生きていられたな」

「大変だ。妻は死んでいない。我々はアマランタにだまされたんだ。舞踏会場の仲間が殺された」


 倒れたのは演技なのか。ブレンディア伯爵の頭の警報が、このままロイロットと一緒にいてはいけないと伝えてきた。


「君はここにいたまえ。私の部下が完ぺきに守る砦だ。私は玉座に行く。これから造られる新都市の支配者を迎えるのだ」

「妻は我々の敵に玉座のことを話した」

「心配性だな。我々には敵などいない。考えてもみたまえ。我々には守護天使がいるんだぞ。そして間もなくかのウォルターハウスの守護天使を継ぐものも来る」

「信じていいのか?天使や死神など私は見たことがないんだ。絵空ごとではないのか?」

「これまで私が生きてこられたのは、ウォルターハウスの守護天使に守られていたからだ。代々継がれる天使の加護に。守護天使の力は妻に継がれ、娘に継がれた。そして新都市を新世界を支配するのだよ」


 二階で騒動が起きた。

 ブレンディア伯爵は、ロイロット伯爵を残して、酒と汗と煙草臭い砦を抜けて裁判所の一階エントランスから廊下を奥へと進んだ。途中、ブライアンが現れて、中折れ帽で口を隠しながら伯爵に耳打ちした。


「我々の集めた魂はすでに玉座の間に敷き詰められています。伯爵のために」

「ブライアン、君たち死神のギルドは新しい都市にも必要だ。よく尽くしてくれた」


 廊下を奥へ進んだ。こんな騒動の中でも伯爵は心を躍らせているのか、冷たく暗い大理石の廊下を靴音が弾んでいた。カンテラで案内するオレンジの灯も、昇る朝の光のように未来を暗示しているようだ。


「別に残念な知らせも。コカインの取引が失敗しました。ロイロット伯爵に警察の捜査が及ぶかと」

「生かしておく価値もない奴だ。どうやら奴はここまで逃げきれたのではないな」

「泳がされているようです」

「しばらくここはおまえたちで防いでもらいたい。ちゃんと使える死神を集めているんだろうな?」

「むろん」


 ブライアンは別れ、バリケードで待ち構える仲間たちの指揮を執るために戻った。

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