俺、誰?
アマランタはガウンをまとい、机の上の粉薬を集めはじめた。ブレンディア伯爵が来たときはハラハラしたということだ。幸いにも鎮静剤を処方されていたのでごまかせたような気がすると笑っていた。
イシグロは拳銃を拾い上げて弾倉を確かめようとして古いものだと気づいた。
「中折式のダブルアクションよ」
「また古風な趣味だな」
「この世界では最新式よ」
「……?」
イシグロはスプリングの効いたベッドに腰を掛けて壁に銃口を向けた。ベッドサイドにはオイル式の小さなランプとマッチ箱がある。目の前には華奢な金髪のボブカットだったはずのマリアが、アマランタという長い黒髪の姿で立っていた。
「あなたの好きな本で言えば、ここはヴィクトリア朝ね。ホームズはいないけど」
マリアは抱き締めてきた。
「来てくれるなんて。あなたなのね?」
「そのまんまだろ?」
ダークスーツに着込んだイシグロは椅子に腰を掛けて持っていた本を開いた。
☆☆☆ ☆☆☆
ブレンディアの星が消えた。ライアン・ブレンディアが戦死したのだ。祖国のために命を散らしたのだ。不幸は続いた。レメディオスが病に倒れるとは!神よ、何故に!レメディオスを救いたまえ!諸君も祈ろうではないか!
☆☆☆ ☆☆☆
「何か思い出してきた。この本を読もうとしていたんだ。よくわからん本だ」
「三年前、わたしの夫らしいライアンが他界してから、娘のレメディオスの体の様子が変なの。何で薄暗い格好してるの?」
「知るかよ。しかも今夜ようやく体を手に入れられたんだ。ちなみになぜおまえの娘のレメディオスは命を狙われてるんだ?」
「わからない。わたしも調べたわ。薬の知識はあるのよ。でもよくあんな怪しいチョコ食べようとしたわね」
「小娘が怪しいのか」
「医者とね」
書斎机から薬包紙を出した。
「たぶんコカインよ。これでもコカインには詳しいんだから。前世で散々……」
「レメディオスの父親は伯爵か?」
「息子のライアンだけど、伯爵ということにしてあるみたいね。なぜだかわたしにはわからない。アマランタは夫の死に絶望して死のうとしたらしい。そこにわたしがやって来たのよ。わかるかな」
「ややこしいが、信じるしかない。俺にはこの世界のことがよくわからない。調べてからだな。遺産争いに巻き込まれてるんじゃないのか」
小説には、こう記されていた。
☆☆☆ ☆☆☆
レメディオスが誘拐された。月の綺麗な夜に彼女は悪魔に連れ去られたのだ。病に伏しているレメディオスに、神はさらに苦難を与えようとしているのだ。悲嘆に暮れたアマランタは気が触れたようになると、伯爵家の灯火が消えた。前妻の亡き今、アマランタこそ伯爵家になくてはならない人なのだ!
☆☆☆ ☆☆☆
イシグロは本を読んでいると、しばらくして不意に頭をはたかれた。昔も読み耽ると同じことをされた。マリアに話を聞いているのかと叱られたことを思い出す。
「わたしの話を聞かないわよね。まったく変わらないじゃないの。ちゃんと聞きなさいよ。共有することが愛なのよ」
「おまえは確かにマリアだ。なぜ俺とおまえで十年違うんだ?」
「何してたの?」
イシグロは考えた。死後、何をしていたのかと問われて答えられる奴などいるのかは別にして、実際何をしていたのか、なぜ十年もズレたのかわからない。
「おまえを守るために探した」
「探せるもんなの?」
「会えてる」
「ちなみにあなたは転生理解してる?」
「……?」
「してないわね。あなたは異世界へ来た。あなたが読んでいた小説の世界へ来た」
「本に転生するなんてね。スティーブン・キングの本に転生してたら殺されてる」
再び本を読みかけたとき、彼女は撃鉄を起こした拳銃をこめかみに突きつけてきた。
「読み込むな」
「これ、三巻だろ?帯にコミカライズ化とあるけどさ。こんな話おもしろいと思わないんだ」
「好みの問題だわ。娘のことよ」
「伯爵は娘に死んでほしくない。おまえに言うことを聞かせるために娘を人質にしてるんじゃないか。読まんとわからん」
イシグロは本をかざした。
「でも娘は死にかけてるわ」
「他に彼女を殺したい奴がいるんだ。娘に生きていられては困る奴が」
マリアは覗き込んできた。
「わたしたちが前世でプラトニックだったとは言わないわよね」
アマランタは引き出しから妊娠検査キットを出した。イシグロに記憶はある。あのときはどうして振る舞えばいいのかわからず、自分はこわごわ彼女を見ていた。
「わたしは覚えてる。あなたはレイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』を読んでた」
「ギムレットには早すぎる」
「わたしはいつもこれを持ち歩いてた。こんなろくでもないわたしでも子どもを授かることができたんだとね。あなたとの子どもを。でもわたしは守ることができなかった」
「俺もだ」
普通、転生は小説の登場人物に入れ替わることになるのだが、マリアはアマランタとして小説に登場し、娘のレメディオスを育てているのだと教えてくれた。
「たぶんあなた理解してないわね。これだからあなたは。レメディオスはわたしとあなたの娘なのよ。三人転生してきたの」
「だから十歳か」
「今頃気付いたの?」
ではイシグロは「誰」に転生したのか考えると、悩ましい。今鏡に映るのは美男子でもなく、イシグロ本人ではないか。
「おまえはアマランタだ。俺はライアンとかいう戦死した旦那とか?俺はライアンの顔とそっくりなのか?」
「そんなことどうでもいいわ。あなたはあなたなんだから」
「なあなあにしていいのか。ま、こうして守るために来たんだ。でもおまえの方が強くないか。部屋に誘い込んだだろ?」
「気のせいじゃない?たまたま鍵をかけるのを忘れたのよ。現にわたしはくたくた」
アリスはアマランタと呼ばれ、貴族でなくても傍に置いておきたくなる美しさだが、イシグロは自爆テロの爆弾として育てられた冴えない姿で転生していた。
「まさかあなた、娘の魂を奪いに来たんじゃないでしょうね?」
「死神前提で話してるのか?」
「あ、それもそうよね。でも前世で爆弾持ち帰ったときに、あなたは死神と言われてたじゃないの」
「俺は小説の誰なんだ?」




