イシグロとマリア再び
夕食時、伯爵はソフィアに尋ねた。都会へ出て垢抜けた気がする。アマランタも伯爵の考えを認めざるをえない。都会の匂いをまとっていた。いずれ伯爵の庇護の下、贅沢をし、社交界で華となる。
「ソフィア、学校はどうなんだ」
「勉強以外はいいわ。街には面白いところがたくさんある。レメディオスとも遊びに来ればいいわ」
伯爵の親戚筋になるという医者のハブナットは、今のところは体に痺れがあるようなので、都会には行けないと話した。
「元気になってからの話よ」
ソフィアは苛立った。まるでバカにされたような気持ち隠しきれないところは、まだまだ子どもだ。医者も一言多い。伯爵の後ろ盾があることを盾にしていた。
「レメディオスは薔薇園を見に行くこともできないの?車椅子でも?」
「今のところは」
アマランタの耳から三人の会話が遠退いた。ナイフとフォークを置いた。こんなところで娘を死なせない。不意に思った。
「お義母様、明日ハルトくんが来るのよ。クルーナ伯爵家の方よ」
「あ、お友だちのね」
ソフィアは少しはにかんだ。こういうところがわざとらしくもあるが、異性には魅力でもあるのだろうなと思いつつ尋ねた。
「どれくらいご滞在なさるの?」
「秋休み一週間ほどかも。わたしの薔薇園を見せてあげたいし。野駆けもしたいわ」
「お友だちは馬に乗れるの?」
「あ、聞いてなかったわ」
アマランタは、薔薇園はソフィアのものでもなければ、彼氏のものでもないと思いながら笑みを浮かべた。あれはレメディオスのために、ロベルトが育ててくれた。
「今年は小さな薔薇らしいわね。わたしの好みに合うかしら。ロベルトは考えが古いのよね」
「小さい薔薇は嫌い?」
「街では大きなのが流行なの。淡いピンクなんかも出てきてて華やかね。ハルトは薔薇に興味があるらしいの。だから見せてあげたくて」
夕食を終えたアマランタは、すぐにレメディオスの部屋に入った。丁度、レベッカが出てきたところで、少し水を飲んだことを伝えてくれた。医者が言うにはチョコレートは食べない方がいいらしいと、レベッカが付け加えた。
「聞いてくれたの?」
「お口にするものですから」
「ありがとう。気を使ってくれて。あなたはソフィアのところへ行きなさい。お待ちかねよ」
「奥様、レメディオス様の部屋にどなたかいらっしゃいませんか?」
「娘が何か話した?」
「い、いいえ」
アマランタは、レメディオスのベッドの脇の椅子に腰を掛けた。チョコレートのかすかな匂いで胸焼けしそうになる。
「レベッカ、お水飲ませてくれたわ」
「偉いわ。どんどん飲んでね」
「おトイレしたくなる。もう十歳なのにおねしょしたら恥ずかしいし」
「そんなの気にしないの。お酒飲んでクロゼットにおしっこした人もいるんだから」
アマランタは、イシグロのことを思い出しながら窓を見つめた。しばらくやわらかな沈黙が続いた。レベッカに死神のことを話したのかと尋ねると、レメディオスは何も話していないと答えた。しかしレベッカも窓を気にしていたと答えた。
アマランタは祈った。
ランプの灯がかすかに揺れる。
わたしは絶対に娘を守る。
でも来てほしい。
「おじさん、ママを見てるわ」
寒気がした。この期に及んで得体の知れないものが来れば、どうすればいいのかわからない。焦る手で石をいくつも繋いだ紐を出した。レメディオスの胸の上で震えるまで握り締めて、静かに体をかぶせた。
「この子だけは奪わないで。わたしは二度と失いたくない。わたしならいつ死んでもいい。だからこの子だけはお願い」
「ママ、落ち着いて」
アマランタの涙が止まらない。何とかしないとと思いながら、何もできないことに気が狂いそうになる。レメディオスがチョコレートのところを見たので、アマランタは腕で払い除けた。箱とチョコレートが床にばらまかれ、水差しが割れた。
「ママ、彼が驚いてるわ」
「来ないで!」
石飾りの紐をかざした。
扉が開いた。
「奥様!」
二人の召使いに抑えられ、殺してやろうかと力を込めたとき、伯爵とソフィアが現れた。アマランタは「いけない」ととっさに膝をついて泣いた。伯爵は召使いにアマランタを寝室へ運ぶように命じた。
□□□
騒ぎが済むまで、イシグロは窓際で腰を掛けていた。庭を歩く誰かの手にカンテラが揺れている。夜の番が仕事を終える頃、イシグロは窓際から離れた。昨夜よりも自分に触れやすくなっている。
眠っているレメディオスを起こさないように、廊下に出た。途中、チョコレートをつまみ食いした。二階へと上がると、食べていたチョコレートを吐き捨てた。
何か入れてあるな。
毒?
扉を静かに押し開いた。右の壁際の書斎机には、小さなランプが揺れていて、薬包紙が見えた。
奇妙だ。
誰もいない。
イシグロは瞬間、脇腹に衝撃を浴びた。とっさに彼女の膝を肘で受け止めつつ、ナイフを持つ手首をねじ上げるように、彼女をベッドに投げた。イシグロは素早く離れた。
強い。
イシグロは書斎机の三本の燭台に飛びついて、抵抗した。ロウソクが落ちて、絨毯を焦がした。とっさにアマランタは扉に背をつけて、二連装の小型拳銃を構えていた。
「あなた……」
イシグロの視野が狭くなる。チョコレートのせいだ。あんなものつまむんじゃなかったと思いつつ、膝をついたとき、アマランタが二連装の銃口を額に押しつけた。
「死神を殺せるのか?」
アマランタは降参したイシグロをベッドに倒した。
「あなたなのね?」
アマランタはイシグロの両腕を十字架のように広げると、窒息しそうな深いキスをしてきた。
「遅い、遅い、遅い!」
唇を離して静かに叫んだ。あふれてくる涙に構いもせずに、小さく拳でイシグロの胸を叩いた。
「マ、マリア……か」
「わたしのこと忘れたの?」
彼女は犬のようにキョトンと首を傾げた。イシグロの目にアマランタとマリアの姿が重なる。髪も瞳も姿も違うが、この抱き寄せた心地よさはマリアだ。
「おまえが爆発で死んだ。なのに今ここにいる。俺もおまえも」
「娘が話してた。窓辺に腰を掛けてる人。さっきもいたの?」
「弱くなった?」
「チョコのせいだ」
「食べたの?」
アマランタが起き上がろうとするイシグロを押さえた。信頼してくれていないのかと言うと、彼女は服を脱ぎながら抱き締めてきた。
「触れられるのよ、あなたに」




