迎え火という名の帰省
事の起こりは盆の五日前の、ビデオ通話だった。
「——で、話っていうのは、なんだ」
画面の中の父・高瀬航平は、単身赴任先の狭いワンルームで、缶コーヒーを片手に座っていた。
「うん。あのね、お盆に帰ってくる前に、ちゃんと言っておこうと思って。うちで預かってる子のこと」
「ああ、事情のある子っていう。……知り合いの子か?」
「知り合いっていうか……」
佳代子が言い淀んだ、ちょうどその時。
画面の奥を、洗濯物の籠を抱えた金髪の少女がしずしずと横切った。少女はカメラに気づくと、籠を抱えたまま、完璧な角度で一礼した。
「お初にお目にかかります。エルディアーナ・フォン・クロイツェルと申します。奥様には、一方ならぬご恩を賜っております」
そして、しずしずと画面から出ていった。
「…………」
「…………」
「誰!?」
「だから今から説明するって言ってるでしょ」
説明は一時間に及んだ。押し入れのくだりで、父は缶コーヒーを持ったまま長いこと黙り、最後に一言だけ言った。
「……分かった。盆に帰ったら、ちゃんと挨拶する」
「信じたの?」
「お前が四か月世話して、湊人が世話して、それでその子がそういう子なら——先に信じるのは、話の中身より、お前らの目だろ」
佳代子は少し笑って、通話を切った。
翌々日、高瀬家に巨大な段ボールが三つ届いた。差出人は父。品名の欄には几帳面な字で「照明器具」「文具」「その他」。
「……その他?」
*
盆の入りの前日、父が帰ってきた。玄関で靴を脱ぐなり、段ボールの無事を確認し、腕まくりをした。
「よし。エルちゃんの部屋、作るぞ」
空いていた二階の納戸に、通販の机と本棚を組み、そして父は、最大の段ボールを開けた。
シャンデリアだった。五灯式、アンティーク調、樹脂製クリスタル。
「父さん……なんでシャンデリア……」
「令嬢なんだろう」
「そういう問題じゃ……」
組み立ては、難航した。
「……説明書が、フランス語だ」
「絶対違うでしょ。貸して。……英語と中国語」
「フランス語っぽく見えたんだ」
「見えない」
三十分後。
「よし、点いた」
「……逆さよ」と佳代子。
「————」
さらに三十分後、シャンデリアは、六畳の納戸の天井に、正しい向きで、しかし少し傾いて灯った。
「でも傾いてる」と湊人。
「味だ」
父は、断言した。
そして、部屋に招き入れられたエルが、動きを止めた。
彼女は傾いたシャンデリアを長いこと見上げていた。樹脂のクリスタルが、夕方の光を、安っぽく、けれど確かに、七色に散らしていた。
「……わたくしの、ために」
「ん? ああ、まあ、あれだ。机と、本と、灯り。それだけあれば——」
「わたくしのために、灯りを」
エルは父に向き直り、この家で誰も見たことのない、最も深い礼をした。
父は慌てて礼を返した。
エルは目上に礼をされたことに恐縮し、さらに深く礼をした。
父も、負けじと、さらに深く礼をした。
「競わなくていいのよ」と佳代子。
二人はほぼ直角のまま、しばらく硬直していた。
「……高瀬航平様。当家の主に、正式にご挨拶申し上げます」
「はい」
「違う」と佳代子。「主は私」
「はい」と父。
エルの中の家長の座が、三秒で更迭された。
なお、残る二つの段ボールの中身は、羽ペンのセットと、チーンと鳴る卓上の呼び鈴だった。
「令嬢だから、必要だろうと思って」
「どこで必要だと思ったの……」と湊人。
エルは羽ペンを両手で捧げ持ち、真剣に言った。
「……このようなお心遣いを。大切に、使わせていただきますわ」
「使うんだ」
呼び鈴についてはエルは丁重に、しかしきっぱりと辞退した。
「人を鈴で呼ぶことは、いたしませんの。……ですが、お気持ちだけ、頂戴いたします」
呼び鈴は、結局、食卓の中央に置かれ、「おかわり要求ベル」として第二の人生を歩むことになった。最初に鳴らしたのは、まひるである。
*
その夜。
「部屋、できたぞ」
父は満足げに二階を指した。
エルはシャンデリアの灯りの下で本を読み、日記をつけ、就寝の時刻になると、灯りを丁寧に消して、階段を降り——いつものように、湊人の部屋の押し入れの襖を、静かに閉めた。
廊下でそれを見ていた父は、長いこと、無言だった。
翌朝。
「……ベッド、固かったか」
「いいえ。大変、快適でございました」
「そっち!?」
「押し入れは、この家で最も良い寝所ですわ」
「シャンデリアは……」
「読書の折に、毎晩、灯しております」
「……そうか」父は、味噌汁を一口飲んで、立ち直った。「ま、灯りは逃げないしな」
立ち直りの早さも、この人の才能だった。
*
盆の入り。十三日の夕方。
「マッチ、どこだ」
「去年と同じとこ」
「去年も探したんだ」
「仏壇の引き出しの、左」
「……右にあったぞ」
「じゃあ今年から右ね」
玄関先に、父が焙烙を出し、折ったおがらを組んだ。佳代子が仏壇の鈴を鳴らし、湊人が、なんとなく神妙な顔で突っ立った。
「エルちゃんも、おいで」
エルは少し離れたところから、その支度をじっと見ていた。
「……何の、儀式ですの」
「迎え火。……ご先祖様がね、今日、帰ってくるの。だから、家はここですよって、火を焚いて、報せるのよ」
エルの目が、微かに見開かれた。
「……火で報せるのですか。『ここにいる』と」
「そうよ」
父が、マッチを擦った。おがらに、小さな火が移り、夕暮れの玄関先で、ぱち、ぱちと爆ぜ始めた。
エルは、その火を身じろぎもせず見つめていた。
線香花火の夜、無意識に振った自分の腕を、思い出しているようだった。夜に火を掲げ、遠くの者へ、ここにいると報せる作法。あちらの世界の、狩人と見張りの作法。
それと同じことを、この国は、死者に向かってする。
「……あちらとこちらの間でも、火は、届くのですね」
「届くって、うちのじいちゃんは信じてたな」と父。「科学的にどうかは知らんが、まあ——届くつもりで焚く火は、届くんだろ」
火が、燃え尽きるまで、四人は玄関先にいた。
最後の煙が、まっすぐに夕方の空へ昇っていった。
「……お伺いしても、よろしいかしら」
エルが煙の行方を目で追いながら言った。
「帰ってこられたご先祖様は、盆が終われば、どうなさいますの」
「十六日にね、今度は送り火を焚くの。それで、また向こうへ帰るのよ」
「……帰って。また、来年、戻られる」
「そうよ。毎年」
エルは、しばらく、黙っていた。
それから、誰にともなく、とても静かに言った。
「……良い行き来ですわね。帰る者にも、迎える者にも、優しい仕組みですわ」
その横顔を、父がちらりと見た。
何も言わなかった。ただ、焙烙の灰を片付けながら、一度だけ、玄関の奥——二階の、押し入れのある方角へ、目をやった。
*
夕食は盆らしく、精進とは名ばかりの大皿料理だった。父の好物の唐揚げが、堂々と中央にあった。
「ところで」父が、ビールを注ぎながら言った。「エルちゃんは、いつまでいられるんだ、うちに」
「あなた」
「いや、責めてるんじゃなくてな。単純な確認だ」
「……最初はね」佳代子が、麦茶を注ぎながら、遠い目をした。「一週間だけ、って言ったのよ、私」
「四か月前にね」と湊人。
「更新の手続きは」
「無期限自動更新」
「契約書は」
「ない」
「保証人は」
「いない」
「審査は」
「押し入れ通過」
「うちの契約、ゆるいな」
笑いが起きた。エルだけが箸を置いて、生真面目に頭を下げた。
「ご厚情に、甘え続けております。……お家賃の代わりと申してはなんですが、家のことは、引き続き」
「ああ、それな」父が、唐揚げを取りながら、こともなげに言った。「風呂場のカビが落ちてた。あれ、エルちゃんだろ。……単身赴任五年目の男はな、ああいうのが一番、家に帰ってきたって思うんだ」
「まあ」
「シャンデリアより効くこと言うじゃない、あなた」
「シャンデリアも効いてるだろ」
「灯りは逃げませんもの」と、エルが真顔で加勢した。
「ほらみろ」
食卓は、賑やかだった。呼び鈴が、チーンと鳴った。誰も呼んでいないのに、湊人がおかわりの茶碗を差し出していた。
その賑やかさの中で、エルは、ふと窓の外を見た。
玄関先の迎え火は、もう消えていた。けれど、町のあちこちで、同じ火が焚かれたのだろう。夜気に、微かにおがらの匂いが残っていた。
あちらとこちらが、火で繋がる季節が、始まっていた。




