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盆踊りという名の輪舞曲

祭りの日の夕方、洋品店ふじさきは、臨時の楽屋になっていた。

「はい、息止めて。——よし」

小百合の手が、きゅ、と帯を締めた。紺地に撫子の浴衣は箪笥の底から出てきた、小百合の若い頃のものだった。

「……あんた、着付け甲斐があるわねえ。姿勢がいいから、帯が仕事するわ」

「苦しく、ございませんの?」

「苦しいのよ、浴衣ってのは。苦しいのを綺麗に着るの。舞台と同じ。……いい? 歩幅は、いつもの半分」

「半分」

「転ばない」

「努力いたします」

「裾を踏まない」

「努力いたします」

「走らない」

「……努力、いたします」

「今ちょっと怪しかったね」

エルが帯の感触を確かめながら、袖口に手をやった。メモ帳の定位置だった。

「浴衣でメモ帳出さない」

「では、記憶いたします」

「……それができる子だった」

鏡の前に、金髪に撫子の、妙な取り合わせが立った。妙なのに、成立していた。小百合は鏡の中の出来栄えを五十年前の目で検分し、満足げに頷いた。

「……よし。花道、行っといで」

店の外では同じく浴衣のまひると、なぜかテニスウェアの凛が待っていた。

「凛、あんたなんでその格好」

「動きやすいから」

「祭りに機動力いらないでしょ」

銀星会商店街の夏祭りは、アーケードを出てすぐの、小さな神社の境内でやる。

櫓はひとつ。提灯は五十ばかり。屋台は商店街の面々が自前で出す。焼きそばは肉屋で、かき氷は八百屋で、射的は豆腐屋で、金魚すくいは、なぜかクリーニング屋だった。境内の隅には源さんの軽トラが停まり、「冷やし焼き芋」の貼り紙の前で、源さんが団扇を使っていた。エルは通りすがりに深く一礼し、源さんは団扇を半分だけ上げて応えた。それだけで、通じた。

エルは境内の入口で足を止めたまま、動かなかった。

「……エル、そんなに珍しい?」

「ええ」

彼女は提灯の列を見上げた。

「灯りが、あたたかいのですね。わたくしの国の夜会は、もっと白い光でしたわ。影ができないほどの。……ここの灯りは、影ごと、あたたかい」

「詩人か」と、まひるが綿あめを差し出した。「ほら、食べる。しゃべってないで」

射的の屋台の前で、エルの足が止まった。コルク銃の列と、菓子の並んだ棚。

「……これは、武芸の御前試合ですのね」

「違う。ただの射的」

エルはコルク銃を両手で受け取り、構え——五発、撃った。

命中、零。棚の菓子は、一つも揺れなかった。

「……もう——」

「はい、これ持ってけ」

豆腐屋の店主が棚からラムネ菓子をひょいと取って、差し出した。

「命中して、おりませんが」

「祭りなんだから、いいんだよ」

エルはラムネ菓子と店主を順に見た。対価なき品。いつもなら、固辞する場面だった。

三秒、迷って、彼女は両手で受け取った。

「……頂戴、いたします」

「成長した!」と、まひるが謎の拍手をした。

金魚すくいの水槽の前で、エルの足が、再び止まった。

「……勝負、ですのね」

「勝負じゃない。遊び」

遅かった。エルは既に、店主——クリーニング屋の主人の前に、三百円を置いていた。主人は、「変な外国人」と最初に言った、あの人だった。彼は無言でポイを一本、突き出した。

結果。エルのポイは水面に触れた瞬間に破れた。二本目も破れた。三本目は金魚に触れる前に破れた。

「……もう一度です」

「浴衣で粘るな」とまひる。

クリーニング屋の主人は、破れたポイの山を見て、それから、エルの顔を見た。

「……あんた、下手だな」

「ええ。ですから、もう一度」

主人はしばらく黙って、それから、新しいポイを一本、無言で置いた。三百円は、受け取らなかった。

「……客寄せだ。勘違いすんな」

四本目で、エルは、小さな出目金を一匹、すくった。境内に、まひると凛の歓声が上がった。主人は袋に水を入れながら、ぼそりと言った。

「……変な子だ」

外国人が、子になっていた。誰も気づかなかった。本人たちも。

太鼓が、鳴り始めた。

櫓を中心に、輪ができていく。浴衣のおばあちゃんたち。子供。Tシャツのおじさん。手つきはばらばらで、誰も正確には踊っていなくて、誰も気にしていなかった。

エルは金魚の袋を湊人に預け、その輪を長いこと見ていた。

「……湊人様」

「はい」

「あの踊りは、どなたと踊っておりますの」

「え? 誰とって……別に、誰とでもないですけど。みんなで、こう、ぐるぐる」

「相手を、選ばないのですか」

「選ばない、ですね」

「序列も」

「ないです」

エルは、もう一度輪を見た。

背の曲がったおばあちゃんの隣で、保育園くらいの子が、でたらめに手を振り回している。誰も正さない。誰も競わない。輪は、ただ、回っている。

「……全員が、相手ですのね」

「エル、行くよ」

まひるが当然のように腕を引いた。

「お待ちなさい、まひる。作法を、存じませんの」

「誰も知らないから大丈夫」

「……そのような祭礼が、ございますの」

引かれるまま、彼女は下駄を鳴らして、輪の中へ入っていった。

二周、見て覚えた。

三周目から、彼女は完璧に踊っていた。

いや——完璧、では足りなかった。同じ振りのはずなのに、指先の返しが、腰の据わりが、違った。盆踊りが彼女の体を通ると、別の何かになった。周りのおばあちゃんたちが、ひとり、またひとりと、踊りながら彼女を見た。

「……うっそ。エル、テニスあれだったのに」

「踊りだけは、ガチなんだよ、たぶん」

輪の外れで、小百合が、団扇を止めて、じっとその踊りを見ていた。何かを言いかけて、言わずに、ただ目を細めた。舞台の人の目だった。

湊人は、輪の外から見ていた。

提灯の灯りの下、エルは、笑っていた。声を立てずに、でも、確かに笑っていた。この四か月で、いちばん、笑っていた。

太鼓が、二巡目に入る。

手拍子が、揃い始める。

——その時だった。

エルの視界の端で、提灯の灯りが、揺れた。

揺れて——白く、なった。

——シャンデリア。

——磨かれた床。回る、視界。手拍子は、拍手に。輪になった顔は、夜会の衆目に。皆が、わたくしを見ている。あの夜も、こうして。囲まれて。囲まれて、いて。

——その中に、一つ。

——笑っていない、目が。

下駄が、半歩、遅れた。

隣のおばあちゃんがよろけたエルの肘を、しわだらけの手でひょいと支えた。

「おっとっと。……大丈夫かい、お嬢ちゃん」

「————」

エルはそのおばあちゃんの顔を見た。

知らない顔だった。笑っていた。目まで、笑っていた。

提灯は、赤かった。手拍子は、ばらばらだった。輪の中の顔は、誰も、彼女を囲んでいなかった。ただ、隣で、一緒に回っているだけだった。

「……ええ」

エルは、息を、ひとつだけ吸った。

「大丈夫、ですわ」

そして、踊り続けた。最後の太鼓まで、輪を抜けなかった。

湊人は輪の外からそれを全部見ていた。

半歩の遅れも。支えられた肘も。その後の、いつもより深い、呼吸も。

湊人は、その半歩を、覚えた。

何も言わなかった。その代わり、忘れないことにした。

(——いつか、聞かなきゃいけない日が、来る気がする)

帰り道は、五人だった。父と佳代子が先を歩き、湊人が金魚の袋を提げ、エルとまひるが、下駄の音を鳴らして続いた。

「エル、盆踊り、どこで習ったの」

「先ほど、あの場で」

「見て覚えるやつの言うことじゃないのよ、それ」

「父さん」と、湊人が前に声を投げた。「金魚、どうする」

「ん。一家の主として判断すると——」

「誰も判断求めてないから」

「金魚鉢は、明日ホームセンターだな。……令嬢用の、いいやつを」

「金魚に令嬢用はない」

まひるは途中の角で、あくびをしながら手を振って帰っていった。凛はテニスウェアの機動力を活かして、とうに走って帰った。

家に着き、金魚は、洗面器で一晩を過ごすことになった。エルは洗面器の縁にしゃがみ、出目金を長いこと眺めていた。

「名前、つけるんですか」

「……生還者、と」

「もっとかわいい名前あるでしょ」

「三本のポイの犠牲の上に、生きておりますのよ、この子は」

「重い重い重い」

風呂を使い、歯を磨きに来た湊人は、洗面器に向かって深く一礼する浴衣の背中と、すれ違った。

「……生還者。おやすみなさいまし」

「金魚に挨拶してる……」

灯りが消え、家は、静かになった。

夜半。

エルは自室——湊人の部屋——の押し入れの前に、浴衣のまま、座っていた。

眠れなかったわけではない。ただ、今夜は、襖を開ける前に、少しだけ座っていたかった。

良い夜だった。灯りはあたたかく、輪は途切れず、誰の手も、打算を持っていなかった。

(……この世界は)

思いかけた、その時。

——み、と。

音が、した。

襖が、鳴ったのだった。風もないのに。誰も触れていないのに。木と紙の建具が、内側から押されたように、微かに軋んだ。

エルは、動かなかった。

ただ、匂いがした。

夏の畳の匂いに混じって、ほんの一筋——冷たい、石の匂い。黴と、鉄錆の。

忘れるはずのない匂いだった。四か月前まで、彼女は毎晩、その匂いの中で眠っていた。

「…………」

エルは音を立てずに襖の前へにじり寄った。

手のひらを、そっと襖に当てる。

建具は、もう、鳴らなかった。石の匂いも、気のせいだったように、夏の夜の匂いに戻っていた。

彼女は、長いこと、そのままでいた。

やがて、手のひらを当てたまま、囁くように、誰にともなく、問うた。

「……どなた、ですの」

答えは、なかった。

遠くで、祭りの後片付けの、軽トラの音がした。

廊下の暗がりで——湯上がりの麦茶を取りに降りようとしていた父が、足を止めていた。

細く開いた襖の隙間から、押し入れの前に座る浴衣の背中が、見えていた。

父は、声をかけなかった。

音を立てずに階段を降り、台所の灯りもつけずに麦茶を一杯だけ飲み、そして、縁側の網戸の向こうの、まるくなる少し手前の月を、長いこと見ていた。

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