送り火という名の約束
盆の中日、高瀬家の男たちは、ホームセンターにいた。
目的は、金魚鉢一つ。のはずだった。
「……父さん、それ何」
「城だ」
父の籠の中には金魚鉢と、水草と、そして、水槽用の、小さな西洋の城の置物が入っていた。
「なんで城」
「令嬢の金魚だろう」
「金魚に身分はない」
「エルちゃんが世話するんだ。景観は大事だぞ」
議論は、成立しなかった。この家の議論は、だいたい成立しない。
帰宅して、金魚鉢が設えられた。水草が揺れ、城が沈み、生還者が、その天守を悠々とくぐった。
エルは鉢の前に正座し、長いこと、それを眺めた。
「……良い、居城ですわ」
「気に入ったか」
「生還者も、領地を賜りましたのね」
「そうだろう、そうだろう」
父は、満足だった。湊人だけが、金魚に領地を与える会話を聞きながら、麦茶を飲んでいた。ツッコミは、追いつかない日もある。
*
送り盆の前夜だった。
風呂上がりの湊人が麦茶を取りに台所へ降りると、縁側の網戸の向こうに、父の背中があった。缶ビールと、蚊取り線香。年に数えるほどしか見ない、家の中の父の背中だった。
「湊人。ちょっと座れ」
「……なに」
「いいから」
湊人は麦茶のグラスを持って隣に座った。庭は暗く、蚊取り線香の煙だけが、ゆっくり動いていた。
「エルちゃんの部屋な。あれで良かったかね。机とか、棚とか」
「いいんじゃない。……シャンデリアは、やりすぎだと思うけど」
「そうか。やりすぎたか」
父は悪びれずにビールを飲んだ。
「でも喜んでたぞ。『わたくしのために、灯りを』って。……まあ、寝るのは今夜も押し入れらしいけどな」
「そういう人なんだよ」
「みたいだな」
しばらく、蚊取り線香だけが働いていた。
「……世間にはな、知人の子を預かってるとか、交換留学とか、なんとでも言える。そこは母さんとやっとくから、お前は心配しなくていい」
「うん」
「それより、この先のことだ」
父は庭の暗がりを見たまま言った。
「学生のお前は、深く考えないんだろうけど……考えなきゃいけないんだろうな、いつかは。あの子が、どこの誰で、どこへ帰るのか。帰れるのか。帰るとして——うちは、それをどうするのか」
「…………」
「答えろって話じゃない。言わないままでも、いいけどね」
湊人は、麦茶を一口飲んだ。氷が、グラスの中で崩れた。
「……父さんはさ」
「ん?」
「信じてるの? 押し入れから来たって話」
父は、すぐには答えなかった。缶を縁側に置き、蚊取り線香の灰を、指先で軽く落とした。
「……母さんの家系な。あいつは言いたがらないから、内緒にしとけよ。——先祖は、巫女だったらしい」
「……は?」
「といっても、何ができるって家でもない。ただ、そういう筋の家だった、ってだけの話だ。……何かしらの、縁なのかもな」
「縁って……」
「かぐや姫って、あるだろう」
父は、話を飛ばした。飛ばしたように見えて、飛んでいなかった。
「竹から出てきた子を、爺さんと婆さんが育てる。うんと可愛がって、うんと大事にして……最後は、月に帰る。爺さん婆さんは、引き留められない」
「……うん」
「雪女でも、鶴でもいい。この国の昔話はな、よその世界から来た客を、家に上げる話ばっかりなんだ。上げて、情が移って、それで——いつかは、帰す」
蚊取り線香の煙が、途切れて、また続いた。
「爺さん婆さんは、可哀想か?」
「……え?」
「かぐや姫の爺さん婆さんだ。可哀想だと思うか」
湊人は考えた。月を見上げる、昔話の挿絵の老夫婦を思い浮かべた。
それから、別のものを思い浮かべた。祭りの夜の、半歩遅れた下駄を。支えられた肘を。押し入れの前の、浴衣の背中を。
「……可哀想、だけど」
「けど?」
「……竹のままより、良かったんじゃないの。育てた分は」
父はしばらく黙って、それから、ふ、と息だけで笑った。
「……そうか。なら、いい」
缶ビールを取り、一口飲んで、父は立ち上がった。
「私はな、湊人。ああいう話は、ああいうものとして、理解できてるつもりだ。……だから、お前がいつか何か決めることになっても、父さんは驚かない。それだけ、言っとこうと思った」
「……なにそれ」
「さあな。……ああ、それと」
父は網戸に手をかけて、思い出したように言った。
「押し入れ、建て付け見といたけどな。どこも悪くないぞ、あれ。……悪くないのに、たまに鳴るんだな、夜中に」
「————」
「古い家だからな。……ま、スイカ食って寝ろ」
網戸が、閉まった。
湊人は、一人、縁側に残された。
庭の暗がりの上に、盆の月が出ていた。
まるくは、なかった。まるくなる、少し手前だった。
*
十六日の夕方。送り火。
「マッチは」
「今年から右」
「……あった」
玄関先に、焙烙が出され、おがらが組まれた。迎え火と同じ支度を、同じ順で。ただ、家の中の空気だけが、少し違った。三日間いた誰かを送り出す夕方の空気だった。
父がマッチを擦る、その前に。
エルが、一歩、進み出た。
「……佳代子様。一本、わたくしにも、くべさせていただけませんこと」
佳代子は少しだけ驚いた顔をして、それから、何も訊かずに、おがらを一本、手渡した。
「どうぞ」
火が、点けられた。
夕暮れの玄関先で、小さな炎が、ぱち、ぱちと爆ぜる。ご先祖様がこの火を目印に、あちらへ帰っていく。また、来年、戻ってくるために。
エルは手の中のおがらを静かに火にくべた。
誰を送るのか、誰も訊かなかった。
彼女は立ちのぼる煙をまっすぐに見上げていた。
その胸の内で、誰にともなく——いえ。あちらの、どなたかへ。
(——わたくしは、ここに、おります)
火を掲げて報せる、あちらの作法で。火を焚いて送る、こちらの作法で。
(罪人として隠れも、逃げもいたしません。ここで、力を蓄えております。……ですから)
煙は、まっすぐに夕方の空へ昇っていった。
(——いずれ、参ります)
火が燃え尽きるまで、五人は、玄関先にいた。
誰も、何も言わなかった。父だけが、一度、エルの横顔を見て、それから、灰を片付け始めた。
*
盆が明けて、父が赴任先へ戻る朝が来た。
玄関で、革靴を履きながら、父は振り返った。
「じゃ、行ってくる。……湊人、母さんを頼む。母さん、家を頼む」
「はいはい」
「エルちゃん」
「はい」
エルは廊下の奥で、深く礼をしかけて——父が慌てて礼を返しかけて——佳代子に「競わない」と制されて、二人とも中途半端な角度で止まった。
「……次に帰るのは、正月だな」
父は鞄を持ち直して、なんでもないことのように言った。
「——いるか?」
短い問いだった。
いつまでいるのか、帰ってしまうのか、帰れてしまうのか。誰も正面から訊かなかったことを、この人は、玄関先の三秒で訊いた。
エルは、まっすぐに父を見た。
そして、まっすぐに答えた。
「——おります」
「そうか」
父は頷いて、ドアを開けた。
「城の水、換えてやってくれ。……あと、シャンデリアの電球、換えは棚の上な」
ドアが、閉まった。
夏の朝の光が、廊下に戻ってきた。佳代子が「さ、洗濯」と言い、湊人があくびをし、金魚鉢の中で、生還者が城の天守をくぐった。
エルは閉まったドアに向かって、もう一度だけ、今度は誰にも競われない、完璧な礼をした。
*
その夜、エルは、シャンデリアの下で日記をつけ、灯りを消し、階段を降りた。
押し入れの襖に、手をかける。
建具は、あれから、一度も鳴っていない。石の匂いも、していない。
けれど、彼女は知っていた。あれは、気のせいではなかった。あちらとこちらの間で、何かが、確かに、こちらに触れた。盆という、火で報せ合う季節に。
(……次に扉が触れてくるのが、いつなのか。それを、調べます)
図書館の、天文と暦の棚を、思い浮かべる。
(力も、貯めます。給金も。焼き方も。……この街での、わたくしも)
襖を、静かに閉めた。
夏が、ゆっくりと秋へ傾き始めていた。
焼き芋の、季節が来る。




