試作という名の弟子入り
朝晩の風が変わったのは、盆が明けて半月ほど経った頃だった。
エルは縁側で洗濯物を畳みながら、ふと手を止めた。まだ咲いてもいない金木犀の匂いの気配だけが、庭の隅から先に届いた気がした。
「……湊人様」
「はい」
「空気が、乾きましたわね」
「ああ、秋ですね。もうすぐ」
「秋」
エルはその音を確かめるように繰り返した。
「では、あの声も本番を迎えますのね」
湊人が意味を掴む前に、遠くの住宅街から間延びした声が流れてきた。録音の、あの声だ。
『い〜しや〜きいも〜……』
エルの背筋が条件反射でぴんと伸びた。
「湊人様」
「行ってらっしゃい」
まだ何も言っていなかった。
*
源さんは、公園の南口にいた。
軽トラの荷台の窯からは、夏よりも太い煙が立っていた。貼り紙が「冷やし焼き芋」から「石焼き 紅はるか」に戻っていた。
「……また来た」
源さんが窯の蓋に手をかけたまま呟いた。
「参りました」
エルが、深く一礼した。
「知ってる」
挨拶は三週間ですっかりこの形に落ち着いていた。
「本日は、いかがですの」
「紅はるかだ。言ったろ、来週はって」
「一か月半前ですわ」
「そうか。……まあ、来た」
源さんは軍手で蓋を開けた。ぶわ、と甘い湯気が立ちのぼる。エルはその一瞬、目を伏せた。祝祭の香り、と最初に呼んだ匂いだった。今もそう思っているのは、たぶん、変わっていない。
「三本、賜りたく。……それと」
エルは封筒から千円札を抜き、それから窯のほうへ、控えめに顎を向けた。
「一本、焼かせていただけませんこと」
「弟子はいらん」
「存じております」
「知ってて言うのか」
「弟子ではなく、客ですわ。芋を買った客が、自分の芋を自分で焼く。……道理は通っておりますでしょう」
源さんはしばらくエルの顔を見ていた。それから鼻を鳴らして、軍手をもう一組、荷台から放って寄越した。
「焦がしたら、その一本ぶんも払え」
「喜んで」
*
エルの焼き芋修行は七月から数えて、そろそろ一か月半になる。
最初の一本は失敗した。慎重すぎて十秒、引き上げが遅れた。皮の一面が焦げの一歩手前まで行き、中まで火が通りきらなかった。以来、彼女は毎週その十秒と戦っている。
今日は、その十秒を、こらえた。
石の層に芋を置き、火を底で保ち、頃合いを計る。せっかちに引くのでも、慎重に待ちすぎるのでもなく——ちょうどの一瞬で、彼女は芋を引き上げた。
源さんがそれを横目で見ていた。
割ると、黄金色の断面から蜜がにじんだ。焦げていない。固くもない。エルは自分で割った芋を、しばらく見つめていた。
「……源さん」
「言うな」
「まだ何も」
「顔に書いてある。誉めろって書いてある」
「書いておりません」
「書いてあった」
源さんは団扇で自分をあおぎながら、そっぽを向いた。それから、あおぐ手を止めずに、ぼそりと言った。
「……焦げの一歩手前で、手が止まるようになった。それだけだ」
「————」
「弟子はいらん。念のため言っとくが」
「ええ。念のため、承っておきますわ」
エルはその一本を、とても丁寧に食べた。皮まで食べようとして、源さんに「そこは食うな」と止められた。この春、湊人が止めたのと、同じ場所だった。
包みを抱え直し、エルは深く一礼した。
「では源さん、また来週」
「……また来週な」
言ってから、源さんはばつが悪そうに、言い直した。
「——いや。来たきゃ、来い。約束みてえに言うな」
「承知いたしました」
「返事だけは、いいな」
*
帰り道、エルはまだ、自分で焼いた一本のことを考えていた。
誉められたわけではない。源さんは本物だとも上手いとも言わなかった。ただ「手が止まるようになった」と言った。それだけだ。それだけが封筒の給金と同じ重さで、胸のどこかに乗っていた。
(一か月半、かかりましたのね。十秒に)
悪くない、と思った。向こうでは、できて当然だった。教養も、礼も、人の読み方も。幼い頃から仕込まれ、身につくのが当たり前で、身につけたところで誰も誉めはしなかった。
できなかったものが、時間をかけて、できるようになる。この街に来てから覚えた種類の充足だった。
夕方の商店街を抜けようとして、角を曲がりかけた。
その時、聞くつもりもなく、声が耳に入った。
「——親父」
エルの足が、止まった。
角の向こうに、源さんの軽トラが停まっていた。荷台の横で、源さんが見ない顔の男と向かい合っている。五十がらみの、くたびれた背広の男だ。
「もういいだろ。その腰で、いつか窯の前で倒れんぞ」
「うるせえ」
「うるせえじゃねえよ。母さんだって心配して——」
源さんは答えず、荷台の縁に腰を掛けようとして、掛けきれずに、片手を腰に当てた。
男の顔がほんの一瞬、痛そうに歪んだ。怒っているのではなかった。案じている顔だった。
エルは、そこから動かなかった。
一歩前に出るべき場面ではない、と分かっていた。ここには踏みつけられている弱い者がいない。いるのは意地を張る父と、それを本気で案じる息子だ。二つとも、正しい。二つとも正しい時、外の人間が割って入るのは、作法ではない。
だから彼女は、ただ、見ていた。
男が去り、源さんが一人で荷台を閉めるのを見届けてから、静かに角を曲がった。
*
家に着くと、佳代子が夕飯の支度をしていた。
「おかえり。……また焼き芋屋さん?」
「はい。本日で、三週続けて」
「あんた、行きすぎじゃないの」
「修業中ですので」
「焼き芋屋になるの?」
「……なる予定は、ございませんが」
一拍あった。
「可能性としては、否定いたしません」
「否定しなさいよ」
「……制服は、あの軍手でしょうか」
「もう就職してる気でいる」
佳代子は笑って、味噌汁の火を落とした。
湊人が二階から降りてきて、テーブルの上の新聞紙の包みに気づいた。
「あ、焼き芋。……この暑いのに、じゃなくて、もう秋か」
「秋ですわ」
「うまいですよね、これ。夏でも冬でも」
「湊人様」
「はい」
「秋の紅はるかは、夏のものとは、違いますのよ」
エルは、真剣にそう言った。ボケているつもりは、微塵もなかった。
「……そうなんだ」
「ええ。同じ品種でも、季節で、蜜の乗りが違いますの。源さんが、そう」
「へえ。……いや、それ、源さん本人が言ったんですか、それとも」
「わたくしの、舌が」
「舌が言った」
「ええ。舌は、正直ですもの」
「……その舌、源さんより信用できるかもしれない」
エルは少し考えてから、声をひそめた。
「源さんには、内緒に」
「言わないですよ、そんなの」
その夜、エルはシャンデリアの下で日記をつけた。今日の火加減のこと。十秒のこと。源さんの息子の、案じる横顔のこと。
最後の一行だけ、少し考えてから書いた。
——この街には、意地を張り通させてやることが、優しさになる相手もいるらしい。
書いてから、それをまだ誰にも言うまい、と思った。
灯りを消し、階段を降り、押し入れの襖に手をかける。
建具は、あれから一度も鳴っていない。石の匂いも、していない。
襖を静かに閉めた。
秋が、来ようとしていた。焼き芋の、本当の季節が。




