表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
12/33

試作という名の弟子入り

朝晩の風が変わったのは、盆が明けて半月ほど経った頃だった。

エルは縁側で洗濯物を畳みながら、ふと手を止めた。まだ咲いてもいない金木犀の匂いの気配だけが、庭の隅から先に届いた気がした。

「……湊人様」

「はい」

「空気が、乾きましたわね」

「ああ、秋ですね。もうすぐ」

「秋」

エルはその音を確かめるように繰り返した。

「では、あの声も本番を迎えますのね」

湊人が意味を掴む前に、遠くの住宅街から間延びした声が流れてきた。録音の、あの声だ。

『い〜しや〜きいも〜……』

エルの背筋が条件反射でぴんと伸びた。

「湊人様」

「行ってらっしゃい」

まだ何も言っていなかった。

源さんは、公園の南口にいた。

軽トラの荷台の窯からは、夏よりも太い煙が立っていた。貼り紙が「冷やし焼き芋」から「石焼き 紅はるか」に戻っていた。

「……また来た」

源さんが窯の蓋に手をかけたまま呟いた。

「参りました」

エルが、深く一礼した。

「知ってる」

挨拶は三週間ですっかりこの形に落ち着いていた。

「本日は、いかがですの」

「紅はるかだ。言ったろ、来週はって」

「一か月半前ですわ」

「そうか。……まあ、来た」

源さんは軍手で蓋を開けた。ぶわ、と甘い湯気が立ちのぼる。エルはその一瞬、目を伏せた。祝祭の香り、と最初に呼んだ匂いだった。今もそう思っているのは、たぶん、変わっていない。

「三本、賜りたく。……それと」

エルは封筒から千円札を抜き、それから窯のほうへ、控えめに顎を向けた。

「一本、焼かせていただけませんこと」

「弟子はいらん」

「存じております」

「知ってて言うのか」

「弟子ではなく、客ですわ。芋を買った客が、自分の芋を自分で焼く。……道理は通っておりますでしょう」

源さんはしばらくエルの顔を見ていた。それから鼻を鳴らして、軍手をもう一組、荷台から放って寄越した。

「焦がしたら、その一本ぶんも払え」

「喜んで」

エルの焼き芋修行は七月から数えて、そろそろ一か月半になる。

最初の一本は失敗した。慎重すぎて十秒、引き上げが遅れた。皮の一面が焦げの一歩手前まで行き、中まで火が通りきらなかった。以来、彼女は毎週その十秒と戦っている。

今日は、その十秒を、こらえた。

石の層に芋を置き、火を底で保ち、頃合いを計る。せっかちに引くのでも、慎重に待ちすぎるのでもなく——ちょうどの一瞬で、彼女は芋を引き上げた。

源さんがそれを横目で見ていた。

割ると、黄金色の断面から蜜がにじんだ。焦げていない。固くもない。エルは自分で割った芋を、しばらく見つめていた。

「……源さん」

「言うな」

「まだ何も」

「顔に書いてある。誉めろって書いてある」

「書いておりません」

「書いてあった」

源さんは団扇で自分をあおぎながら、そっぽを向いた。それから、あおぐ手を止めずに、ぼそりと言った。

「……焦げの一歩手前で、手が止まるようになった。それだけだ」

「————」

「弟子はいらん。念のため言っとくが」

「ええ。念のため、承っておきますわ」

エルはその一本を、とても丁寧に食べた。皮まで食べようとして、源さんに「そこは食うな」と止められた。この春、湊人が止めたのと、同じ場所だった。

包みを抱え直し、エルは深く一礼した。

「では源さん、また来週」

「……また来週な」

言ってから、源さんはばつが悪そうに、言い直した。

「——いや。来たきゃ、来い。約束みてえに言うな」

「承知いたしました」

「返事だけは、いいな」

帰り道、エルはまだ、自分で焼いた一本のことを考えていた。

誉められたわけではない。源さんは本物だとも上手いとも言わなかった。ただ「手が止まるようになった」と言った。それだけだ。それだけが封筒の給金と同じ重さで、胸のどこかに乗っていた。

(一か月半、かかりましたのね。十秒に)

悪くない、と思った。向こうでは、できて当然だった。教養も、礼も、人の読み方も。幼い頃から仕込まれ、身につくのが当たり前で、身につけたところで誰も誉めはしなかった。

できなかったものが、時間をかけて、できるようになる。この街に来てから覚えた種類の充足だった。

夕方の商店街を抜けようとして、角を曲がりかけた。

その時、聞くつもりもなく、声が耳に入った。

「——親父」

エルの足が、止まった。

角の向こうに、源さんの軽トラが停まっていた。荷台の横で、源さんが見ない顔の男と向かい合っている。五十がらみの、くたびれた背広の男だ。

「もういいだろ。その腰で、いつか窯の前で倒れんぞ」

「うるせえ」

「うるせえじゃねえよ。母さんだって心配して——」

源さんは答えず、荷台の縁に腰を掛けようとして、掛けきれずに、片手を腰に当てた。

男の顔がほんの一瞬、痛そうに歪んだ。怒っているのではなかった。案じている顔だった。

エルは、そこから動かなかった。

一歩前に出るべき場面ではない、と分かっていた。ここには踏みつけられている弱い者がいない。いるのは意地を張る父と、それを本気で案じる息子だ。二つとも、正しい。二つとも正しい時、外の人間が割って入るのは、作法ではない。

だから彼女は、ただ、見ていた。

男が去り、源さんが一人で荷台を閉めるのを見届けてから、静かに角を曲がった。

家に着くと、佳代子が夕飯の支度をしていた。

「おかえり。……また焼き芋屋さん?」

「はい。本日で、三週続けて」

「あんた、行きすぎじゃないの」

「修業中ですので」

「焼き芋屋になるの?」

「……なる予定は、ございませんが」

一拍あった。

「可能性としては、否定いたしません」

「否定しなさいよ」

「……制服は、あの軍手でしょうか」

「もう就職してる気でいる」

佳代子は笑って、味噌汁の火を落とした。

湊人が二階から降りてきて、テーブルの上の新聞紙の包みに気づいた。

「あ、焼き芋。……この暑いのに、じゃなくて、もう秋か」

「秋ですわ」

「うまいですよね、これ。夏でも冬でも」

「湊人様」

「はい」

「秋の紅はるかは、夏のものとは、違いますのよ」

エルは、真剣にそう言った。ボケているつもりは、微塵もなかった。

「……そうなんだ」

「ええ。同じ品種でも、季節で、蜜の乗りが違いますの。源さんが、そう」

「へえ。……いや、それ、源さん本人が言ったんですか、それとも」

「わたくしの、舌が」

「舌が言った」

「ええ。舌は、正直ですもの」

「……その舌、源さんより信用できるかもしれない」

エルは少し考えてから、声をひそめた。

「源さんには、内緒に」

「言わないですよ、そんなの」

その夜、エルはシャンデリアの下で日記をつけた。今日の火加減のこと。十秒のこと。源さんの息子の、案じる横顔のこと。

最後の一行だけ、少し考えてから書いた。

——この街には、意地を張り通させてやることが、優しさになる相手もいるらしい。

書いてから、それをまだ誰にも言うまい、と思った。

灯りを消し、階段を降り、押し入れの襖に手をかける。

建具は、あれから一度も鳴っていない。石の匂いも、していない。

襖を静かに閉めた。

秋が、来ようとしていた。焼き芋の、本当の季節が。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ