喫茶店という名の議事堂
その張り紙はアーケードのいちばん目立つ柱に、まだ糊も乾かぬうちに貼られていた。
エルは豆腐とコロッケの袋を提げたまま、その前で足を止めた。
白い紙に、黒い明朝。
『銀星会商店街 再開発に関する住民説明会のお知らせ』
日付。場所。主催は駅前開発の、聞いたことのない会社の名。
「湊人様」
「はい」
「再開発、とは」
「古い建物とか通りを、いっぺん壊して、建て直すことです。ビルとか、マンションとか」
エルはもう一度、張り紙を読んだ。
「この、通りを」
「みたいですね」
エルはしばらく黙っていた。
閉じたシャッター。その前だけ掃かれた石畳。水の澄んだ豆腐屋。石の並んだ源さんの窯。
「……お茶を、いただきとう存じますわ。落ち着いて、考えられる場所で」
「あー、なら、いいとこありますよ」
*
純喫茶ロマンはアーケードの中ほど、洋品店ふじさきの二軒隣にあった。色褪せた庇。曇りガラス。押すと、乾いたベルがからんと鳴った。
中は、時間が止まっていた。赤いビロードの椅子。琥珀色の壁。カウンターの奥で、白髪をきっちり撫でつけた老マスターが、ガラスの球を火にかけていた。
エルの足が、止まった。
球の中で、湯が下から上へ昇り、黒い粉と混ざり、ぶくぶくと泡立っている。火。ガラス。立ちのぼる湯気。
「……錬金術ですの?」
「コーヒーだ」
マスターは顔も上げずに言った。
源さんと同じ喋り方だ、と湊人は思った。この商店街の年寄りは、みんなこうやってエルの壮大さを平らに受け流す。慣れると、これはこれで様式美だった。
窓際の席に着くと、エルは店内をぐるりと見渡した。
半分ほど、席が埋まっていた。それも、見覚えのある顔ばかり。八百屋のおばちゃん。豆腐屋の主人。ふじさきの小百合。そして、知らない背広の男が数人。全員があの張り紙の話をしていた。
「壊してくれて、けっこうよ。うちなんかもう、シャッター上げるのも億劫でね」
「あんたはそうでも、うちは困る。ここでなきゃ、常連さんが」
「常連ったって、あんた、みんな年寄りじゃないか。あと何年だい」
「その言い方はないだろう」
声は、荒れてはいなかった。ただ、割れていた。
エルは、その割れ方を、静かに聞いていた。
*
「どっちも、間違っちゃいねえのが、厄介でな」
コーヒーを運んできたマスターが、エルの前にカップを置きながら、ぼそりと言った。
「潰したい者は、疲れてる。守りたい者は、寂しい。……客商売は、どっちにも肩入れせん。だから、よく見える」
「……マスターは、どちらでも、ないのですか」
「四十年、この通りでコーヒー淹れてる。潰れりゃ、俺も終いだ。……それでも、決めるのは俺じゃねえ。持ってる者が決める。土地と、店と、票をな」
エルはカップに手を伸ばした。黒く、湯気が立っている。ひとくち。
「…………」
「苦いか」
「……大人の、味がいたしますわ」
「そりゃ、コーヒーだからな」
エルは二口目を飲んだ。今度は、少しだけ目を細めた。
「夜なべの折に、良さそうですわね。……頭が冴えます」
「調べ物でもすんのか、嬢ちゃん」
「ええ。近々、たくさん」
暦の棚と、天文の棚を、彼女は思い浮かべていた。それは、まだ誰にも言っていなかった。
*
その時、賛成側の背広の一人が、少し声を張った。
「だいたいね、いつまでも年寄りに店なんか担がせといて、いいことないんだ。金が入りゃ、休ませてやれるんだよ。それが、こっちの——」
エルの視線が、その男に留まった。
くたびれた背広。五十がらみ。エルは、その顔を知っていた。
三日前、夕方の角の向こうで、腰を押さえる父親に「もういいだろ」と言っていた、あの男だった。
男はたぶん、金が惜しいのではなかった。むしろ逆だった。父親に、窯を下ろさせてやりたい。休ませてやりたい。そのためなら、通りが一本、消えても構わない。
案じる者の顔で、彼は、通りを畳む側に立っていた。
エルは一歩も動かなかった。三日前と、同じだった。ここに、踏みつけられている弱い者はいない。いるのは、正しさを二つに割った、街の人たちだけだ。
彼女は、ただ、見ていた。
*
「——あら。あんた、ふじさきで働いてる子じゃないの」
八百屋のおばちゃんが、エルに気づいた。
「すごいお嬢さんが来たって、聞いてるよ。……ねえ、あんたはどう思う? この街、壊されちまうんだよ」
店内の視線がいくつか、エルに集まった。
エルはカップを置き、居住まいを正した。何か言おうとした。
「よしなよ」
止めたのは、豆腐屋の主人だった。穏やかな声だった。
「その子は、ここらの子じゃないんだろ。住民票も、ないんじゃないか。……口を出せる筋じゃない。かわいそうに」
「あ……そうか。悪かったね」
おばちゃんがばつが悪そうに引っ込めた。
エルはその一部始終を、静かに受けた。
「……ええ。仰る通りですわ」
声は、少しも傷ついていなかった。
「わたくしは、この街に一票も持ちませんの。名乗っても、まだ音でしかない。……信用を、積んでいる途中ですもの」
豆腐屋の主人が少し驚いた顔で、その子を見た。
「口を出せぬ者が、口を出すべきではありません。それは、こちらでも、あちらでも、同じ作法ですわ」
しん、と、一角が静かになった。
「……変な子だねえ」と、誰かが言った。
褒めているのか、そうでないのか、分からなかった。エルは気にしていなかった。
*
帰り道。
夕方の商店街を二人はゆっくり歩いた。エルは豆腐の袋を抱え直しながら、閉じたシャッターを一枚ずつ見ていた。
「湊人様」
「はい」
「あの説明会の、書き方ですけれど」
「はい」
「『再開発に関する』と、ございました。……誰の利益に関するのかは、書いてございませんでしたわね」
「……まあ、そりゃ、書かないでしょうね」
「利益だけで、街を測るのですか」
エルは前を向いたまま、独り言のように言った。答えは求めていなかった。
それから、ふとアーケードの奥へ目をやった。
その先の、通りを出たところに、源さんの軽トラが停まる、いつもの角がある。石の並んだ、あの窯がある。
「……あの窯は」
エルは少しだけ声を落とした。
「たぶん、いちばん危うい側ですわ」
「……なんで、そう思うんですか」
「担ぐ手が、一つしかございませんもの。あとは、下ろさせたい手ばかり」
湊人は、答えなかった。答えられなかった。
エルはそれ以上、言わなかった。言わずに豆腐の袋を抱え直して、家路を歩いた。
その夜、日記には、一行だけ書いた。
——この街には、票を持たぬ者にできることが、まだ、あるはずですわ。
それが何かは、まだ、書けなかった。




