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喫茶店という名の議事堂

その張り紙はアーケードのいちばん目立つ柱に、まだ糊も乾かぬうちに貼られていた。

エルは豆腐とコロッケの袋を提げたまま、その前で足を止めた。

白い紙に、黒い明朝。

『銀星会商店街 再開発に関する住民説明会のお知らせ』

日付。場所。主催は駅前開発の、聞いたことのない会社の名。

「湊人様」

「はい」

「再開発、とは」

「古い建物とか通りを、いっぺん壊して、建て直すことです。ビルとか、マンションとか」

エルはもう一度、張り紙を読んだ。

「この、通りを」

「みたいですね」

エルはしばらく黙っていた。

閉じたシャッター。その前だけ掃かれた石畳。水の澄んだ豆腐屋。石の並んだ源さんの窯。

「……お茶を、いただきとう存じますわ。落ち着いて、考えられる場所で」

「あー、なら、いいとこありますよ」

純喫茶ロマンはアーケードの中ほど、洋品店ふじさきの二軒隣にあった。色褪せた庇。曇りガラス。押すと、乾いたベルがからんと鳴った。

中は、時間が止まっていた。赤いビロードの椅子。琥珀色の壁。カウンターの奥で、白髪をきっちり撫でつけた老マスターが、ガラスの球を火にかけていた。

エルの足が、止まった。

球の中で、湯が下から上へ昇り、黒い粉と混ざり、ぶくぶくと泡立っている。火。ガラス。立ちのぼる湯気。

「……錬金術ですの?」

「コーヒーだ」

マスターは顔も上げずに言った。

源さんと同じ喋り方だ、と湊人は思った。この商店街の年寄りは、みんなこうやってエルの壮大さを平らに受け流す。慣れると、これはこれで様式美だった。

窓際の席に着くと、エルは店内をぐるりと見渡した。

半分ほど、席が埋まっていた。それも、見覚えのある顔ばかり。八百屋のおばちゃん。豆腐屋の主人。ふじさきの小百合。そして、知らない背広の男が数人。全員があの張り紙の話をしていた。

「壊してくれて、けっこうよ。うちなんかもう、シャッター上げるのも億劫でね」

「あんたはそうでも、うちは困る。ここでなきゃ、常連さんが」

「常連ったって、あんた、みんな年寄りじゃないか。あと何年だい」

「その言い方はないだろう」

声は、荒れてはいなかった。ただ、割れていた。

エルは、その割れ方を、静かに聞いていた。

「どっちも、間違っちゃいねえのが、厄介でな」

コーヒーを運んできたマスターが、エルの前にカップを置きながら、ぼそりと言った。

「潰したい者は、疲れてる。守りたい者は、寂しい。……客商売は、どっちにも肩入れせん。だから、よく見える」

「……マスターは、どちらでも、ないのですか」

「四十年、この通りでコーヒー淹れてる。潰れりゃ、俺も終いだ。……それでも、決めるのは俺じゃねえ。持ってる者が決める。土地と、店と、票をな」

エルはカップに手を伸ばした。黒く、湯気が立っている。ひとくち。

「…………」

「苦いか」

「……大人の、味がいたしますわ」

「そりゃ、コーヒーだからな」

エルは二口目を飲んだ。今度は、少しだけ目を細めた。

「夜なべの折に、良さそうですわね。……頭が冴えます」

「調べ物でもすんのか、嬢ちゃん」

「ええ。近々、たくさん」

暦の棚と、天文の棚を、彼女は思い浮かべていた。それは、まだ誰にも言っていなかった。

その時、賛成側の背広の一人が、少し声を張った。

「だいたいね、いつまでも年寄りに店なんか担がせといて、いいことないんだ。金が入りゃ、休ませてやれるんだよ。それが、こっちの——」

エルの視線が、その男に留まった。

くたびれた背広。五十がらみ。エルは、その顔を知っていた。

三日前、夕方の角の向こうで、腰を押さえる父親に「もういいだろ」と言っていた、あの男だった。

男はたぶん、金が惜しいのではなかった。むしろ逆だった。父親に、窯を下ろさせてやりたい。休ませてやりたい。そのためなら、通りが一本、消えても構わない。

案じる者の顔で、彼は、通りを畳む側に立っていた。

エルは一歩も動かなかった。三日前と、同じだった。ここに、踏みつけられている弱い者はいない。いるのは、正しさを二つに割った、街の人たちだけだ。

彼女は、ただ、見ていた。

「——あら。あんた、ふじさきで働いてる子じゃないの」

八百屋のおばちゃんが、エルに気づいた。

「すごいお嬢さんが来たって、聞いてるよ。……ねえ、あんたはどう思う? この街、壊されちまうんだよ」

店内の視線がいくつか、エルに集まった。

エルはカップを置き、居住まいを正した。何か言おうとした。

「よしなよ」

止めたのは、豆腐屋の主人だった。穏やかな声だった。

「その子は、ここらの子じゃないんだろ。住民票も、ないんじゃないか。……口を出せる筋じゃない。かわいそうに」

「あ……そうか。悪かったね」

おばちゃんがばつが悪そうに引っ込めた。

エルはその一部始終を、静かに受けた。

「……ええ。仰る通りですわ」

声は、少しも傷ついていなかった。

「わたくしは、この街に一票も持ちませんの。名乗っても、まだ音でしかない。……信用を、積んでいる途中ですもの」

豆腐屋の主人が少し驚いた顔で、その子を見た。

「口を出せぬ者が、口を出すべきではありません。それは、こちらでも、あちらでも、同じ作法ですわ」

しん、と、一角が静かになった。

「……変な子だねえ」と、誰かが言った。

褒めているのか、そうでないのか、分からなかった。エルは気にしていなかった。

帰り道。

夕方の商店街を二人はゆっくり歩いた。エルは豆腐の袋を抱え直しながら、閉じたシャッターを一枚ずつ見ていた。

「湊人様」

「はい」

「あの説明会の、書き方ですけれど」

「はい」

「『再開発に関する』と、ございました。……誰の利益に関するのかは、書いてございませんでしたわね」

「……まあ、そりゃ、書かないでしょうね」

「利益だけで、街を測るのですか」

エルは前を向いたまま、独り言のように言った。答えは求めていなかった。

それから、ふとアーケードの奥へ目をやった。

その先の、通りを出たところに、源さんの軽トラが停まる、いつもの角がある。石の並んだ、あの窯がある。

「……あの窯は」

エルは少しだけ声を落とした。

「たぶん、いちばん危うい側ですわ」

「……なんで、そう思うんですか」

「担ぐ手が、一つしかございませんもの。あとは、下ろさせたい手ばかり」

湊人は、答えなかった。答えられなかった。

エルはそれ以上、言わなかった。言わずに豆腐の袋を抱え直して、家路を歩いた。

その夜、日記には、一行だけ書いた。

——この街には、票を持たぬ者にできることが、まだ、あるはずですわ。

それが何かは、まだ、書けなかった。

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