悪役令嬢という名の異文化
古書みちくさはアーケードの外れの、日の当たらない側にあった。
床から天井まで本の壁で、通路は人ひとりぶん。奥の帳場で、痩せた老主人が、老眼鏡越しに文庫本を読んでいた。エルたちが入っても、顔を上げなかった。
「見て見て、エルちゃん。これこれ」
小百合が興奮した様子で、一冊の漫画を差し出した。表紙には縦ロールの髪の少女が扇を口元に当てて、こちらを見下ろしていた。
「これがね、あたしの言う『令嬢』なの。前に言ったでしょ。あなたにやってほしいって。凛ちゃんに借りてきたのよ」
「凛様に」
「あたしの棚、令嬢ものだけで一段ある」
凛がペットボトルのお茶を飲みながら、無表情に言った。
「テニスの合間に、読む」
エルはその漫画を両手で丁寧に受け取った。表紙をしばらく見つめ、それから静かに頁を開いた。
真剣だった。
*
三頁で、エルの眉が、わずかに寄った。
「……小百合様」
「なあに」
「この方は、令嬢なのですわね」
「そうよ。主人公をいじめる、悪役令嬢」
「悪役」
エルはもう一度、その言葉を確かめた。
「令嬢が、悪役を務めるのですか。……この国には、そういう文化が」
「え。……まあ、そういうジャンルというか」
「————」
エルはしばらく黙って頁をめくった。小百合が期待に満ちた目で、その横顔を覗き込んでいた。
やがて、エルが口を開いた。
「扇の扱いが、なっておりません」
「……え?」
「扇は、口元を隠すためのものではございません。間を作り、相手に次の言葉を選ばせるための、時間の道具ですわ。このように、常に顔の前に掲げていては、ただ視界が悪いだけですの」
エルは真剣に、頁のコマを指差していた。
「それに、この持ち方。要を握っておりますでしょう。要は、扇の急所。ここを握るのは、抜き身の剣を刃で持つのと、同じですわ」
「エルちゃん、あの、そういう話じゃなくて」
「そして、この背筋」
「聞いて」
*
「マスター」
凛が帳場に向かって声をかけた。
「この人、漫画にダメ出ししてる」
「漫画だ」
老主人は、顔も上げずに言った。
「本気にするもんじゃねえ」
「本気ですわ」
エルが、きっぱりと言った。
「創作であればこそ、作法は正しく描かれるべきですの。子供が、これを手本にいたしましたら、どうなさいます。……要を握った令嬢が、この国に、増えますのよ」
「増えねえよ」
「増えるかもしれません」
「……売り物だ。折るな」
老主人は、そう言って、また文庫本に目を戻した。源さんと、同じ喋り方だった。
*
小百合はまだ諦めていなかった。
彼女は頁をめくって、あるコマを勝ち誇ったように指した。悪役令嬢が扇を広げ、天を仰いで高らかに笑っているコマだった。
——お~ほっほっほ!
「これよ! これ! 前に、あなたにやってほしいって言ったやつ! ほら、やってみて。今なら、お手本があるんだから」
エルはそのコマを、じっと見た。
それから、静かに首を横に振った。
「いたしません」
「なんでよ〜」
「小百合様。……令嬢は、このようには笑いませんの」
「そうなの?」
「笑いは、本来、こらえるものですわ。口元をわずかに緩め、それを扇で隠す。声を立てて笑うのは、心を無防備に開くこと。まして、このように天を仰いで高笑いするなど……」
エルは、少し言い淀んだ。適切な言葉を探しているようだった。
「……敵に、喉を、差し出しておりますわ」
「喉」
「両手を広げ、顎を上げ、目を閉じて。この一瞬に斬りかかられれば、令嬢は、何もできません。これは、笑いではなく、隙ですの」
凛がお茶を吹きそうになった。
「隙、だって」
「はい。とても、大きな隙ですわ」
小百合はしばらく、その高笑いのコマと大真面目なエルの顔を見比べていた。それから、がっくりと肩を落とした。
「……あたしの憧れの令嬢像が、護身術で否定されてる」
*
「ねえ、じゃあ、これは」
凛が別の一冊を棚から抜いて差し出した。表紙にはまた別の令嬢が光の中で振り返っていた。帯に、大きな文字。
『前世の記憶を取り戻し、私は悪役令嬢に転生していた——!』
エルはそれを受け取り、帯を二度読んだ。
「……転生」
「そう。死んで、別の世界の悪役令嬢に、生まれ変わる話」
「死して、悪役令嬢に、生まれ直す」
エルの眉が、また、寄った。
「なぜ、わざわざ、悪役に」
「いや、そういう星のもとに生まれちゃうから」
「生まれ直せるのでしたら、善き領主に生まれ直せばよろしいのに。……悪役に生まれ直したうえで、そこから苦労して善くなる。二度手間ですわ」
「二度手間」
「はい。最初から、善くあればよいのです」
凛は真顔でそう言うエルをしばらく見て、それから、ぼそりと言った。
「……この人、たぶん、一番強い」
エルは褒められたと思ったらしく、丁寧に一礼した。褒めていたのかは、凛にも分からなかった。
*
結局、エルは、最初の一冊を買った。
「お買い上げか」
「はい。……敵の、誤りを学びます。正しい扇の扱いを、いつか、正しく伝えるために」
「敵じゃねえ。漫画だ」
「敵ですわ」
エルは真剣に、その漫画を胸に抱いた。
帰り道、小百合がまだ少ししょげていた。
「あたし、あなたを、あんな令嬢にしたかったのに」
「小百合様」
「なあに」
「よろしければ、後日、正しい扇の扱いをお教えいたしますわ。護身の要らぬ、平時の、美しい持ち方を」
小百合の顔がぱっと、明るくなった。
「……いいの?」
「ええ。憧れは、正しい形で持っていただきたく存じますの」
「エルちゃん……!」
小百合が感激して、エルの腕を取った。
後ろで、湊人が買ったばかりの漫画を横から覗き込んで、ぼそりと言った。
「……この悪役令嬢、扇の持ち方以外は、けっこう良いこと言ってるんだけどな」
「湊人様」
「はい」
「敵を、擁護なさいますの」
湊人は、それ以上、何も言わないことにした。




