再開発という名の親孝行
住民説明会は商店街の外れの公民館の二階で開かれた。
パイプ椅子が四十ほど並んでいた。半分ちょっとが埋まっていた。前に長机があり、紺のスーツの男が二人。片方はまだ若く、片方は四十がらみで、どちらも折り目正しかった。
エルはいちばん後ろの端の席に、静かに腰を下ろした。湊人がその隣に座った。
「湊人様」
「はい」
「わたくしは、ここでは何者でもございませんのね」
「……まあ、住民票ないですからね」
「ええ。ですから、聞くだけにいたしますわ」
エルは膝の上で両手を重ねた。発言する気はなかった。ここでは、彼女は一票も持たない。持たぬ者は、口を出さない。それが、こちらでも、あちらでも、同じ作法だった。
*
四十がらみの男が立って、一礼し、社名と、戸倉という名を名乗った。それから、話し始めた。
言葉は丁寧だった。「皆様の暮らしを、より豊かに」「老朽化した設備の、安全性」「新しい世代が、住みたくなる街へ」。滑らかで、角がなく、どこにも掴むところがなかった。
エルはその滑らかさを、静かに聞いていた。
悪い人ではない、と思った。この男はたぶん、本気で街を良くするつもりでいる。数字の上で、この通りは確かに古い。人は減り、シャッターは増え、税は落ちる。それを直そうとしている。誠実に。
ただ、その誠実さは一度も、「思い出」という言葉を使わなかった。使えないのだ。数字に、思い出の欄はない。
「……利益で測れば、正しいのでしょうね」
エルはごく小さな声で、独り言のように言った。湊人にだけ聞こえた。
それが、彼女のその日の、たった一つの意見だった。あとは、ずっと聞いていた。
*
質疑の時間になると、部屋の空気が割れた。
「壊してくれて、けっこうだ」と、誰かが言った。「うちはもう、畳みたい。金が出るなら、ありがたい」
「あんたはいい。うちは、ここでなきゃ困る」と、別の誰かが言った。「五十年、この場所でやってきたんだ」
声はどれも、間違っていなかった。疲れた者は疲れていた。寂しい者は寂しかった。エルはその両方を、正しいと思った。正しさが二つある時、外の者が裁くのは、作法ではない。
その時、前のほうで一人の男が立ち上がった。
くたびれた背広。五十がらみ。エルはその顔を、もう三度見ていた。角の向こうで、喫茶店で、そして今。源さんの、息子だった。
「……賛成だ、俺は」
男は低い声で言った。
「時代だよ。年寄りに、いつまでも店なんか担がせて、いいことない。区切りは、あったほうがいい」
言葉はありきたりだった。どこかで聞いたような、賛成の理由。
けれど、エルはその男を見ていた。
男は話しながら、一度も部屋の隅を見なかった。
部屋の隅には、源さんがいた。
*
いつの間に来たのか、源さんはいちばん後ろの、エルとは反対側の壁際に腕を組んで立っていた。誰とも話さず、誰とも目を合わせず、ただ、そこにいた。
息子はその父の五メートル先で、賛成を述べていた。
そして、一度もそちらを見なかった。
見られないのだ、とエルは思った。見れば、言えなくなる。だから、見ずに言っている。
「源さんの、息子さんだろう」
反対側の初老の女が立ち上がって、息子に言った。棘のある声ではなかった。むしろ、痛ましそうだった。
「あんた、自分の父親の店を、自分で潰す気かい」
部屋が、しん、とした。
息子は少しの間、答えなかった。組んだ手が、机の上で白くなっていた。
「…………」
やがて、彼は絞り出すように短く言った。
「親父に、辞めろとは……言えねえんだよ」
それだけ言って、彼は座った。
それ以上は、何も言わなかった。言えば崩れる、というふうだった。
*
エルはその一言で、全部が見えた気がした。
この男は金が欲しいのではなかった。
父に、辞めてほしいのでもなかった。
——父に、「辞める」と言わせたくないのだ。
源さんは死んでも、その言葉を言わない。負けを認めない。だから息子は世界のほうに幕を引かせようとしている。通りごと、店ごと、無くなってしまえば、源さんは自分の口で辞めなくて済む。負けたことに、ならない。
意地を張り通させるのではなく。
意地を張る、その舞台のほうを、そっと畳んでやる。
エルは膝の上の手を、少しだけ握った。
三日前、日記に書いたばかりだった。この街には意地を張り通させてやることが優しさになる相手もいる、と。
それと同じ場所に立って、息子は正反対のことをしようとしていた。張らせるのではなく、張る場所を取り上げる。どちらも、源さんを想う優しさだった。どちらも。
正しさが二つある時、外の者は裁かない。
けれど——と、エルは思った。
裁かないことと、何もできないことは、違うのではないか。
*
説明会が終わり、人がまばらに帰っていく中、源さんは誰よりも早く、壁際から消えていた。息子が父を捜して顔を上げた時には、もう、そこにいなかった。
息子の顔が一瞬ひどく疲れて見えた。
エルはそれも、見ていた。
帰り道、湊人がぽつりと言った。
「……難しいですね。誰も、悪くないのに」
「ええ」
エルは前を向いたまま、歩いた。
「誰も悪くない時が、いちばん難しいのですわ。斬るべき相手が、どこにもおりませんもの」
「エルディアーナさんに、何かできることあります?」
エルは少し黙った。
票は、ない。土地も、店も、持っていない。この街で、彼女はまだ何者でもない。決める側には、立てない。
「……今は、ございません」
それから、彼女はほんの少し声を落として、付け加えた。
「今は。ですけれど」
湊人はその「ですけれど」の続きを聞かなかった。エルがまだ言葉にできていないのが分かったからだ。
源さんの窯のある角を、二人は通り過ぎた。今日は、軽トラはいなかった。石だけが、いつもの並びで、荷台の跡のその場所に残っているような気がした。
その夜、日記には一行だけ書いた。
——辞めずに、辞める道が、どこかにあるはずですわ。まだ見つかりませんけれど。
見つかったら、その時は、票がなくても口を出す。
そう決めて、灯りを消した。




