子守唄という名の面影
十月の終わりの、よく晴れた午後だった。
エルは佳代子に頼まれた回覧板を、二軒隣まで届けに出た。ついでに、と言って彼女は少し遠回りをした。商店街をゆっくり歩くのが、この頃のささやかな楽しみになっていた。
金木犀はもう散りかけていた。それでも風の通り道には、匂いがまだ残っていた。八百屋の軒先に柿が積まれていた。源さんの軽トラは今日は少し早く出ていた。すれ違いざま、彼は「よ」とだけ言った。エルは「ごきげんよう」と返した。それで、じゅうぶんだった。
通りの南の端で、エルは一度だけ足を止めた。舗道の隅に、鮮やかな橙色の線と、短い数字が、吹き付けてあった。先週までは、なかったものだ。誰の手のものか、何の印なのかは、分からない。ただ、この通りの色では、なかった。
エルはしばらくそれを見て、それから、歩き出した。
悪くない街だ、と彼女は思った。
ここでは誰も、彼女の背筋を笑わなかった。ただ、少しずつ慣れていってくれた。それは、向こうで一度も味わったことのない種類の時間だった。
*
商店街の噴水のある小さな広場で、エルは足を止めた。
ベンチに若い母親が座っていた。
膝の上で、生まれて半年ほどの赤ん坊がむずかっていた。眠いのに眠れない、というふうに小さくぐずっていた。母親は慣れた手つきで、その子を縦に抱き直した。
そして、あやし始めた。
背中をとん、とん、とゆっくり叩きながら。低い声で、鼻歌のような短い節を口ずさんだ。歌ではなかった。歌詞もない。ただ、同じところを何度も、何度も戻っていく。低く、低く繰り返す、あやすためだけの節。
赤ん坊のぐずりが少しずつ収まっていった。
エルはその場所から動けなくなった。
*
——この節を知っている、と思った。
いや、この節そのものではない。もっと遠い。もっと掠れている。けれど、確かに知っている。同じ質の、同じ低さの、同じ、何度も同じところへ戻る、あの——。
誰かがこうやって、あやしてくれた。
違う。
誰かがこうやって、あやしていた。
——アニカ。
名前がひとりでに浮かんだ。
同い年の侍女で、エルのいちばん近くにいた者だった。怖がる幼い下働きの子を、いつもこの同じ節であやしていた。歌詞のない、ただあやすためだけの低い声で。
あの声は今、どこにあるのだろう。
*
エルの手の中で、回覧板の角が少し湿っていた。握りしめていた。
あの子は、わたくしの侍女だった。わたくしのそばにいた。いちばん近くにいた。
——だから、いちばん危ういのは、あの子だ。
罪人の令嬢が忽然と消えた。その夜、いちばん近くにいた者が無事で済むはずがない。問われ、疑われ、あるいは。
わたくしが消えたせいで。
わたくしがあの子をあやしてやることは、もうできない。あの子は今、誰にもあやしてもらえない夜の中にいるかもしれない。わたくしの、せいで。
エルは目を閉じた。
噴水の水音が、あやし声に重なっていた。
*
「……エルディアーナさん?」
いつの間にか、隣に湊人がいた。回覧板を届けに出たきりなかなか帰らないエルを、佳代子が心配して様子を見にやらせたのだった。
「どうか、しました?」
エルは目を開けた。母親はもう、眠った赤ん坊を抱いて広場を出ていくところだった。あの節は、もう聞こえなかった。
「……いえ」
エルはいつもの背筋に戻っていた。
「よく似たあやし方をする人が、おりましたの。……昔」
「へえ。……いい人でした?」
エルは少し間を置いた。
「ええ。とても」
それ以上は言わなかった。湊人も、それ以上は訊かなかった。訊いてはいけない種類の「昔」だと、彼にはなんとなく分かった。
二人は並んで、家のほうへ歩き出した。
しばらく行って、エルがぽつりと言った。
「湊人様」
「はい」
「わたくしは、いつか、帰らねばなりませんの」
「……知ってます」
「ええ。……知っていてくださって、ありがとう」
湊人は何も言わなかった。言葉が見つからなかった。
ただ、いつもより半歩だけ、エルの隣に近く歩いた。エルはそれに、気づかないふりをした。
金木犀の最後の匂いが、風にまぎれていった。




