一点という名の作法
凛はまた塀を乗り越えてきた。
「門から入れって、何回言えば」
湊人の声を凛は最後まで聞いていなかった。縁側のエルの正面に回り込み、びし、と指を突きつけた。
「再戦を申し込む」
「望むところですわ」
エルは湯呑みを置いて、静かに立ち上がった。半年ぶりの、果たし合いだった。
*
あれから、エルは練習していた。
図書館で借りた『はじめてのテニス』を、まるで兵法書のように読んだ。素振りは、庭で毎朝百回。ただし本の写真を一枚ずつ、恭しく再現する素振りだったので、動きは速くならなかった。フォームは、教科書どおりに、美しく、遅かった。
「エルちゃん、あれ、ラジオ体操じゃないの」と佳代子は言った。
「テニスですわ」とエルは答えた。
半年で身についたのは、ラケットの振り方が一種類だけ、という事実だった。大きく、ゆっくり、真っ直ぐ。それ以外は、できなかった。
*
近所のコートで、勝負は始まった。
凛のサーブがうなりを上げて突き刺さった。エルは、動かなかった。動けなかった。速すぎて、見えていなかった。
「一本!」
二本目。空振り。三本目。空振り。四本目、エルの追った球は、まるでテニスではない走り方で、コートの外へ転がっていった。
「エルーー! また眺めてる! ラケットは振るの!」
「振る機会を、うかがっておりますの」
「うかがってる間に終わるやつ!」
スコアは、みるみる離れた。半年前と、何も変わらないように見えた。
ただ、一つだけ、違うことがあった。
エルは、球を拾って凛に返すたびに、一礼した。深く、丁寧に。半年前と、同じ礼だった。
*
五ゲーム目のことだった。
エルがサーブを受ける前に、いつものように一礼した。ラケットを両手で持ち直し、背筋を伸ばし、静かに相手に向けて頭を下げた。
その時、凛の体が、勝手に止まった。
八年、叩き込まれてきた。礼をされたら、礼を返す。コートに立つ前の、いちばん最初に教わる、いちばん古い作法。凛の背筋が、つられて伸びた。ラケットを下ろし、彼女もまた小さく頭を下げていた。
——しまった、と凛は思った。
思った時には、遅かった。
礼のあとの、その一拍。凛のサーブはふだんの半分の速さで、ふだんより高く、丁寧に、相手が受けやすい位置へ——作法の速度で、放たれていた。
エルのラケットが、動いた。
大きく。ゆっくり。真っ直ぐ。
半年かけて覚えた、たった一種類の、その振りで。
球は、ネットを越えた。
*
こおん、と、乾いた音がした。
凛は動かなかった。今度は、凛が動けなかった。球は彼女のコートにぽとりと落ちて、二度、跳ねて、止まった。
沈黙があった。
「…………一点」
エルが静かに言った。それから、深く一礼した。
「一点、取りましたわ」
凛はしばらくその落ちた球を見ていた。それから、顔を上げ、エルを見て、それから、天を仰いだ。
「……今の、なし」
「取りましてよ」
「なしっ。あれは、テニスじゃない。……あんたが礼するから、あたしが礼、返しちゃっただけで」
「ええ。作法ですわ」
「テニスじゃない!」
「一点は、一点ですわ」
凛はぐしゃぐしゃと髪をかき回した。反論の言葉を探して、見つからなかった。テニスでは、圧勝だった。完膚なきまでの、圧勝だった。なのに、たった一点、作法で、抜かれた。
その一点だけが、どうしても、消せなかった。
*
結果は六ゲーム先取の、完敗だった。エルはテニスでは、一本も取っていない。取ったのは、礼で抜いた、あの一点きりだった。
凛はタオルを首にかけ、帰り際に、振り返った。
「……次は、礼の前に、サーブ打つ」
「では、わたくしは、より深く礼をいたしますわ」
「それ、卑怯じゃない!?」
「作法に、卑怯はございません」
凛は何か言いかけてやめた。それから、なぜか少しだけ笑った。宿命は、まだ続くらしかった。
行きかけて、凛は、思い出したように足を止めた。
「あ、そうだ。うちにさ、なんか分厚い封筒来てたんだよね。再開発がどうとかいうやつ」
「……肉屋にも、ですのね」
「知らない。お父さんの話だし。……ま、いっか」
それだけ言って、今度こそ、凛は走っていった。
走り去る背中を見送って、湊人がぼそりと言った。
「……勝ったんですか、負けたんですか、今の」
「一点、取りました」
「テニスの、一点ですか」
「作法の、一点ですわ」
エルは借り物のラケットをまた両手で捧げ持っていた。半年前と、同じ持ち方だった。ただ、その顔だけがほんの少し誇らしげだった。
一点は、一点だった。




