閉店という名の引き際
豆腐屋の貼り紙は白い紙に、たった一行だった。
『勝手ながら、今月末をもちまして、閉店いたします』
式典の告知ではなかった。詫びも、感謝の長い言葉もない。ただ、事実だけが、素っ気なくそこにあった。
エルはその一行の前でしばらく立っていた。
再開発はまだ決まってもいない。説明会があっただけだ。なのに、この店は、待たずに、自分から畳もうとしている。
エルは、のれんをくぐった。
*
主人は大きな水槽の前にいた。
半年前、エルが「水の澄み方」に手仕事を見た、あの水槽だった。豆腐が透き通った水の底に、いくつも沈んでいた。相変わらず、水は澄んでいた。
「いらっしゃい。……ああ、あんたか」
主人は、穏やかに笑った。射的の夜、「祭りなんだからいいんだよ」と、ラムネ菓子をくれた、あの笑い方だった。エルはそれを一度だけ思い出した。それ以上は思い出さないことにした。
「主人殿。……お尋ねしても、よろしいですか」
「なんだい」
「閉店は、再開発のせいですか」
「いや」
主人はあっさりと首を横に振った。
「あれは、まだ決まっちゃいない。関係ないよ」
「では、なぜ」
「潮時さ」
*
エルは姿勢を正した。
これは言うと決めていたことだった。三日前の夜、日記に書いた。見つかったら、票がなくても口を出す、と。
「主人殿。差し出がましいことを、申します」
「おう」
「この店の豆腐は、水が澄んでおります。……わたくしは、その澄み方を手の仕事だと思っておりますの。消えるには、惜しい」
「へえ。……あんた、そんなところ、見てたのか」
「見ておりました。半年、前から」
エルは、続けた。
「継ぐ方をお探しするのは、いかがでしょう。あるいは、早朝の水仕事だけでも、人の手を。対価は、お支払いになればよろしいのです。施しではなく、仕事として。……この澄み方を遺す道は、あるはずですわ」
主人はしばらくその水槽を見ていた。
それから、静かに笑った。
*
「あんたは、優しいな」
「わたくしは、」
「でもな。……あんたが、継いでくれるわけじゃ、なかろ」
エルの言葉が、止まった。
「継ぐ手はない。倅は、勤め人だ。孫は、豆腐なんか、興味もない。……そりゃ、探せば、誰か見つかるかもしれん。でも、それは、そいつの人生だ。わたしの、続きじゃない」
主人は水槽から手を離した。
「わたしは、ここで、五十年、豆腐を作った。うまくやれた。……これは、わたしで終いだ。それで、いい」
負けた顔では、なかった。
畳まれる顔でも、なかった。
自分で、幕を引く顔だった。
*
エルはしばらく何も言えなかった。
票がなくても口を出す、と決めてきた。口は、出した。道も、示した。それでも、届かなかった。
——救えなかったのではない。
この人は、救いを望んでいない。
エルはその違いを、生まれて初めてはっきりと知った。向こうでは統治とは、望む者を助けることだった。望まない者にまで手を伸ばすのは、統治ではない。傲慢だった。
この人は負けてもいないし、追われてもいない。ただ、いちばん良い時に、自分の意志で、退こうとしている。それは、貴い引き際だった。
エルは深く一礼した。
「差し出がましいことを、申しました」
「いや。……嬉しかったよ。水の澄み方を、見ててくれた人がいた。それだけで、五十年、報われた」
主人は水槽から、いちばん綺麗な豆腐を、一丁すくった。
「持っていきな。今日のだ。……いちばん、うまい」
「頂戴、いたします」
エルは、両手でそれを受け取った。射的のラムネと、同じ手つきだった。
*
月末は、いつもと同じ朝だった。
主人は、いつもの時間に水を替えた。いつもの豆腐を作り、いつもの客に売った。送別会は、なかった。花束も、挨拶回りも、なかった。誰も、それを「特別な日」にはしなかった。主人が、そうさせなかった。
夕方、いつもの時間に、のれんが、しまわれた。
シャッターが、静かに下りた。
それで、五十年が、終わった。
*
翌朝、エルはその前を通った。
閉じたシャッターの前が、掃かれていた。
ちりひとつ、なかった。左隣の八百屋が自分の店の前を掃くついでに掃いたのだ。右隣の乾物屋も、そうだった。両隣が、いつものように、閉じた店の前まで、掃いていた。
店は、死んだ。
けれど、その前を掃く手は、消えていなかった。
エルはしばらくその掃かれた地面を見ていた。
救えなかった。けれど、この街は、救えない店の前も、掃く。誰に頼まれるでもなく、いつものように。
その朝の豆腐屋の前を、エルは、忘れないだろうと思った。
源さんの窯とは、違う、と、ふと思った。あの人は、退こうとしている。源さんは退きたくないのに、退かされようとしている。
——望んでいる人には、まだ間に合う。
エルは、掃かれたシャッターに、もう一度だけ頭を下げて、その角を曲がった。




