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喧嘩という名の出陣

その夜、湊人は箸が止まっていた。

佳代子が風呂に立ち、食卓には、エルと湊人だけが残っていた。エルは湊人の止まった箸をしばらく見ていた。人の沈黙を読むのは彼女のいちばん古い技術だった。

「湊人様」

「……はい」

「河原の、ご友人ですか」

湊人の箸が、ぴくりと動いた。

「なんで、分かるんですか」

「あなたの黙り方が、いつもと違いますもの。……人の名を言うまいとする黙り方ですわ。あの、線香花火の夜と、同じ」

湊人はしばらく黙ってから低く言った。

「あいつが、面倒なやつらに絡まれてて。金の話です。……昔つるんでた連中で、たちが悪い。今日、駅裏で囲まれてるとこ、見ちゃって」

「それで」

「……通り過ぎました」

湊人は味噌汁の椀を両手で包んだ。

「だって、どうしようもないでしょ。相手は四人だし、こっちは高校生だし。行ったって、また——」

彼は、言いかけて、やめた。

「また、二人でボコられるだけだ」

河原の話だった。中学の頃、三人に囲まれた見知らぬ男に、自転車で突っ込んで、結局二人でボコられた。その男が、今の親友だ。エルはその話を前に一度、聞いていた。勝てぬと知りながら突っ込んだのですね、と、あの時は、口にしなかった。

「もう、ガキじゃないんで。ちゃんと、考えるんですよ、俺も。……行っても、意味ない。関わらないのが、いちばん丸くおさまる」

湊人は椀を置いて立ち上がろうとした。

「湊人。お座りなさい」

様が、消えていた。

湊人の腰が、椅子に戻った。

「あなたは今、いちばん賢いことを、仰いました」

エルは、静かに言った。声は少しも荒れていなかった。

「関わらない。丸くおさまる。波風を立てない。……ええ、賢い。その通りですわ」

湊人は、目を伏せた。

「でも、湊人様。……この間の、豆腐屋の水を、覚えていらして?」

「……水?」

「あの水は、澄んでおりました。動かさずとも、澄む水はございますの。けれど」

エルは、まっすぐ彼を見た。

「波風を立てないことと、水が澄んでいることは、違いましてよ。……動かさぬ水は、澄むこともあれば、淀むこともある。今のあなたのそれは、澄んでいるのではなく——淀んでおりますわ」

湊人は何も言い返さなかった。

言い返せなかった。彼自身が、いちばんそれを知っていた。丸くおさまる、と言った時、自分の声が、少し濁ったのを聞いていた。

長い、沈黙があった。

やがて、湊人が、ぼそりと言った。

「……河原の時、俺、勝てないの、分かってたんです」

「ええ」

「分かってて、突っ込んだ。バカだから。……あいつ、それで、今も友達で」

湊人は、自分の手を見ていた。

「今、行かなかったら。……賢く通り過ぎたら。俺、たぶん、二度と突っ込めなくなる。あの時の俺が、嘘になる」

彼は、顔を上げた。目の奥に、一瞬、あの河原の火が灯っていた。勝てぬと知りながら突っ込む魂。それはエルが匿われた夜から、ずっと、そこにあったものだった。

「……行きます。俺の、問題だから」

エルのためでも、正義のためでも、なかった。

自分が、自分でいるための、彼だけの理由だった。

エルは立ち上がった。

そして、深く頭を下げた。

「では、参りましょう」

「え、エルディアーナさんは、来なくて」

「あなたが戦うのなら」

エルは、真剣な顔で言った。

「わたくしが、剣になりますわ」

湊人は、一瞬、固まった。

「……剣」

「ええ。以前、あなたに剣を差し上げようかと、思案したことが、ございますの。あれの、続きですわ。差し上げるより、なる方が早うございます」

「いや、なる方が、って……剣、喋るし」

「よく斬れる剣ですのよ」

湊人は、笑ってしまった。こんな時なのに。

その笑いで、少しだけ肩の力が抜けた。たぶん、それが狙いだった。

駅裏の、自販機の灯りの下で、親友は、まだ囲まれていた。

湊人は走った。息を切らして、その輪の真ん中に割って入った。勝算は、なかった。相変わらず、四人だった。相変わらず、こっちは丸腰の高校生だった。

ただ、今夜は、一つだけ違った。

その半歩後ろに、背筋を伸ばした令嬢が、静かに立っていた。

男たちは、一瞬、たじろいだ。喧嘩に、場違いすぎるものが混ざっていた。ジャージ姿の、けれど、まるで宮廷にでもいるように立つ、金髪の娘。その落ち着きが、不気味だった。

「……なんだ、こいつら」

「連れです」と湊人が言った。「俺の」

結局、その夜、湊人は殴られた。一発、頬にもらった。けれど、親友を、輪の外に押し出すことは、できた。二人で、走って、逃げた。エルも、令嬢とは思えぬ速さで走った。

勝ちでは、なかった。

でも、通り過ぎては、いなかった。

河原まで逃げて、三人で、息を切らして座り込んだ。

親友は湊人の腫れた頬を見て、それから、笑った。

「……お前、変わんねえな。中学から」

「うるせえ」

エルはその二人を少し離れて見ていた。

勝てぬと知りながら、突っ込んだのですね。この方は。

あの夜と同じことを、また思った。今度も、口には、しなかった。ただ、その魂を、自分は選んだのだ、と、静かに思っただけだった。

川面が、街の灯りを揺らしていた。動いている水は、濁ってなど、いなかった。

その夜、布団の中で、湊人は腫れた頬に触れた。じん、と痛んだ。

淀んでおりますわ、じゃねえよ、と思った。……分かってるんだよ、そんなの。言われる前から、ずっと。

それでも、今夜は、通り過ぎなかった。それだけで、眠れそうだった。

頬は、朝まで痛んだ。悪くない痛みだった。

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