喧嘩という名の出陣
その夜、湊人は箸が止まっていた。
佳代子が風呂に立ち、食卓には、エルと湊人だけが残っていた。エルは湊人の止まった箸をしばらく見ていた。人の沈黙を読むのは彼女のいちばん古い技術だった。
「湊人様」
「……はい」
「河原の、ご友人ですか」
湊人の箸が、ぴくりと動いた。
「なんで、分かるんですか」
「あなたの黙り方が、いつもと違いますもの。……人の名を言うまいとする黙り方ですわ。あの、線香花火の夜と、同じ」
湊人はしばらく黙ってから低く言った。
「あいつが、面倒なやつらに絡まれてて。金の話です。……昔つるんでた連中で、たちが悪い。今日、駅裏で囲まれてるとこ、見ちゃって」
「それで」
「……通り過ぎました」
*
湊人は味噌汁の椀を両手で包んだ。
「だって、どうしようもないでしょ。相手は四人だし、こっちは高校生だし。行ったって、また——」
彼は、言いかけて、やめた。
「また、二人でボコられるだけだ」
河原の話だった。中学の頃、三人に囲まれた見知らぬ男に、自転車で突っ込んで、結局二人でボコられた。その男が、今の親友だ。エルはその話を前に一度、聞いていた。勝てぬと知りながら突っ込んだのですね、と、あの時は、口にしなかった。
「もう、ガキじゃないんで。ちゃんと、考えるんですよ、俺も。……行っても、意味ない。関わらないのが、いちばん丸くおさまる」
湊人は椀を置いて立ち上がろうとした。
「湊人。お座りなさい」
様が、消えていた。
湊人の腰が、椅子に戻った。
*
「あなたは今、いちばん賢いことを、仰いました」
エルは、静かに言った。声は少しも荒れていなかった。
「関わらない。丸くおさまる。波風を立てない。……ええ、賢い。その通りですわ」
湊人は、目を伏せた。
「でも、湊人様。……この間の、豆腐屋の水を、覚えていらして?」
「……水?」
「あの水は、澄んでおりました。動かさずとも、澄む水はございますの。けれど」
エルは、まっすぐ彼を見た。
「波風を立てないことと、水が澄んでいることは、違いましてよ。……動かさぬ水は、澄むこともあれば、淀むこともある。今のあなたのそれは、澄んでいるのではなく——淀んでおりますわ」
湊人は何も言い返さなかった。
言い返せなかった。彼自身が、いちばんそれを知っていた。丸くおさまる、と言った時、自分の声が、少し濁ったのを聞いていた。
*
長い、沈黙があった。
やがて、湊人が、ぼそりと言った。
「……河原の時、俺、勝てないの、分かってたんです」
「ええ」
「分かってて、突っ込んだ。バカだから。……あいつ、それで、今も友達で」
湊人は、自分の手を見ていた。
「今、行かなかったら。……賢く通り過ぎたら。俺、たぶん、二度と突っ込めなくなる。あの時の俺が、嘘になる」
彼は、顔を上げた。目の奥に、一瞬、あの河原の火が灯っていた。勝てぬと知りながら突っ込む魂。それはエルが匿われた夜から、ずっと、そこにあったものだった。
「……行きます。俺の、問題だから」
エルのためでも、正義のためでも、なかった。
自分が、自分でいるための、彼だけの理由だった。
*
エルは立ち上がった。
そして、深く頭を下げた。
「では、参りましょう」
「え、エルディアーナさんは、来なくて」
「あなたが戦うのなら」
エルは、真剣な顔で言った。
「わたくしが、剣になりますわ」
湊人は、一瞬、固まった。
「……剣」
「ええ。以前、あなたに剣を差し上げようかと、思案したことが、ございますの。あれの、続きですわ。差し上げるより、なる方が早うございます」
「いや、なる方が、って……剣、喋るし」
「よく斬れる剣ですのよ」
湊人は、笑ってしまった。こんな時なのに。
その笑いで、少しだけ肩の力が抜けた。たぶん、それが狙いだった。
*
駅裏の、自販機の灯りの下で、親友は、まだ囲まれていた。
湊人は走った。息を切らして、その輪の真ん中に割って入った。勝算は、なかった。相変わらず、四人だった。相変わらず、こっちは丸腰の高校生だった。
ただ、今夜は、一つだけ違った。
その半歩後ろに、背筋を伸ばした令嬢が、静かに立っていた。
男たちは、一瞬、たじろいだ。喧嘩に、場違いすぎるものが混ざっていた。ジャージ姿の、けれど、まるで宮廷にでもいるように立つ、金髪の娘。その落ち着きが、不気味だった。
「……なんだ、こいつら」
「連れです」と湊人が言った。「俺の」
結局、その夜、湊人は殴られた。一発、頬にもらった。けれど、親友を、輪の外に押し出すことは、できた。二人で、走って、逃げた。エルも、令嬢とは思えぬ速さで走った。
勝ちでは、なかった。
でも、通り過ぎては、いなかった。
*
河原まで逃げて、三人で、息を切らして座り込んだ。
親友は湊人の腫れた頬を見て、それから、笑った。
「……お前、変わんねえな。中学から」
「うるせえ」
エルはその二人を少し離れて見ていた。
勝てぬと知りながら、突っ込んだのですね。この方は。
あの夜と同じことを、また思った。今度も、口には、しなかった。ただ、その魂を、自分は選んだのだ、と、静かに思っただけだった。
川面が、街の灯りを揺らしていた。動いている水は、濁ってなど、いなかった。
*
その夜、布団の中で、湊人は腫れた頬に触れた。じん、と痛んだ。
淀んでおりますわ、じゃねえよ、と思った。……分かってるんだよ、そんなの。言われる前から、ずっと。
それでも、今夜は、通り過ぎなかった。それだけで、眠れそうだった。
頬は、朝まで痛んだ。悪くない痛みだった。




