書き初めという名の手
父が帰ってきたのは、大晦日の夕方だった。
単身赴任の街から、大きな鞄と、それより大きな紙袋を提げて。紙袋の中身は案の定、エルへの土産だった。
「エルちゃん、これ。向こうのデパートで見つけてな」
出てきたのは木箱に入った、立派なチェス盤だった。
「令嬢っつったら、チェスだろ。優雅にやるやつ」
「……お父様」
「おう」
「これは、たいへんな御見立てにございます」
エルは両手で恭しく木箱を受け取った。
「ただ、一つだけ。……わたくしの国では、これは、将棋に少し似た別の遊戯でして。駒の動きが、こう」
「あ、いいのいいの。動きは、あとで教えて」
「はい。喜んで」
湊人が台所で、ぼそりと言った。
「……盆はシャンデリアだったな、確か」
「聞こえてるぞ、湊人」
*
年が明けた。
高瀬家の元日は、賑やかだった。佳代子の雑煮。父のあぐら。テレビの、遠い笑い声。エルはその真ん中に当たり前のように座っていた。去年の正月には考えられなかった景色だった。
昼過ぎ、父が、押し入れから、古い硯箱を引っ張り出した。
「よし。書き初めやるか。うちの正月の、恒例な」
「書き初め」
「一年の抱負を一字で書くんだよ。湊人なんか、毎年『寝』とか書きやがる」
「去年は『飯』」
「進歩がないんだ、こいつは」
「……今年は、考える」と、湊人が言った。
「お。……春から三年だもんな」
「関係ないだろ」
「あるだろ。こういうのは、書いとくもんだ」
エルはその硯と、白い紙と、筆をじっと見ていた。墨の匂いが、立っていた。
「わたくしも、書いても、よろしいのですか」
「当たり前だろ。ほら」
父が、筆を差し出した。
*
その時だけ、父の手つきが、変わった。
いつもの、がさつな父ではなかった。両手で、筆の軸を水平に支え、穂先を、そっと相手のほうへ向けて。まるで、大切なものを、次の誰かへ託すように。無言で、正しく、差し出した。
単身赴任の男の、それは、どこで覚えたのか分からない、けれど確かな、礼だった。
エルの指が、その筆に触れた。
——知っている、と思った。
この、渡され方を。
誰かが、こうやって、幼いわたくしに、初めての筆を持たせてくれた。大きな、皺の寄った、老いた手が、わたくしの小さな手に、そっと添えられて。力の入れ方を、線の運び方を、無言で教えてくれた。字が書けた日、その手は、一度だけ、頭を撫でた。
それから——。
*
それから、もう一つの手を、指が、思い出した。
あの、最後の夜。
暗がりの中で、肩甲骨の間に、覚えのある、老いた手が触れた。
押したのか、引き戻そうとしたのか。
——いまも、分からない。
突き出したのかもしれない。向こうへ、逃がすために。あるいは、留めようとしたのかもしれない。行くな、と。その手が、味方だったのか、そうでなかったのか。手は、何も言わなかった。ただ、触れて、そして、次の瞬間には、もう、暗闇しかなかった。
エルは、その両方の手を、同じ一人のものとして、覚えている。
初めての字を教えた手と、最後に背に触れた手。
——あの手は今、どこにあるのだろう。
*
「エルちゃん?」
父の声で、エルは我に返った。筆は、もう、その手の中にあった。
「どうした。緊張したか」
「……いえ」
エルは背筋を伸ばし、硯に筆を浸した。
そして、白い紙に一字を書いた。
迷いのない、美しい線だった。半年、日記で鍛えた手が、今日は震えなかった。
書いたのは、『家』の一字だった。
「お、いい字だな。……『家』か」
「はい」
「なんで、家?」
エルは少し考えてから答えた。
「二つ、ございますの。……帰るべき家と、」
彼女は雑煮の湯気の向こうの賑やかな食卓を見た。
「今、いる家と」
父はしばらくその一字を見ていた。それから、いつものがさつな声で言った。
「……両方、大事にすりゃいい。どっちも、逃げやしねえよ」
逃げやしない、という言葉が、エルの胸の、いちばん柔らかいところに落ちた。
どちらも、逃げてほしくない、と思った。
*
夜、エルは書いた『家』の紙を、そっと日記に挟んだ。
窓の外で、初詣に向かう人の声が、遠く聞こえた。
押し入れの襖は、静かに閉じていた。あれから、一度も鳴っていない。石の匂いも、していない。次に、あの建具が鳴る時——あの、老いた手は、味方として、来るのだろうか。
分からなかった。
分からないまま、エルは灯りを消した。
正月の夜は、長く、そして、あたたかかった。




