火という名の恩送り
二月の風は、まだ冬のものだった。
商店街の再開発は来月にいよいよ住民の意向調査を控えていた。賛成が過半を超えれば、話は一気に進む。源さんの息子はあれから何度か窯のある角に立っていた。何も言わずに、ただ父の背中を見て帰った。
エルはそのすべてを少し離れて見ていた。票は相変わらず持っていない。
けれど、道は見つけていた。
ずっと前の夜、日記に書いた。見つかったら、その時は票がなくても口を出す、と。
今日は、その日だった。
*
源さんはいつもの角で灰をならしていた。
「源さん」
「……また来た」
「参りました」
「知ってる」
挨拶はもう体に染みついていた。エルはいつものように芋を三本頼み、それから姿勢を正した。
豆腐屋のことを思い出していた。あの時、わたくしは先に口を出して断られた。道を示すより先に、しなければならないことがあった。
「源さん。……一つだけ、伺っても、よろしいですか」
「なんだ」
「退きたいのですか。それとも、退きたく、ないのですか」
源さんの灰をならす手が、止まった。
*
長い間があった。
源さんはこちらを見なかった。窯の火を見ていた。
「……阿呆か」
低い声だった。
「退きたきゃ、とっくに、退いてる。この歳だ。腰も、いつまで、もつか分からん。……でもな。まだ、うまい芋が、焼けるんだ。焼けるうちは」
そこで、言葉が切れた。
「焼けるうちは、焼きてえよ」
それはこの偏屈な老人が生まれて初めて他人に見せた、剥き出しの一行だった。
エルはその一行を胸にしまった。
——望んでいる。この人は、まだ、望んでいる。
ならば、これは傲慢ではない。差し出しても、いい手だった。
*
「源さん。差し出がましいことを、申します」
「今日は、よく喋るな、お前」
「この火を、遺す道が、ございます」
エルは窯の火を指した。
「弟子を、取れとは、申しません。窯を、誰かに、明け渡せとも。……ただ、この焚き方を、一つずつ、誰かに、教える。あなたが、元気なうちに。そうすれば、火は、あなたの手を離れても、消えません」
「俺の手を、離れて」
「ええ。火を、絶やすのでは、ございません。……回すのですわ」
源さんの目が、ほんの少し動いた。
その言葉を、彼は知っていた。夏の日、初任給の娘に自分で言った言葉だった。返さねえで、次に回す。あの時は、芋一本のことだった。
「……芋と、火は、違うぞ」
「同じですわ。いただいた恩は、返すのではなく、次へ。……火も、同じ。あなたのいただいた、この街の五十年を、次の誰かへ、回すのです」
源さんは、何も言わなかった。
しばらく、火を見ていた。それから、ぼそりと言った。
「……回すなんて、言ってねえぞ、俺は」
「はい。まだ、仰っておりません」
*
源さんは団扇を置いた。
そして、エルに灰かきの棒を差し出した。
「火を、見てろ」
「……よろしいのですか」
「見てるだけだ。回すとか、そういう話じゃねえ。……ただ、今日は、灰が多い。手が、足りん。それだけだ」
エルは両手で、その棒を受け取った。
源さんは隣にしゃがみ、火の底を指した。
「そこの、赤いとこ。あれが、消えかけたら、ここの灰を、そっとどける。あおぐな。あおぐと、火は、驚く。……待つんだ。火が、自分で、また燃えるのを」
それは五十年誰にも教えたことのない、一つだった。
エルは真剣に火の底を見た。赤い熾が、灰の下で息をしていた。
源さんは「回す」とは言わなかった。
けれど、その手は、たしかに一滴を渡していた。
*
帰り道、空はもう暮れかけていた。
エルは湊人にぽつりと言った。
「湊人様。……暦を、調べておりましたの。冬至から、日の長さを、数えて」
「はい」
「次の盆まで、あと、半年ほどですわ」
湊人は少し黙った。
「……去年の盆に、押し入れが、微かに鳴った」
「ええ。あれが、開門の兆しなら。……次に、あの建具が、本当に鳴るのは、半年後の盆」
半年。
その言葉は二つの意味を持っていた。半年、この街にいられる。そして半年後には選ばなければならないかもしれない。帰るのか、留まるのか。
「エルディアーナさん」
「はい」
「……焦らなくて、いいですよ。半年、あるんだから」
「ええ」
エルは、前を向いて歩いた。
「半年、ございますわ。……源さんの火を、あと何回、見られるかしら」
湊人はそれには答えなかった。答えの代わりに、いつもより少しだけ歩幅を合わせた。
源さんの窯の煙が、暮れの空に、細く、まっすぐ、立ちのぼっていた。
まだ、消えていなかった。




