焼き芋という名の詫び
三月の空はまだ、寒さと春の匂いを半分ずつ混ぜていた。
商店街の意向調査は、今週末だった。賛成が過半を超えるか、超えないか。誰にも、まだ分からなかった。源さんの窯はその渦の真ん中にあった。
その日、源さんは、灯油を切らしていた。
「ちょっと、買ってくる。……火、見てろ。あおぐなよ」
「はい」
エルは灰かきの棒を手に火の前にしゃがんだ。一人で窯の火を任されるのは、初めてだった。
赤い熾が、灰の下で細く息をしていた。少し弱っていた。手が、あおぎたがった。
けれど、エルは、あおがなかった。
あおぐな。火は、驚く。
彼女は、待った。火が、自分で、また燃えるのを。
やがて、熾は、ひとりでに、また赤みを増した。
……この方は、こういうことを、五十年、していらしたのね。
*
その時、視界の隅に、見覚えのある背広が立った。
源さんの息子だった。あの角に、また来ていた。父の姿を探して、それがないことに気づいて、行こうとして——けれど、その足が止まっていた。窯の火に、目が行っていた。
エルは立ち上がった。
そして、いちばんよく焼けた一本を新聞紙にくるんだ。
「……焼きたてですわ」
息子に、差し出した。
「え、いや、俺は」
「一本、いかがですか。……本日の、いちばん良い芋ですの」
父のことも、店のことも、言わなかった。ただ、芋を売った。
息子はしばらくその芋を見て、それからゆっくり受け取った。
「……いくら」
「百八十円ですわ」
彼は、財布から、小銭を出した。客として。
*
エルは自分の三本を提げ、一礼してその場を離れた。
「またのお越しを」
いつもの、購入の儀式だった。それがそのまま退場の作法になった。
角を曲がる、少し手前で。
背中のほうで、源さんの、帰ってくる足音がした。それから、短い、間。
「……なんだ、お前」
息子は、答えなかった。芋を、食べていた。
エルは、振り返らなかった。ただ、歩きながら、聞いていた。
「……うまいか」
源さんの声だった。
「…………うまい」
息子の声は、少し掠れていた。
「……昔より、うまくなってねえか」
「五十年、焼いてりゃな」
それだけだった。
それ以上は、どちらも言わなかった。言えば、崩れる。二人とも、それを知っていた。
*
通りの角まで来て、エルは、ようやく足を止めた。
湊人が、隣に並んだ。
二人で、振り返った。
夕暮れの、商店街の外れ。軽トラの窯から、細い煙が、まっすぐ立ちのぼっていた。その煙の下に、二つの影があった。少し離れて、けれど、同じ火に当たっていた。
どちらも、何も喋っていないようだった。ただ、芋を食べていた。
エルはその画をしばらく見ていた。それから、前へ向き直った。何も言わなかった。言うことは、何もなかった。
「湊人様」
「はい」
「次の盆まで、あと半年ですわ」
「……はい」
それだけ言って、エルは、歩き出した。
振り返らなかった。けれど、背中で、あの煙が、まだまっすぐ立っているのが、分かった。
消えては、いなかった。
次の手へ渡りかけた火が、暮れの空へ、細く、まっすぐ、昇っていた。




