線香花火という名の問答
金曜の夕方、まひるは寝袋と枕を抱えて高瀬家に現れた。
「お泊まり会でーす」
「聞いてないんだけど」と湊人。
「あんたには言ってない。エルと佳代子さんには言った」
「俺の家なのに」
「エルー! 花火買ってきた! 徳用!」
まひるは湊人を素通りして、台所へ消えた。廊下に、エルの「まあ、徳用」という声と、佳代子の笑い声が響いた。
その夜の寝床の配置は、こうなった。湊人の部屋に、まひるの寝袋と、エルの押し入れ。湊人は、居間のソファ。
「……俺の部屋なのに」
「女子会だから」
「押し入れ、俺の部屋にあるだけだから」
「女子会だから」
議論は、成立しなかった。
*
夕食は素麺と、天ぷらと、スイカだった。
まひるはよく食べ、よく喋った。学校の話。凛のテニス部の話。商店街の金魚すくいの話。エルは、聞き上手だった。まひるの話は主語がよく行方不明になったが、エルは全部、正確に追跡した。
途中、まひるが、思い出したように箸を止めた。
「あ、そうだ。エル、知ってる? 湊人ってさ、中学ん時——」
「素麺、まだ茹でるけど」
湊人が、立ち上がっていた。誰も、おかわりを頼んでいなかった。
「え、なに、今の間」
「茹でてくる」
台所へ消える背中をまひるは箸をくわえたまま見送って、「ま、いっか」と、凛の部活の話に戻った。まひるの話題は、来た道を覚えていない。
エルだけが、湯気の向こうの背中を、一拍だけ長く見ていた。
追いはしなかった。人が蓋をしたものを、外から開けない。それが、彼女の作法だった。
そして、スイカが出た頃だった。
「そういえばさー」
まひるが種を皿に出しながら言った。
「エルってさ、向こうで牢屋入れられてたんでしょ? 濡れ衣で」
「まひる」湊人が、低い声を出した。
「ええ。入れられておりましたわ」
エルは、普通に答えた。
「じゃあさ」
まひるはスイカを一口かじって続けた。
「こっち来て、ラッキーじゃん。帰んなくて、よくない?」
食卓が、止まった。
湊人の箸が、止まった。佳代子の手が、麦茶のポットにかかったまま、止まった。二人の目が同時にエルの顔色を窺った。
エルは——顔色ひとつ、変えていなかった。
スイカを皿に置き、指先を拭き、それから、まっすぐにまひるを見た。
「……ええ。ラッキー、でしたわ」
「でしょ?」
「この世界は、温かいですもの。灯りも、お料理も、人も。牢とは、比べものになりません」
エルは、そこで一拍おいた。
「ですが——わたくしは、濡れ衣のまま、消えたのです」
「……ん?」
「あちらでは今、こう言われているはずですわ。『クロイツェルの娘は、罪を認めて逃げた』と。わたくしが戻らなければ、それが真実になります。父の名も、祖母の名も、家に仕える者たちの名も——罪人の家の名として、朽ちていく」
声は、静かだった。夕食の続きのような声だった。それが、いちばん、効いた。
「ですから、帰らねばなりませんの。帰りたい、帰りたくない、の前に」
まひるはスイカを持ったまま、しばらく黙っていた。
それから、言った。
「……帰ったら、その濡れ衣、どうすんの」
「晴らします」
「相手、偉い奴なんでしょ。勝てんの?」
「————」
エルは、一瞬だけ、黙った。
「……勝ちます」
「そっか」
まひるは頷いて、スイカの残りをかじった。
「じゃ、それまでこっちで遊ぼ」
「……ええ」
佳代子が何事もなかったように、麦茶を注いで回った。
「はい、おかわり。……スイカ、まだあるわよ」
食卓は、動き出した。ただ、湊人だけが、しばらく箸を持ち直せなかった。
「帰らねばなりません」。
その言葉を、彼は、初めてエルの口から、はっきりと聞いたのだった。
*
夜。庭で、花火をした。
エルは手持ち花火の最初の一本に火が点いた瞬間、真顔で三歩下がり、「武器では」と呟き、まひるに笑い倒された。三本目からは、慣れた。五本目には、二本持ちを覚えた。八本目で、まひると火花の大きさを競い始めた。
「あーもう! なんで張り合うの!」
「先に競われたのは、まひるですわ」
その時、庭の塀の向こうから、ぬっと、ポニーテールが生えた。
「——花火やるって聞いた」
「うわ、凛!? なんで!?」
「まひるがSNSに上げてた。三分前」
「早いよ!」
凛は塀を(門から入れと湊人に言われながら)乗り越えて、抱えてきたレジ袋を、縁側にどさりと置いた。
「差し入れ。店の乾き物、賞味期限近いやつ」
袋の中身は裂きイカ、ビーフジャーキー、チーズ鱈、都こんぶ。花火の夜の差し入れとして、渋さが振り切れていた。
「凛……あんた、女子高生の差し入れじゃないのよ、これ」
「うまいもん、全部」
「あと、なんかジュース——」まひるが袋の底から缶を出した。「……これ、お父さんのノンアルじゃない?」
「あ。間違えた」
エルは裂きイカを一本、丁寧に検分してから口に運び、動きを止めた。
「……美味、ですわ」
「でしょ」凛が、勝ち誇った。
「噛むほどに、味が。……これは、保存食の完成形では」
「令嬢が裂きイカにハマった」と、湊人が誰にともなく実況した。
*
手持ちが尽きる、少し前だった。
エルが火のついた花火を持ったまま、ふと腕を高く掲げた。
そして、ゆっくりと左右に二度、振った。
はしゃいだ動きではなかった。静かな、儀式のような所作だった。火の粉が、夜の中に、弧を描いた。
「……何それ」
「え?」
エルは、自分の腕を見た。それから、少し驚いた顔をした。無意識だったらしい。
「……あちらでは、夜、火を掲げて振るのは——遠くの者への、合図ですの。『ここにいる』と、報せる作法ですわ。狩りの野営や、離れた見張りの間で」
「へえ」
「…………」
エルは掲げたままの腕をゆっくりと下ろした。
——昔、同じことを、した。
屋敷の裏庭の、井戸端で。手燭を掲げて、二度。すると厨の窓から、同じ高さの灯りが二度、返ってきた。返すのは、いつも同じ子だった。同い年の。作法など教わってもいないのに、見よう見まねの、律儀な二度だった。
「……報せる相手も、おりませんのに」
庭が、一拍だけ、静かになった。
「じゃ、あたしに報せてよ」
まひるが、雑に言った。
「ここにいるって。ほら」
「……ふふ」
エルは笑って、もう一度腕を掲げた。今度はまひるに向かって、二度振った。
まひるも自分の花火を掲げて、振り返した。凛も、よく分からないまま、振った。湊人だけが、バケツの縁で、消えかけの一本を所在なく振って、三人に笑われた。
*
そして、線香花火が残った。
「これはね」まひるが、声を落とした。「静かにやるやつ。落としたら、負け」
「——待った」
凛が線香花火の束から、一本を抜いた。目が、据わっていた。
「エルディアーナさん。……リベンジ、させてもらう」
「てにす、の?」
「テニスの。……線香花火なら、体力関係ない。今夜こそ、勝負がしたい」
「よろしくてよ」
エルも、一本取った。受けて立つ顔だった。名指しの挑戦は、断らない人だった。
「あんたたち、線香花火に何を懸けてんの……」
まひるも呆れながら一本取り、三人は庭の隅にしゃがんだ。
三つの火の玉が、ぱち、ぱち、と、松葉を散らし始める。
凛は微動だにしない構えだった。テニスで鍛えた体幹が、火の玉を完璧に静止させていた。エルも背筋を伸ばし、呼吸まで整えていた。二人の間に、火花が散っていた。物理的にも、比喩的にも。
まひるだけが鼻歌まじりに、適当に持っていた。
——結果。
凛の火の玉が、力みの一瞬に、落ちた。
「あっ……!!」
エルの火の玉が、勝利を確信した、その微かな揺らぎに、落ちた。
「————まあ」
まひるの火の玉だけが、鼻歌の先で、まだ、ぱちぱちと生きていた。
「……え、なんか、勝った?」
真剣勝負の二人が並んで呆然とまひるの手元を見ていた。
「なんで……体幹では、あたしが……」
「……力まぬ者が、残るのですね……」
「え、何、二人ともそんな本気だったの? こわ」
まひるの火の玉が、最後の松葉を散らして、静かに落ちた。勝者だけが、勝負をしていなかった。
*
凛は線香花火を三本、エルと引き分けたところで、門から帰っていった。塀からではなく、門からだった。
「また来る。次はトランプでリベンジ」
「よろしくてよ」
「受けて立つな、いちいち」と湊人。
夜半。
寝袋のまひるは電気を消して三分で寝息を立てた。見事な寝付きだった。
エルは押し入れの床に入り、襖を、いつものように細く開けたまま——今夜は、閉めなかった。
畳の上の寝袋から、規則正しい寝息が聞こえる。
名も、身分も、証も、何ひとつ問わずに、隣で眠っている人がいる。今夜、線香花火の下で、まひるは言った。「どっちでもいいや、エルはエルだし」と。押し入れから来た話は半分信じていないままで、それでも、なんでも、と。
(……名を除いたわたくしを、問わずに受け入れた方は、あなたが初めてですわ、まひる)
エルは暗がりの中で、寝袋に向かって、聞こえない声で言った。
「……おやすみなさいまし」
返事の代わりに、寝息が、ひとつ、大きくなった。
庭には、火薬の匂いが、まだ薄く残っていた。
迎え火の季節が、もうすぐ、来ようとしていた。




