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線香花火という名の問答

金曜の夕方、まひるは寝袋と枕を抱えて高瀬家に現れた。

「お泊まり会でーす」

「聞いてないんだけど」と湊人。

「あんたには言ってない。エルと佳代子さんには言った」

「俺の家なのに」

「エルー! 花火買ってきた! 徳用!」

まひるは湊人を素通りして、台所へ消えた。廊下に、エルの「まあ、徳用」という声と、佳代子の笑い声が響いた。

その夜の寝床の配置は、こうなった。湊人の部屋に、まひるの寝袋と、エルの押し入れ。湊人は、居間のソファ。

「……俺の部屋なのに」

「女子会だから」

「押し入れ、俺の部屋にあるだけだから」

「女子会だから」

議論は、成立しなかった。

夕食は素麺と、天ぷらと、スイカだった。

まひるはよく食べ、よく喋った。学校の話。凛のテニス部の話。商店街の金魚すくいの話。エルは、聞き上手だった。まひるの話は主語がよく行方不明になったが、エルは全部、正確に追跡した。

途中、まひるが、思い出したように箸を止めた。

「あ、そうだ。エル、知ってる? 湊人ってさ、中学ん時——」

「素麺、まだ茹でるけど」

湊人が、立ち上がっていた。誰も、おかわりを頼んでいなかった。

「え、なに、今の間」

「茹でてくる」

台所へ消える背中をまひるは箸をくわえたまま見送って、「ま、いっか」と、凛の部活の話に戻った。まひるの話題は、来た道を覚えていない。

エルだけが、湯気の向こうの背中を、一拍だけ長く見ていた。

追いはしなかった。人が蓋をしたものを、外から開けない。それが、彼女の作法だった。

そして、スイカが出た頃だった。

「そういえばさー」

まひるが種を皿に出しながら言った。

「エルってさ、向こうで牢屋入れられてたんでしょ? 濡れ衣で」

「まひる」湊人が、低い声を出した。

「ええ。入れられておりましたわ」

エルは、普通に答えた。

「じゃあさ」

まひるはスイカを一口かじって続けた。

「こっち来て、ラッキーじゃん。帰んなくて、よくない?」

食卓が、止まった。

湊人の箸が、止まった。佳代子の手が、麦茶のポットにかかったまま、止まった。二人の目が同時にエルの顔色を窺った。

エルは——顔色ひとつ、変えていなかった。

スイカを皿に置き、指先を拭き、それから、まっすぐにまひるを見た。

「……ええ。ラッキー、でしたわ」

「でしょ?」

「この世界は、温かいですもの。灯りも、お料理も、人も。牢とは、比べものになりません」

エルは、そこで一拍おいた。

「ですが——わたくしは、濡れ衣のまま、消えたのです」

「……ん?」

「あちらでは今、こう言われているはずですわ。『クロイツェルの娘は、罪を認めて逃げた』と。わたくしが戻らなければ、それが真実になります。父の名も、祖母の名も、家に仕える者たちの名も——罪人の家の名として、朽ちていく」

声は、静かだった。夕食の続きのような声だった。それが、いちばん、効いた。

「ですから、帰らねばなりませんの。帰りたい、帰りたくない、の前に」

まひるはスイカを持ったまま、しばらく黙っていた。

それから、言った。

「……帰ったら、その濡れ衣、どうすんの」

「晴らします」

「相手、偉い奴なんでしょ。勝てんの?」

「————」

エルは、一瞬だけ、黙った。

「……勝ちます」

「そっか」

まひるは頷いて、スイカの残りをかじった。

「じゃ、それまでこっちで遊ぼ」

「……ええ」

佳代子が何事もなかったように、麦茶を注いで回った。

「はい、おかわり。……スイカ、まだあるわよ」

食卓は、動き出した。ただ、湊人だけが、しばらく箸を持ち直せなかった。

「帰らねばなりません」。

その言葉を、彼は、初めてエルの口から、はっきりと聞いたのだった。

夜。庭で、花火をした。

エルは手持ち花火の最初の一本に火が点いた瞬間、真顔で三歩下がり、「武器では」と呟き、まひるに笑い倒された。三本目からは、慣れた。五本目には、二本持ちを覚えた。八本目で、まひると火花の大きさを競い始めた。

「あーもう! なんで張り合うの!」

「先に競われたのは、まひるですわ」

その時、庭の塀の向こうから、ぬっと、ポニーテールが生えた。

「——花火やるって聞いた」

「うわ、凛!? なんで!?」

「まひるがSNSに上げてた。三分前」

「早いよ!」

凛は塀を(門から入れと湊人に言われながら)乗り越えて、抱えてきたレジ袋を、縁側にどさりと置いた。

「差し入れ。店の乾き物、賞味期限近いやつ」

袋の中身は裂きイカ、ビーフジャーキー、チーズ鱈、都こんぶ。花火の夜の差し入れとして、渋さが振り切れていた。

「凛……あんた、女子高生の差し入れじゃないのよ、これ」

「うまいもん、全部」

「あと、なんかジュース——」まひるが袋の底から缶を出した。「……これ、お父さんのノンアルじゃない?」

「あ。間違えた」

エルは裂きイカを一本、丁寧に検分してから口に運び、動きを止めた。

「……美味、ですわ」

「でしょ」凛が、勝ち誇った。

「噛むほどに、味が。……これは、保存食の完成形では」

「令嬢が裂きイカにハマった」と、湊人が誰にともなく実況した。

手持ちが尽きる、少し前だった。

エルが火のついた花火を持ったまま、ふと腕を高く掲げた。

そして、ゆっくりと左右に二度、振った。

はしゃいだ動きではなかった。静かな、儀式のような所作だった。火の粉が、夜の中に、弧を描いた。

「……何それ」

「え?」

エルは、自分の腕を見た。それから、少し驚いた顔をした。無意識だったらしい。

「……あちらでは、夜、火を掲げて振るのは——遠くの者への、合図ですの。『ここにいる』と、報せる作法ですわ。狩りの野営や、離れた見張りの間で」

「へえ」

「…………」

エルは掲げたままの腕をゆっくりと下ろした。

——昔、同じことを、した。

屋敷の裏庭の、井戸端で。手燭を掲げて、二度。すると厨の窓から、同じ高さの灯りが二度、返ってきた。返すのは、いつも同じ子だった。同い年の。作法など教わってもいないのに、見よう見まねの、律儀な二度だった。

「……報せる相手も、おりませんのに」

庭が、一拍だけ、静かになった。

「じゃ、あたしに報せてよ」

まひるが、雑に言った。

「ここにいるって。ほら」

「……ふふ」

エルは笑って、もう一度腕を掲げた。今度はまひるに向かって、二度振った。

まひるも自分の花火を掲げて、振り返した。凛も、よく分からないまま、振った。湊人だけが、バケツの縁で、消えかけの一本を所在なく振って、三人に笑われた。

そして、線香花火が残った。

「これはね」まひるが、声を落とした。「静かにやるやつ。落としたら、負け」

「——待った」

凛が線香花火の束から、一本を抜いた。目が、据わっていた。

「エルディアーナさん。……リベンジ、させてもらう」

「てにす、の?」

「テニスの。……線香花火なら、体力関係ない。今夜こそ、勝負がしたい」

「よろしくてよ」

エルも、一本取った。受けて立つ顔だった。名指しの挑戦は、断らない人だった。

「あんたたち、線香花火に何を懸けてんの……」

まひるも呆れながら一本取り、三人は庭の隅にしゃがんだ。

三つの火の玉が、ぱち、ぱち、と、松葉を散らし始める。

凛は微動だにしない構えだった。テニスで鍛えた体幹が、火の玉を完璧に静止させていた。エルも背筋を伸ばし、呼吸まで整えていた。二人の間に、火花が散っていた。物理的にも、比喩的にも。

まひるだけが鼻歌まじりに、適当に持っていた。

——結果。

凛の火の玉が、力みの一瞬に、落ちた。

「あっ……!!」

エルの火の玉が、勝利を確信した、その微かな揺らぎに、落ちた。

「————まあ」

まひるの火の玉だけが、鼻歌の先で、まだ、ぱちぱちと生きていた。

「……え、なんか、勝った?」

真剣勝負の二人が並んで呆然とまひるの手元を見ていた。

「なんで……体幹では、あたしが……」

「……力まぬ者が、残るのですね……」

「え、何、二人ともそんな本気だったの? こわ」

まひるの火の玉が、最後の松葉を散らして、静かに落ちた。勝者だけが、勝負をしていなかった。

凛は線香花火を三本、エルと引き分けたところで、門から帰っていった。塀からではなく、門からだった。

「また来る。次はトランプでリベンジ」

「よろしくてよ」

「受けて立つな、いちいち」と湊人。

夜半。

寝袋のまひるは電気を消して三分で寝息を立てた。見事な寝付きだった。

エルは押し入れの床に入り、襖を、いつものように細く開けたまま——今夜は、閉めなかった。

畳の上の寝袋から、規則正しい寝息が聞こえる。

名も、身分も、証も、何ひとつ問わずに、隣で眠っている人がいる。今夜、線香花火の下で、まひるは言った。「どっちでもいいや、エルはエルだし」と。押し入れから来た話は半分信じていないままで、それでも、なんでも、と。

(……名を除いたわたくしを、問わずに受け入れた方は、あなたが初めてですわ、まひる)

エルは暗がりの中で、寝袋に向かって、聞こえない声で言った。

「……おやすみなさいまし」

返事の代わりに、寝息が、ひとつ、大きくなった。

庭には、火薬の匂いが、まだ薄く残っていた。

迎え火の季節が、もうすぐ、来ようとしていた。

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