初任給という名の焼き芋
その封筒は洋品店ふじさきの、古いレジの奥から出てきた。
「はい。今月分」
小百合が差し出したのは、几帳面に角の揃った、白い封筒だった。表に、万年筆の細い字で「藤咲」とだけ書いてある。
エルは封筒を両手で受け取り、深く礼をした。
「確かに、頂戴いたしました」
「中、確認しないの」
「藤咲小百合様が、数え違えるはずがございませんもの」
「あんたはほんとに……」小百合は、笑いを噛み殺し、それから、にやりとした。「ねえ。初任給でね、男に何か買ってやるのは、定番よ」
「まあ」
エルは、真剣に考えた。
「……湊人様へ、剣でしょうか」
「なんで剣なの」
「殿方への贈り物の、定番ですわ」
「どこの国の定番!?」
店を出て、アーケードの端まで歩いて、エルは立ち止まった。
封筒を、もう一度、両手で持った。
この世界に来て、三か月。名は音でしかなく、書物一冊借りる信用もなかった、この街で。
封筒は、薄かった。でも、重かった。
*
帰宅すると、佳代子が洗濯物を取り込んでいた。
「あら、おかえり。……なに、その封筒。お給料もらったの?」
「はい。本日」
「いくら入ってた?」
「確認しておりませんの」
「確認しなさいよ!?」
二階から湊人も降りてきた。
「開けてないんですか。失礼とかそういう?」
「ええ。封筒を検めるのは、贈り主を疑う行いですもの」
「給料は贈り物じゃない! 労働の——」湊人は言いかけて、面倒になった。「いいから確認して」
「信用しておりますので」
「信用と確認は別!」
母子の声が、揃った。
結局、佳代子立ち会いのもと開封された封筒の中身は、一円の違いもなかった。エルは「ですから申し上げましたのに」という顔をし、佳代子は「そういう問題じゃないのよ」と天井を仰いだ。
*
——ところで、これは数日前の、湊人の話である。
バイト帰りの夜九時過ぎ。コンビニの制服をリュックに突っ込んで自転車を漕いでいた湊人は、公園の脇に、見覚えのある白い軽トラが停まっているのを見た。
荷台の横で、源さん——焼き芋屋のおじいさんが、腰に手を当てて、うずくまるように立っていた。足元には、下ろしかけの石の袋。窯に使う、あの石だ。
湊人は、自転車を停めた。別に、深く考えたわけではなかった。
「……手伝います?」
「ん? ああ……いや、いい。年寄り扱いすんな」
「石、何袋ですか」
「……六つ」
「腰、押さえてる人の言う『いい』は聞くなって、母さんが」
結局、六袋全部、湊人が積んだ。源さんは文句を言いながら、最後の一袋だけは意地で自分で積んだ。
「……兄ちゃん、名前は」
「高瀬です」
「そうかい」
それだけだった。湊人は自転車に乗り、家に帰り、このことを誰にも言わなかった。言うほどのことでもなかったからだ。
*
で、話は封筒に戻る。
その週末、エルは一人で、軽トラを探しに行った。夏の焼き芋屋は神出鬼没だが、彼女は既に、源さんの巡回路を三週間分メモしてあった。土曜の午後は、公園の南口。
いた。
『い〜しや〜きいも〜……』
エルは軽トラの前に立ち、あの日と同じ角度で、一礼した。
「お久しゅうございます」
「……ああ。嬢ちゃんか。よく分かったな、ここが」
「土曜の午後は、こちらですもの。先週も、先々週も」
「……調べてんのか」
「メモしておりますの」
「刑事か」
源さんは軍手で窯の蓋を開けた。甘い湯気が立ちのぼる。エルの背筋が条件反射で、ぴんと伸びた。
「三本、賜りたく存じます。——わたくし自身の、給金で」
彼女は封筒から千円札を一枚、丁寧に抜いた。
源さんは千円札と、エルの顔を、順に見た。
「……前のは、確か、母ちゃんの金だったな」
「覚えていてくださいましたの」
「客の顔と、芋の焼き加減しか、覚えられん頭でな」
新聞紙の包みが、三つ。エルは代金を払い、釣りを受け取り、それから——動かなかった。
「……なんだ。まだ何かあるのか」
「その窯の火を、一度、見せていただけませんこと」
*
源さんは、変わり者だった。だから、見せた。
窯の中は熱と、石と、芋の並びでできた、小さな秩序だった。石は大きさごとに層になり、火は底で静かに保たれ、芋は太さで置き場所が違った。
「強火で焼くのは素人だ。石に焼かせるんだよ」
エルが、メモ帳を出した。書いた。
「火は、石の機嫌を取るだけ」
書いた。
「芋はな、話しかけると甘くなる」
書い——
「……え」
「最後のは嘘だ」
エルは真剣な顔で、その一行を消した。消しながら、少し悔しそうだった。
「……源様。わたくしを、弟子にしていただけませんこと」
「弟子はいらん」
即答だった。エルは静かに引き下がり、買った芋の包みを抱え直した。
五秒後。
「……嬢ちゃん。新聞紙の畳み方が違う」
「申し訳ございません」
エルは、畳み直した。弟子ではないのに、直された。直されたのに、少し嬉しそうだった。
それから、気まぐれの続きのように、源さんは言った。
「……一本、焼いてみるか」
結果から言えば、エルの最初の一本は、失敗した。
置き場所を教わり、時間を教わり、しかし引き上げの一瞬を、彼女は誤った。せっかちだったのではない。慎重すぎたのだ。十秒、長かった。皮の一面が焦げの一歩手前まで行った。
「……固い。中まで、ゆかず」
自分で割って、自分で食べて、エルは、しばらく黙った。
それから、顔を上げた。
「もう一度です」
「今日はもう終いだ。芋がねえ」
「……では、次に、もう一度です」
「火は、一日じゃ覚えん」
来るなとは、言わなかった。
*
片付けを手伝いながら——手伝いは断られ、押し問答の末、新聞紙を畳む係だけ勝ち取った——エルは、ふと源さんが言うのを聞いた。
「そういや、嬢ちゃん。お前さんとこの兄ちゃん、高瀬っての」
「湊人様が、何か」
「こないだ、石を積んでった。夜にな。頼んでもいねえのに」
「————」
エルの手が、止まった。
「……存じませんでしたわ」
「だろうな。ああいうのは、言わねえんだ」
源さんは軽トラの荷台を、ばん、と閉めた。
「嬢ちゃんの払い方は、筋が通ってる。働いて、払う。立派なもんだ。……だがな、この街にはもう一つ、あってな」
「……もう一つ」
「返さねえで、次に回すんだ」
それ以上は、説明しなかった。
「俺もガキの頃、この通りでずいぶん食わせてもらった。返してねえ。くれた奴らは、もういねえしな。……だから、回す。そんだけよ」
エルはその言葉を、すぐにはメモしなかった。
代わりに、思い出していた。閉じたシャッターの前だけ、掃かれていた石畳を。両隣の店が、頼まれもせず、掃いていた朝を。
源さんは運転席に乗り込み、窓から顔だけ出した。
「——来週は、紅はるかだ」
「承知いたしました」
それだけだった。軽トラは、間延びした録音の声を残して、角を曲がっていった。
*
夕暮れの道を、エルは、三本の焼き芋を抱えて歩いた。
家に着くと、湊人が縁側で、スイカの残りを持て余していた。
「あ、おかえりなさい。……それ、焼き芋? この暑いのに」
「ええ」
エルは縁側に腰を下ろすと、一本を手に取り、丁寧に半分に割った。
湯気が、夕方の空気に立ちのぼった。
「はい、湊人様」
「え、いいんですか。……ていうか、暑……いや、うまいなこれ。夏でもうまいんだ」
「わたくしの、初めての給金で購いましたの」
エルは自分の半分を、両手で持った。
「ですから——施しでは、ありませんわ」
「? じゃあ、何なんですか」
エルは、答えなかった。
ただ、少しだけ考えて、それから、焼き芋を一口食べた。固くもなく、焦げてもいない、源さんの焼いた、完璧な一本だった。
「……回している、ところですの」
「??」
湊人には、分からなかった。分からないまま、二人は縁側で、夏の焼き芋を食べた。
石を積んだ夜のことを、湊人は言わなかった。知っていることを、エルも言わなかった。
蝉が、鳴いていた。




