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宿命という名の誤配

事件は、コロッケから始まった。

その日、エルは二度目のおつかいで、肉屋のガラスケースの前に立っていた。洋品店ふじさきの勤めを終えた帰り、佳代子に頼まれたコロッケ、六つ。

店番は、見ない顔だった。日に焼けた、ポニーテールの少女。年の頃は湊人と同じくらい。カウンターの内側には背表紙の割れた古い漫画が雑に積んであった。『エースをつらぬけ』全二十巻。少女は頬杖をついて、その最新にして二十年前の巻を、たぶん百回目くらいに読んでいた。

その顔が——エルを見た瞬間、固まった。

「…………あ」

「コロッケを、六つ、賜りたく——」

「あーーーーっ!!」

少女がガラスケースに身を乗り出した。

「見つけた! 見つけた見つけた見つけた!」

「……わたくし、何か落としましたかしら」

「金髪! 縦のライン! 完璧な姿勢! 間違いない、あの人だ!」

店の奥から、前掛け姿の主人がのっそり出てきた。

「こら凛、うるせえぞ。……また漫画か。……ああ、エルちゃん。いらっしゃい」

「あら、お父さん、エルちゃんと知り合いだったの!?」

「知り合いも何も、うちのコロッケの、いちばん丁寧なお客さんだ」

少女——小林凛は父親の言葉を最後まで聞いていなかった。カウンターを回り込み、エルの正面に立ち、びし、と指を突きつけた。

「あなた——わたしと、勝負しなさい!」

「凛! お客さんに指さすな!」

「テニスで!」

「……てにす」

エルはその音を丁寧に繰り返した。

「球技でございましたわね。網を挟んで、球を打ち合う」

「したこと、ないでしょ」

「ございませんわ」

「でしょうね!」凛は、なぜか勝ち誇った。「でも、あなたは絶対、テニスがうまい」

「…………?」

エルの頭の上に、生まれて初めて、疑問符が三つ並んだ。

高瀬家に緊急招集された湊人とまひるは、事情を聞いて、そろって同じ顔をした。

「は?」

「え?」

「ですから。小林凛様に、果たし合いを申し込まれましたの。てにす、で」

「なんで!?」

「分かりませんの」

エルは真剣な顔で、湊人の淹れた麦茶を一口飲んだ。

「ただ、凛様は、こう仰いました。——『金髪のあの貴婦人の姿が、私をよぎった。宿命よ』と」

「宿命」

「宿命って言った、あの凛が?」

まひるが吹き出した。

「あー! 分かった! 店に積んであったでしょ、『エースをつらぬけ』! 主人公のライバルがさ、金髪縦ロールの令嬢キャラなの! お蝶夫人的な! 凛、小学生の頃からあれで育ってて、『いつか令嬢と勝負するのが夢』って言ってた!」

「……つまり、人違い、ということですの?」

「人違いっていうか……」まひるは、エルを上から下まで眺めた。麻のワンピース。完璧な姿勢。金の髪。「……うん、まあ、無理もない」

「断りましょうよ」と湊人。「テニスやったことないんだし、危ないですって」

「いいえ」

エルは麦茶の碗を静かに置いた。

「お受けいたします」

「なんで!?」

「名指しで果たし合いを挑まれて、逃げるわけには参りません。……クロイツェルの、名折れですわ」

「名折れの使い方!」

日曜。市営コートに、四人の姿があった。

凛は本気のウェアで屈伸をしていた。聞けば、県大会ベスト8。ジュニアクラブ所属八年目。

対するエルはまひるが貸したTシャツと短パンで、借り物のラケットを——両手で、捧げ持っていた。

「エル、それ剣じゃないから。片手でいいから」

「握り方の作法を、まだ存じませんの」

「作法とかないから! ぎゅっと持つだけ!」

審判席には湊人が、応援席にはまひるが着いた。まひるはどこからか、応援用のメガホンを調達していた。やる気だけはあった。

「それでは——」湊人が、気の進まない声で宣言した。「一本勝負。……はじめ」

凛のサーブが、放たれた。

速かった。エルの横を、音を立てて通過した。

エルは、微動だにしなかった。

「……エルディアーナさん? 打たないと」

「今のを、打つのですか」

「打つんです」

「……承知いたしました」

二球目。エルは、振った。

空を切った。

「——ちょっと待って!」

ネットの向こうで、凛が叫んだ。

「フォーム、めちゃくちゃ! 何それ、扇子であおいでるの!?」

「……そうなのですか」

エルは、素直だった。自分のラケットを、まじまじと見た。

「素直!」まひるがメガホンで叫んだ。

三球目、空振り。四球目、空振り。修正の気配は、なかった。五球目——エルは転がっていく球を追って走った。テニスの動きでは、まるでなかった。ただ、球を拾い上げ、両手で恭しく凛に返す姿だけは、妙に様になっていた。

「お待たせいたしました」

「……ど、どうも」

凛の調子が、狂い始めていた。

六球目。凛は緩い球を送った。武士の情けだった。

エルのラケットが、初めて、球に触れた。

球は、真上に飛んだ。

高く、高く、夏の空に吸い込まれ——コートのはるか外、フェンスを越えて消えた。

「ホームランだ」

「テニスでそれ最悪のやつ!」

まひるがメガホンで叫んだ。

「エルーー! ラケットは振るもの! 眺めるものじゃない!」

「振っておりますわ!」

エルが、初めて、声を張って言い返した。ちょっと悔しそうだった。

結果。

○ 小林凛 —— ● エルディアーナ・フォン・クロイツェル

スコアは、書くまでもなかった。エルの得点は、零。触れた球は、一つ。フェンスの向こうに、一つ。

エルはネットの前に進み出ると、汗ひとつない顔で(ほとんど動けていなかったので)、深く、完璧な礼をした。

「良い勝負を、ありがとうございました。わたくしの、完敗ですわ」

凛はしばらく黙って、その礼を見ていた。

それから、ぐす、と鼻を鳴らした。

「……テニスは、ド素人だった。フォームはめちゃくちゃだし、球は見えてないし、多分もう二度と対戦相手には選ばない」

「率直な、ご評価ですこと」

「でも、礼だけは、百点だった」

凛はタオルで目元をぐいと拭った。

「勝っても負けても、ああやって背筋伸ばして礼をする人、漫画の中にしかいないと思ってた。……やっぱり、あなたは本物だった……!」

「——どこがですの!?」

エルが叫んだ。彼女としては大真面目な抗議だった。

「一点も! 取っておりませんが!」

「点じゃないの! 礼なの! ありがとう、あたし、今日のこと一生忘れない!」

凛は晴れ晴れとした顔で、タオルを首にかけ、走り去っていった。宿命は、彼女の中で、勝手に始まり、勝手に完結した。

残された三人は、しばらく無言だった。

「……納得いきませんわ」

エルが、ぽつりと言った。

「初めてですのよ、勝負に負けたのは。なのに、相手が満足して帰るなんて……ああいうものなのですか、てにすとは」

「テニスは関係ないと思う」

帰り道、エルは借り物のラケットを、まだ両手で捧げ持っていた。

「……ですが」

彼女は、ふと言った。

「勝敗に何も懸かっていない勝負を、わたくし、初めていたしましたわ。……悪くないものですのね、ああいうのも」

「でしょ? 楽しかったっしょ?」とまひる。

「ええ。——それはそれとして」

エルは、前を向いた。目が、据わっていた。

「湊人様。図書館に、ラケットの振り方の書物は、ございますかしら」

「もうやらないでしょ!?」

「次は、一点、取ります」

「次があるんだ……」

夏の夕暮れの道を、令嬢の「もう一度です」が、歩いていった。

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