商店街という名の社交界
「エルちゃん。おつかい、頼まれてくれる?」
その日の午後、佳代子がエプロンのポケットから千円札とメモを出した。豆腐一丁。コロッケ四つ。あれば、みょうが。
「喜んで」
即答だった。働かざる者食うべからず。その言葉をエルは家訓のように守っている。
「商店街、一人で大丈夫? 湊人つける?」
「道は覚えましたわ。図書館の、二つ手前の角ですもの」
「じゃ、頼んだ。……あ、コロッケはね、肉屋の。スーパーのじゃなくて」
「肉屋の」エルは、メモに真剣に書き足した。「……理由を、伺っても?」
「食べれば分かる」
「食べれば分かる」
メモに、そう書き足した。
結局、湊人は宿題を持ったままついて行った。心配だったからではない——と本人は言い張ったが、初めてのおつかいに保護者がつく図そのものだった。
*
銀星会商店街は駅前の再開発から取り残された、古いアーケードだった。
三軒に一軒はシャッターが下り、その隙間で、八百屋と肉屋と豆腐屋と、よく分からない店が何軒か、頑固に営業を続けている。
エルはアーケードの入口で足を止め、ゆっくりと全体を見渡した。
「……市場、ですのね」
「商店街です」
「いいえ、市場ですわ。わたくしの領地にもございました。城下のいちばん古い通りに」
彼女は、歩き出した。その目が店先を一つずつ検めていく。八百屋の台の上の、朝採れの札。肉屋のガラスケースの、揚げ場の油の色。豆腐屋の店先の、水槽の水の澄み方。
「湊人様」
「はい」
「良い市場ですわ、ここ。……水と油と、値札の字で分かります。手を抜いている店が、一軒もございません」
「へえ。……シャッター多いけど」
「ええ」
エルは閉じたシャッターを一枚、静かに見た。
「……閉じた店の前だけ、掃除がしてありますわね。両隣の店が掃いているのでしょう」
湊人は言われて初めて、それに気づいた。
その、掃かれたシャッターの前に、人が立っていた。
明るい色のスーツの、若い男だった。この通りでは見ない種類の、身なりの良さだった。隣の乾物屋の店先で、丸椅子の老主人に、艶のある紙の封筒を差し出している。老主人は受け取らず、封筒と、男の顔を、順に見ていた。
「行きましょう」
湊人は、目を逸らして言った。ああいうのは、見ても、どうにもならない。関わらないのが、いちばん丸くおさまる。
エルは、動かなかった。
足を止め、ただ、見ていた。声も上げず、近寄りもせず。それが自分の務めであるかのように、まっすぐに。
男が、視線に気づいた。こちらへ営業用の会釈をひとつ寄越すと、封筒を鞄に仕舞い、アーケードの南のほうへ歩き去った。革靴の音が、古い通りに、よく響いた。
「……何だったんですかね、今の」
「さあ」
エルは歩き出しながら言った。
「ただ——ああいう靴音は、どこの国でも、同じ響きがいたしますのね」
*
豆腐一丁、コロッケ四つ。買い物はつつがなく——とは、いかなかった。
肉屋の主人は金髪の少女の「コロッケを、四つ賜りたく存じます」に固まり、八百屋のおばちゃんは「みょうが、みょうが」と探し回るエルに大盛りのおまけをつけようとして、丁重に固辞され、逆に感動していた。
「あんた、いいねえ! 今どき、おまけ断る子!」
「対価なき品を受け取るわけには参りませんの。……ですが、お気持ちは、確かに頂戴いたしました」
「何それ! 育ちよすぎ!」
その賑わいの後ろで、クリーニング屋の店先から、誰かがぼそりと呟いた。
「……変な外国人が来たもんだ」
湊人がむっとして振り向きかけた。その袖を、エルが軽く押さえた。
「事実ですわ」
彼女は前を向いたまま、少しも気にしていない声で言った。
「わたくしは、まだ、この街の余所者ですもの」
*
帰り道。アーケードの出口で、それは起きた。
ベビーカーを押した母親が、身を縮めて道の端へ寄った。すれ違いざま、スマホを見ながら歩く男の指先で、火のついた煙草が、ちょうど赤ん坊の高さで揺れていた。
エルが豆腐の袋を湊人に預けた。
「お待ちなさい」
声は大きくなかった。なのに、男は足を止めた。
「幼子の頭の高さに、火がございます。……強き者ほど、弱き者へ道を譲るもの。わたくしの国では、そう教わりました」
男は金髪の小娘をしばらく睨み、それから舌打ちして、煙草を携帯灰皿に押し込み、去っていった。
反省したのかどうかは、分からなかった。母親が頭を下げ、エルが会釈を返し——
その、ほんの一瞬。
——あの時も。一歩、前へ出た。磨かれた床。絹の裾。衆目。あの視線の中に、一つだけ——
「エルディアーナさん?」
「……いえ。何でもありませんわ」
豆腐の袋を受け取り、彼女は歩き出した。いつもの背筋で。いつもの歩幅で。
ただ、湊人は見ていた。袋を受け取る指先がほんの一瞬、冷たく強張っていたのを。
聞かなかった。彼女の横顔が、聞くなと言っていた。二度目だった。
*
「——ちょっと。そこの、お嬢さん」
声をかけられたのは、その直後だった。
アーケードの中ほど。古い洋品店の店先に、一人の老婦人が立っていた。齢七十を越えているだろうに、背筋がまっすぐで、白髪を綺麗に結い上げている。店の看板には色褪せた字で「洋品店ふじさき」。
「わたくし、でございますか」
「そう、あなた」
老婦人——藤咲小百合は、つかつかと歩み寄ると、エルの周りを、ぐるりと一周した。値踏みするように。いや、値踏みだった。
「……今の、見てたわよ。啖呵の切り方じゃない。あれは、切ってない。張ってたわね、場を」
「……はあ」
「あたしゃね、大昔、歌劇団にいたの。娘役。舞台の上で、令嬢だの姫だの、何百回も演った」
小百合は、エルの正面に立った。舞台の人の、まっすぐな目だった。
「だからね、分かるのよ。……あんたのそれ、稽古でつく姿勢じゃないわよ」
エルは、答えなかった。
「稽古の姿勢はね、幕が下りたら緩むの。あたしらは、緩めるために稽古するんだから。あんたのは——豆腐持って歩いてても、緩まない」
しばしの、沈黙。
やがて、エルは、ふ、と息をついた。
「……舞台の方の目は、ごまかせませんのね」
「五十年見てきたからね」
小百合はふと遠い目で、アーケードの天井を見上げた。
「……この商店街もね、昔は日曜になると、肩がぶつかって歩けなかったのよ。あたしが店を継いだ頃は。歌劇をやめて、ここに戻ってきて——舞台より狭い花道だけど、悪くなかった」
色褪せた看板。下りたシャッター。それでも掃かれた、店の前。
「……それより、あんた」
小百合の目がエルのジャージに戻ってきた。
「なんて格好してんの。その育ちに、そのジャージ。衣装が役に負けてるのよ。あたしゃ見てらんない。お入り」
*
洋品店ふじさきの奥は、時間の止まった宝物庫だった。
古い洋服。仕立ての良いワンピース。そして、店のいちばん奥の桐箪笥には、小百合の舞台衣装と、若い頃の着物が眠っていた。
「娘も孫も、着やしないの。あたしが死んだら、全部ゴミ。……あんた、サイズ、ちょうどいいわね」
小百合が次々と当てていく服を、エルは、鏡の前で困惑気味に着せられていた。そして、一着のシンプルな麻のワンピースが当てられた時、小百合の手が止まった。
「……ほら。ごらん」
鏡の中に、令嬢がいた。ジャージでは隠れていたものが、輪郭を持って立っていた。
「これ、持っておいき」
「——いいえ」
エルは鏡の前で、まっすぐに首を振った。
「対価なく、頂くわけには参りません」
「あら」小百合が、目を細めた。「じゃ、いくら払える?」
「……手持ちが、ございませんの。ですから」
エルは店の中を、ぐるりと見渡した。埃をかぶった棚。日に焼けた商品。手の回っていない、店の隅々。
「働かせてくださいまし。この店で。掃除でも、店番でも。服の畳み方なら、心得がございます。……対価分、働いたら、この服を頂きます」
小百合はしばらくエルを見ていた。
それから、心底おかしそうに笑って、店の奥から、はたきを一本持ってきた。
「じゃ、棚から。……ああ、それとね、お嬢さん。一個だけ、注文」
「何なりと」
「あんた、笑うときさ」小百合は、自分の口元に手の甲を当てて、見本を見せた。「こう、『お〜ほっほっほ』って——」
「いたしません」
「即答!?」
「令嬢は、そのような笑い方は、いたしませんの」
「あたしの令嬢像を返して!」
アーケードに、老婦人の笑い声が響いた。
外で待っていた湊人は、豆腐を抱えたまま、店の中の二人を、ガラス越しに眺めていた。
(……なんか、また増えた)
*
その晩、夕食の席で、佳代子が言った。
「商店街で聞いたわよ。……なんか、『すごいお嬢様が越してきた』って、噂になってるって」
「え、もう!?」
「藤咲さんとこの小百合さんが言い回ってるらしいわ。……まあ、『変な子が来た』って言う人も、いるみたいだけどね」
「後者が、正確ですわ」
エルは味噌汁を手に、大真面目に頷いた。
「わたくしは、まだ何も、この街に返しておりませんもの」
コロッケは、四つとも、肉屋のだった。
一口食べたエルが動きを止め、それから、メモを取り出して、何かを書き足した。
「何書いてるんですか」
「『食べれば分かる』の、答え合わせですわ」




