図書館という名の書斎
エルが来て、二週間が過ぎた。
高瀬家の生活は奇妙な安定期に入っていた。朝はエルが誰より早く起き、佳代子と朝食を作る。湊人が学校へ行き、エルは家事と読書。夕方、時々まひるがやって来て騒がしくなり、夜、押し入れの襖が静かに閉まる。
その夜も、湊人が宿題を終えた頃、押し入れの前でエルが借り物の歴史の本を閉じた。
そして、めずらしく、長いこと黙っていた。
「……湊人様」
「はい」
「わたくし、この二週間、考えておりましたの。わたくしの身に起きたことを」
彼女は閉じた襖に目をやった。
「牢の中で、魔法陣が砕けた。気づけば、ここにいた。……偶然の事故として片付けるには、時と場所が、あまりに揃いすぎていますわ」
「揃いすぎ、って?」
「処刑の、前夜ですのよ」
静かな声だった。
「わたくしは、何者かに封じられたのやもしれません。志を、輝きを、不都合とした何者かに。高貴なる檻に、この身を——」
「押し入れに?」
「…………」
「高貴なる檻(押し入れ)に」
「……言い直さなくて結構ですわ」
エルは扇でも持っているかのように、すっと姿勢を直した。持っていないので、ただ姿勢が良くなっただけだった。
「ですが、逆やもしれません。封じたのではなく——逃がした。誰かが、間に合わせるために」
「……どっちだと思います?」
「分かりませんの」
彼女は、正直に言った。
「敵の仕上げか、味方の一手か。同じ一つの扉が、どちらにも見える。……ですから、調べます。この世界の理を。星の運びを。扉というものの仕組みを」
「あ、でもそれ分かるかも」
「——今、なんと?」
「いや、俺も昔あったんですよ。河原で三人くらいにボコられてるやつ見ちゃって、我慢できなくなって、チャリで突っ込んだんです。ヒーローアニメの主人公みたいに。……で、結局二人でボコられました」
「…………」
「あ、そいつ今、親友ですけど」
エルは、しばらく黙っていた。
国家の陰謀と、河原の喧嘩。公爵家の幽閉と、自転車。
言うべきことは、山ほどあった。
「……湊人様の、その」
彼女は言葉を選んだ。教育の全てを注ぎ込んで、選んだ。
「……その、規模の差については、この際、申しません」
「規模?」
「良いお話ですわ」
外交だった。完璧な外交だった。
「え、伝わりました? 俺いい話したつもりなんですけど」
「ええ。……ええ、まことに」
(分かってもらえてない気がする)
だが、彼女は内心、少しだけ驚いてもいた。
——勝てぬと知りながら、突っ込んだのですね。この方は。
その感想だけは、口にしなかった。代わりに、話を戻した。
「それで、湊人様。調べ物をするには、この街ではどちらへ参ればよろしいの。書物を、まとまった数、読みたいのです」
「あー、それなら」
湊人はあくびをかみ殺しながら言った。
「図書館、行きます? 土曜、案内しますよ」
「としょかん」
「本がいっぱいある、公共の施設」
「公共の」エルの目の色が、変わった。「……書庫を、民に?」
「まあ、そういうことになるのかな」
「詳しく」
「明日にしません? 眠いんで」
「……明日、詳しく」
譲らなかった。
*
土曜日。
市立図書館は駅前の再開発から取り残された、少し古い建物だった。それでも三階建てで、蔵書は三十万を超える。
自動ドアが開いた瞬間、エルの足が止まった。
書架。書架。書架。奥まで続く、本の壁。土曜の午前、老人が新聞を読み、子供が絵本の棚に座り込み、学生が参考書を積んでいる。
「…………」
「エルディアーナさん?」
「湊人様。確認いたします」
彼女は、動かないまま言った。
「ここにある書物は、誰でも読めるのですか」
「読めます」
「対価は」
「無料です」
「……身分の、確認は」
「借りて帰るならカードがいるけど、中で読むだけなら、誰でも」
エルはゆっくりと書架の海を見渡した。
「わたくしの国では、書物は財産ですわ。一冊が、庶民の月収に相当します。公爵家の書庫ですら、五千。それを守るために鍵と司書を置き、閲覧できるのは家の者と、許しを得た学者だけ」
「はあ」
「三十万冊を。鍵もかけず。誰でも。無料で」
彼女は、湊人を振り返った。その顔はコンビニでも炊飯器でも見せなかった、本物の驚きだった。
「国家が、ここまで知を民へ開放しているのですか」
「……そう言われると、なんかすごい気がしてきた」
「すごいのです」
エルは断言した。
「知は、力ですのよ。文字を読める民と、読めない民では、治めやすさがまるで違う。だから多くの国は、知を絞る。なのにこの国は、開いている。……税で賄っているのでしょう?」
「たぶん」
「では、この建物は」彼女は天井を見上げた。「民が、民のために建てた書庫、ということになりますわね」
そして、小さく独り言のように付け足した。
「……良い国ですわ、ここは。統治者の顔も知りませんけれど」
*
貸出カードの窓口で、最初の壁に当たった。
「ご住所の確認できるものはお持ちですか? 保険証か、免許証か——」
「持ち合わせが、ございませんの」
エルは正直に言った。司書のお姉さんが困った顔をする横で、湊人が自分のカードを出した。
「俺のカードで借りるんで、大丈夫です」
帰り道、エルはめずらしく、少し悔しそうだった。
「……湊人様のお名前で、借りるのですね」
「いいですよ、別に。何冊でも」
「よろしくありません」
彼女は抱えた本——日本史の通史と、天文の入門書と、辞書——を抱え直した。
「この国で、わたくしはまだ、書物一冊借りる信用もない。名乗っても、クロイツェルの名は何の保証にもならない。……それが、この国でのわたくしの、正確な現在地ですわ」
「……なんか、すみません」
「謝ることではありません。事実の確認です」
彼女は前を向いたまま、続けた。
「向こうでは、名乗れば済みました。名が、信用でしたの。ここでは、名は音でしかない。ならば——信用は、これから積むしかありませんわね。一つずつ。この街で」
その横顔は悔しがっているようで、どこか楽しそうでもあった。
「手始めに、住所ですわ。佳代子様に、ご相談を」
「うち、居候の住民登録とかどうすんだろ……」
「その制度も、調べます。明日」
「図書館、日曜休みです」
「…………明後日」
一拍の間が、悔しさの深さだった。
*
翌週から、エルの図書館通いが始まった。
開館と同時に入り、閉館の音楽で追い出される。日本史から始まり、地理、法制度、そして天文へ。司書のお姉さんは三日目には彼女の顔を覚え、一週間後には「今日は何をお調べですか」と聞くようになった。
その夜、夕食の席で、エルがふと箸を止めた。
「湊人様。この国の暦には、死者が帰る日がございますのね」
「……は?」
「お盆、というのでしょう。ご先祖の霊が、あちらから、こちらへ帰る。そのために火を焚き、道を照らす」
「ああ、はいはい。盆ね。うち、じいちゃんの初盆とかやったな」
「興味深い、と思いましたの」
彼女は味噌汁の椀を静かに置いた。
「あちらとこちらが、繋がる日が、暦に組み込まれている。この国の民は、それを迷信と笑わずに、毎年、灯りを掲げる。……もし、世界と世界のあいだに扉があるのなら」
言いかけて、彼女は、やめた。
「……いえ。まだ、仮説にもなりませんわ。読みかけの本が、あと四冊ありますもの」
佳代子が麦茶を注ぎながら、のんびり言った。
「盆ねえ。今年はお父さんも帰ってくるわよ。エルちゃんのこと、そろそろちゃんと説明しないと」
「え、まだ言ってなかったの!?」
「『事情のある子を預かってる』としか。……だって、押し入れから来ました、なんて、電話で言える?」
「言えない」
エルだけが、麦茶を手に、窓の外の夏の気配を、じっと見ていた。




