カレーという名の外交
エルディアーナが高瀬家に来て、五日が過ぎた。
押し入れの主は驚くべき速さで「家のこと」を覚えていった。洗濯物の畳み方。米の研ぎ方。風呂の沸かし方。教われば一度で覚え、翌日には教えた佳代子より丁寧にやった。
「エルディアーナさん、覚えるの早すぎません?」
「家のことは、館のことより単純ですもの。……いえ」
彼女は畳みかけのタオルの上で、少し考えた。
「単純ではありませんわね。手が足りないのです。この規模の館を、佳代子様はお一人で回してこられた。……侍女が十人いても、褒められる仕事ですわ」
台所でそれを聞いていた佳代子が、味噌汁をよそう手を止めて、まんざらでもない顔をした。
「……エルちゃん、あんた、いい子ねえ」
呼び名が、いつのまにか縮んでいた。
*
その日の夕方。
湊人が宿題を広げ、エルディアーナが押し入れの前で借り物の本を読んでいた、その時。
玄関のほうから、遠慮というものを知らない足音がした。
「みなとー。カレー余ったから持ってきたー。うちの母さんが、佳代子さんに渡しとけって——」
部屋の襖が、ノックもなく開いた。
鍋を抱えた少女が、そこに立っていた。日に焼けた顔。高い位置で結んだ髪。早坂まひる。隣の家に生まれてから十七年、高瀬家を自分の家の延長だと思っている女だった。
まひるの目が部屋の中の金髪の少女を捉えた。
ジャージ姿で正座して、優雅に本を読む——どこからどう見ても日本人ではない誰かを。
「…………」
エルディアーナが本を閉じ、完璧な角度で頭を下げた。
「お初にお目にかかります。エルディアーナ・フォン・クロイツェルと申します」
がしゃん、と。
鍋が、落ちた。
「湊人おおおお!?」
「わあああカレー! カレーが!」
「誰!? 何!? どちら様!?」
「だから昨日、電話で言ったろ! 押し入れから令嬢が出てきたって!」
「あれ冗談じゃなかったの!? てか日本語うますぎて余計怖い!」
騒ぐ二人の足元で、エルディアーナは——動いていた。
落ちた鍋に駆け寄り、蓋を上げ、中を検める。傾いた鍋を素早く起こしたおかげで、中身は三分の一ほど無事だった。
彼女はこぼれたカレーを見下ろして、深刻な顔で言った。
「……なんという、ことを」
「あ、ごめん、床……」
「床の話ではございません」
彼女はまひるをまっすぐに見上げた。
「このお料理は、あなたの母君が家族のために作られたものでしょう。それを隣家に分けるとは、余りものではなく厚意ですわ。……その厚意が、床に」
「…………そこ!?」
まひるが叫んだ。
「床の心配しなよ! 畳染みるよ!?」
「拭けば済みます。ですが、こぼれたお料理は戻りませんもの」
言いながら、彼女はもう立ち上がって台所へ向かっていた。雑巾の場所は、三日目に覚えていた。
まひるはその背中を見送って、湊人に小声で言った。
「……ねえ。あの子、何?」
「だから、令嬢」
「令嬢って、あんな……雑巾しぼるの?」
「うちの令嬢はしぼるんだよ」
「うちのって何」
*
畳を拭き終え、無事だった三分の一のカレーを皿に移し、三人は座卓を囲んだ。
まひるはまだエルディアーナをじろじろ見ていた。
「で? 押し入れから来たって、マジで?」
「ええ。あちらの……押し入れ、から」
「見ていい?」
返事を待たずに、まひるは押し入れを開けた。客用布団。丁寧に畳まれた着替え。枕元に、借り物の本が三冊、几帳面に積んである。
「…………え、待って」
まひるが振り返った。
「ここで寝てるの!?」
「はい。良い牢ですわ」
「牢って言うな」湊人が反射で訂正した。
「押し入れで寝てるって、それ——」まひるは、この世の真理に到達した顔で言った。「ドラえもんじゃん!!」
「どら、えもん……?」
エルディアーナが初めて聞く音を丁寧に繰り返した。
「未来から来た猫型ロボット! 押し入れで寝てるの! 完全に一致なんだけど!」
「まひる、話がややこしくなるから」
「わたくしは、猫でも、ろぼっと、でもありませんが……」エルディアーナは真剣に考え込んだ。「未来から、という点は検討の余地がございますわね。時間軸の差異という仮説は、まだ棄却しておりませんもの」
「……ね、この子いつもこう?」
「いつもこう」
*
カレーは、三人で分けた。
エルディアーナはスプーンを手に取り、一口食べて——動きを止めた。
「……まひる様」
「様!? やめてやめて、鳥肌立つ」
「このお料理、複数の香辛料が使われていますわね。それも、かなりの種類が」
「え? ああ、カレーだからね。ルーに元々入ってるやつ」
「香辛料は、わたくしの国では金貨で量るものですわ」
エルディアーナは、皿を見つめた。
「それを、家庭で。惜しげもなく。……このお料理を『余りもの』と呼べる国なのですね、ここは」
しん、とした。
まひるはスプーンをくわえたまま、初めて、茶化す言葉が出てこなかった。
「……なんか、大げさだなあ」
代わりに出たのは、そんな言葉だった。でも、その声は、さっきまでより少しだけ小さかった。
「大げさではありません。……ですから」
エルディアーナは居住まいを正して、頭を下げた。
「ご馳走様でした。母君に、どうかお伝えくださいまし。三分の一になっても、十分に豊かな味でしたと」
「……こぼしたの、あたしなんだけど」
「あなたは驚いただけですわ。驚かせたのは、わたくしです」
まひるは頭を下げたままの金髪を、しばらく見ていた。
それから、ぽりぽりと頬をかいた。
「……ねえ。エルディ……エルディア……」
言いかけて、噛んだ。
「長っ! 無理! エルでいいじゃん、エルで!」
エルディアーナが、顔を上げた。
「……える」
「呼びにくかったら、エルちゃんでも」
「それ、母さんがもう使ってる」と湊人。
「じゃあエルで決定。あたしはまひるでいいから。様も禁止」
エルディアーナは——エルは、しばらく黙っていた。
愛称。生まれてから十九年、誰にも許したことのないもの。家族ですら、彼女をエルディアーナと呼んだ。縮めることは格式を欠くことだったから。
「……エル」
彼女はその音を自分で確かめるように、もう一度言った。
それから、ふ、と表情がほどけた。この家に来て、いちばん柔らかい顔だった。
「ええ。……結構ですわ、まひる」
「よし! 決まり!」
まひるは満足げに、カレーの残りをかき込んだ。
湊人だけが少し離れたところで、なんとなく釈然としない顔をしていた。
(俺、五日いて『エルディアーナさん』なのに……こいつ、三十分で……)
言わなかったが、顔に出ていたらしい。エルがこちらを見て、小首を傾げた。
「湊人様? どうか、なさいまして?」
「……なんでもないです」
*
夜。まひるが帰る玄関先。
見送りに出た湊人に、まひるは、サンダルをつっかけながら、ふと言った。
「……ねえ。あの子さ」
「ん?」
「スプーンの持ち方、ちょっと変だった。日本のカレーの食べ方、知らないんだなーって」
「まあ、初めてだろうし」
「でもさ」
まひるは玄関の灯りの下で、めずらしく真面目な顔をしていた。
「食べてる姿勢、ずっと綺麗だった。一回も、皿に顔を近づけなかった。あたしんち、じいちゃんが礼儀にうるさかったから、分かるんだよね、ああいうの。あれ……付け焼き刃じゃないよ」
「……うん」
「押し入れから来た、は、まだ信じてないけど」
まひるは鍋を抱え直して、にっと笑った。
「あの子がどっかのお嬢様なのは、ほんとだと思う。……また来るね。母さんに、豊かな味でした、って言っとく」
サンダルの音が、夜の路地に遠ざかっていった。
部屋に戻ると、エルが座卓を拭き終えたところだった。
「賑やかな方でしたわね」
「うるさかったでしょ、ごめん」
「いいえ」
エルは布巾を丁寧に畳みながら、少し考えて、言った。
「……あの方の物言いは、率直で、飾りがなくて。社交界には、一人もいなかった種類の方ですわ」
「悪口?」
「最上の褒め言葉です」




