表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/33

カレーという名の外交

エルディアーナが高瀬家に来て、五日が過ぎた。

押し入れの主は驚くべき速さで「家のこと」を覚えていった。洗濯物の畳み方。米の研ぎ方。風呂の沸かし方。教われば一度で覚え、翌日には教えた佳代子より丁寧にやった。

「エルディアーナさん、覚えるの早すぎません?」

「家のことは、館のことより単純ですもの。……いえ」

彼女は畳みかけのタオルの上で、少し考えた。

「単純ではありませんわね。手が足りないのです。この規模の館を、佳代子様はお一人で回してこられた。……侍女が十人いても、褒められる仕事ですわ」

台所でそれを聞いていた佳代子が、味噌汁をよそう手を止めて、まんざらでもない顔をした。

「……エルちゃん、あんた、いい子ねえ」

呼び名が、いつのまにか縮んでいた。

その日の夕方。

湊人が宿題を広げ、エルディアーナが押し入れの前で借り物の本を読んでいた、その時。

玄関のほうから、遠慮というものを知らない足音がした。

「みなとー。カレー余ったから持ってきたー。うちの母さんが、佳代子さんに渡しとけって——」

部屋の襖が、ノックもなく開いた。

鍋を抱えた少女が、そこに立っていた。日に焼けた顔。高い位置で結んだ髪。早坂まひる。隣の家に生まれてから十七年、高瀬家を自分の家の延長だと思っている女だった。

まひるの目が部屋の中の金髪の少女を捉えた。

ジャージ姿で正座して、優雅に本を読む——どこからどう見ても日本人ではない誰かを。

「…………」

エルディアーナが本を閉じ、完璧な角度で頭を下げた。

「お初にお目にかかります。エルディアーナ・フォン・クロイツェルと申します」

がしゃん、と。

鍋が、落ちた。

「湊人おおおお!?」

「わあああカレー! カレーが!」

「誰!? 何!? どちら様!?」

「だから昨日、電話で言ったろ! 押し入れから令嬢が出てきたって!」

「あれ冗談じゃなかったの!? てか日本語うますぎて余計怖い!」

騒ぐ二人の足元で、エルディアーナは——動いていた。

落ちた鍋に駆け寄り、蓋を上げ、中を検める。傾いた鍋を素早く起こしたおかげで、中身は三分の一ほど無事だった。

彼女はこぼれたカレーを見下ろして、深刻な顔で言った。

「……なんという、ことを」

「あ、ごめん、床……」

「床の話ではございません」

彼女はまひるをまっすぐに見上げた。

「このお料理は、あなたの母君が家族のために作られたものでしょう。それを隣家に分けるとは、余りものではなく厚意ですわ。……その厚意が、床に」

「…………そこ!?」

まひるが叫んだ。

「床の心配しなよ! 畳染みるよ!?」

「拭けば済みます。ですが、こぼれたお料理は戻りませんもの」

言いながら、彼女はもう立ち上がって台所へ向かっていた。雑巾の場所は、三日目に覚えていた。

まひるはその背中を見送って、湊人に小声で言った。

「……ねえ。あの子、何?」

「だから、令嬢」

「令嬢って、あんな……雑巾しぼるの?」

「うちの令嬢はしぼるんだよ」

「うちのって何」

畳を拭き終え、無事だった三分の一のカレーを皿に移し、三人は座卓を囲んだ。

まひるはまだエルディアーナをじろじろ見ていた。

「で? 押し入れから来たって、マジで?」

「ええ。あちらの……押し入れ、から」

「見ていい?」

返事を待たずに、まひるは押し入れを開けた。客用布団。丁寧に畳まれた着替え。枕元に、借り物の本が三冊、几帳面に積んである。

「…………え、待って」

まひるが振り返った。

「ここで寝てるの!?」

「はい。良い牢ですわ」

「牢って言うな」湊人が反射で訂正した。

「押し入れで寝てるって、それ——」まひるは、この世の真理に到達した顔で言った。「ドラえもんじゃん!!」

「どら、えもん……?」

エルディアーナが初めて聞く音を丁寧に繰り返した。

「未来から来た猫型ロボット! 押し入れで寝てるの! 完全に一致なんだけど!」

「まひる、話がややこしくなるから」

「わたくしは、猫でも、ろぼっと、でもありませんが……」エルディアーナは真剣に考え込んだ。「未来から、という点は検討の余地がございますわね。時間軸の差異という仮説は、まだ棄却しておりませんもの」

「……ね、この子いつもこう?」

「いつもこう」

カレーは、三人で分けた。

エルディアーナはスプーンを手に取り、一口食べて——動きを止めた。

「……まひる様」

「様!? やめてやめて、鳥肌立つ」

「このお料理、複数の香辛料が使われていますわね。それも、かなりの種類が」

「え? ああ、カレーだからね。ルーに元々入ってるやつ」

「香辛料は、わたくしの国では金貨で量るものですわ」

エルディアーナは、皿を見つめた。

「それを、家庭で。惜しげもなく。……このお料理を『余りもの』と呼べる国なのですね、ここは」

しん、とした。

まひるはスプーンをくわえたまま、初めて、茶化す言葉が出てこなかった。

「……なんか、大げさだなあ」

代わりに出たのは、そんな言葉だった。でも、その声は、さっきまでより少しだけ小さかった。

「大げさではありません。……ですから」

エルディアーナは居住まいを正して、頭を下げた。

「ご馳走様でした。母君に、どうかお伝えくださいまし。三分の一になっても、十分に豊かな味でしたと」

「……こぼしたの、あたしなんだけど」

「あなたは驚いただけですわ。驚かせたのは、わたくしです」

まひるは頭を下げたままの金髪を、しばらく見ていた。

それから、ぽりぽりと頬をかいた。

「……ねえ。エルディ……エルディア……」

言いかけて、噛んだ。

「長っ! 無理! エルでいいじゃん、エルで!」

エルディアーナが、顔を上げた。

「……える」

「呼びにくかったら、エルちゃんでも」

「それ、母さんがもう使ってる」と湊人。

「じゃあエルで決定。あたしはまひるでいいから。様も禁止」

エルディアーナは——エルは、しばらく黙っていた。

愛称。生まれてから十九年、誰にも許したことのないもの。家族ですら、彼女をエルディアーナと呼んだ。縮めることは格式を欠くことだったから。

「……エル」

彼女はその音を自分で確かめるように、もう一度言った。

それから、ふ、と表情がほどけた。この家に来て、いちばん柔らかい顔だった。

「ええ。……結構ですわ、まひる」

「よし! 決まり!」

まひるは満足げに、カレーの残りをかき込んだ。

湊人だけが少し離れたところで、なんとなく釈然としない顔をしていた。

(俺、五日いて『エルディアーナさん』なのに……こいつ、三十分で……)

言わなかったが、顔に出ていたらしい。エルがこちらを見て、小首を傾げた。

「湊人様? どうか、なさいまして?」

「……なんでもないです」

夜。まひるが帰る玄関先。

見送りに出た湊人に、まひるは、サンダルをつっかけながら、ふと言った。

「……ねえ。あの子さ」

「ん?」

「スプーンの持ち方、ちょっと変だった。日本のカレーの食べ方、知らないんだなーって」

「まあ、初めてだろうし」

「でもさ」

まひるは玄関の灯りの下で、めずらしく真面目な顔をしていた。

「食べてる姿勢、ずっと綺麗だった。一回も、皿に顔を近づけなかった。あたしんち、じいちゃんが礼儀にうるさかったから、分かるんだよね、ああいうの。あれ……付け焼き刃じゃないよ」

「……うん」

「押し入れから来た、は、まだ信じてないけど」

まひるは鍋を抱え直して、にっと笑った。

「あの子がどっかのお嬢様なのは、ほんとだと思う。……また来るね。母さんに、豊かな味でした、って言っとく」

サンダルの音が、夜の路地に遠ざかっていった。

部屋に戻ると、エルが座卓を拭き終えたところだった。

「賑やかな方でしたわね」

「うるさかったでしょ、ごめん」

「いいえ」

エルは布巾を丁寧に畳みながら、少し考えて、言った。

「……あの方の物言いは、率直で、飾りがなくて。社交界には、一人もいなかった種類の方ですわ」

「悪口?」

「最上の褒め言葉です」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ