焼き芋という名の邂逅
『い〜しや〜きいも〜……おいも……』
声は、遠ざかっていく。
エルディアーナは窓辺から動かなかった。
「湊人様。あの詠唱は、どちらへ向かっておりますの」
「詠唱じゃなくて売り声です。……ああもう、行きます? 追いかけます?」
「よろしいのですか」
振り返った顔が、あまりに真剣だった。断れる顔ではなかった。
佳代子が財布から千円札を抜いて、湊人に押し付けた。
「行っといで。お母さんのぶんも」
*
日曜の朝の住宅街を高校生と、ジャージの令嬢が早足で歩く。
「湊人様。先ほどから気になっていたのですが」
「はい」
「あの声、抑揚が常に同じでしたわ。息継ぎの気配もございませんでした。……もしや、声を記録して繰り返す魔道具では?」
「スピーカーです。……いや、当たってますよ、それ。録音です」
「まあ」
彼女は少し得意げに、しかし上品に頷いた。
「この世界の理も観察すれば読み解けるものですのね」
(この人、たぶん俺より早くこの世界に慣れる)
角を曲がると、いた。
白い軽トラック。荷台に据えられた窯。立ちのぼる細い煙。やきいも、と赤い字で書かれた幟。
エルディアーナの足が、止まった。
「……石を焼いておりますのね」
「え?」
「あの窯。芋ではなく、石を熱しているのでしょう。石に蓄えた熱で、ゆっくりと火を通す……」
彼女は窯を見つめたまま、独り言のように続けた。
「直火では、ああはなりません。なんと理に適った……どなたの考案ですの、これは」
「知らないですけど……よく分かりますね、そんなの」
「領地に炭焼きの村がございましたの」
さらりと言って、彼女は歩き出した。軽トラの主——白いタオルを頭に巻いた、七十がらみの老人——の前まで進み、そして。
深々と一礼した。
「お初にお目にかかります。エルディアーナ・フォン・クロイツェルと申します」
「…………はあ」
「かぐわしい香りに導かれて参りました。貴殿の窯の芋を、二つ……いえ」
佳代子の千円札を思い出したのか、指を折り、
「三つ、賜りたく存じます」
「……あいよ」
おじいさんはたぶん人生でいちばん丁寧に注文された。動じた様子もなく、軍手で窯の蓋を開ける。ぶわ、と甘い湯気が立ちのぼった。
エルディアーナの背筋が、ぴんと伸びた。
「湊人様」
「はい」
「……これは、祝祭の香りですわ」
「大げさだなあ」
おじいさんが新聞紙に包んで差し出す。
「紅はるか。熱いよ」
「ベニハルカ……」
彼女は両手で恭しく受け取り、繰り返した。
「高貴な響きですわね。どちらの家門の姫君ですの?」
「品種だよ」
「ヒンシュ」
「芋の、種類」
「……芋に、家系がございますの!?」
この日いちばんの驚きだった。魔道具のスピーカーより、石焼きの理屈より、芋の品種に驚いていた。
*
近くの小さな公園のベンチに、並んで座った。
彼女は膝の上の包みを開き、湯気の立つ紅はるかをしばらく見つめていた。
「どうしました? 冷めますよ」
「……いえ。いただきます」
皮を割る。黄金色の断面から、蜜がにじむ。
彼女はひとくち、口に運んだ。
「…………」
湊人は、次の言葉を待った。「甘いですわ!」でも「なんですのこれは!」でもいい。そういうのを待っていた。
来なかった。
彼女は黙って、もうひとくち食べた。それから、そっと目を伏せた。
「……懐かしい味が、いたしますの」
「……懐かしい?」
「ええ」
それきり、彼女は何も言わなかった。ただ、両手で包んだ芋を、最後のひとかけまでとても丁寧に食べた。皮まで食べようとして、湊人にやんわり止められた。
(懐かしいって……向こうにも、あるのか。焼き芋)
聞こうとして、やめた。彼女の横顔が、聞くなと言っていた。
風が吹いて、幟がぱたぱたと鳴った。
「湊人様」
「はい」
「あの芋はいつでも買えるのですか」
「んー……秋冬が多いですけど、あのおじいさんは年中回ってるっぽいですね。うちの近所」
「そうですか」
彼女は立ち上がり、スカート——ジャージだが——の裾を払った。
「では、次にお会いする時までに対価を用意いたします」
「対価? 今日払いましたよ、母さんの千円で」
「本日のぶんは、佳代子様のご恩。わたくし自身の対価は、まだ何も」
彼女はまっすぐ軽トラのほうを見た。おじいさんが窯の火を落とし、のんびりと片付けている。
「あの御方の窯は、良い窯ですわ。石の並べ方に長い年月の工夫がございます。……ああいうお仕事は、絶やしてはなりませんの」
「……詳しいですね、ほんとに」
「領主の娘ですもの」
当然のように言って、彼女は歩き出した。
*
帰り際、軽トラの前を通ると、おじいさんがひょいと片手を上げた。
「嬢ちゃん。また来るかい」
「必ず」
即答だった。
「そうかい。……まあ、来られるうちに来な。俺も歳だ。この商売、いつまでやれるか分からんからな」
からから笑うおじいさんの前で、エルディアーナだけが、笑わなかった。
「…………」
彼女は窯を見た。幟を見た。それから、おじいさんの、年季の入った軍手を見た。
「湊人様」
歩き出してから、彼女は言った。
「わたくし、この世界で為すべきことをひとつ見つけたやもしれません」
「……嫌な予感しかしないんですけど」
彼女は答えず、ただまっすぐ前を向いていた。
その横顔は——湊人はまだ知らないが——凶作の年に領民の列の先頭へ歩いていく、公爵家の人間の顔だった。




