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押し入れという名の亡命

暗闇の中で、エルディアーナ・フォン・クロイツェルは背筋を伸ばして座っていた。

石の床は氷のように冷たい。灯りはひとつもない。ドレスは取り上げられ、粗末な囚人服が一枚。それでも彼女は膝を揃え、顎を引き、姿勢を崩さなかった。

——貴族の娘は、いかなる時も背筋を伸ばしていなさい。

お祖母様の言葉を胸の内で繰り返す。

罪状は聞かされていない。裁きの場すら与えられなかった。夜明けとともに連れ出される、とだけ看守は言った。連れ出されてどうなるのかは言わなかった。

言われずとも、分かる。

(……それでも、です)

エルディアーナは目を閉じた。

(クロイツェルの娘が、うつむいて最期を迎えるわけには参りません)

どれほどの時が経ったか。

ふいに、音がした。

——がらり。

鉄の扉の重い軋みではない。木と木が擦れる、拍子抜けするほど軽い音。

そして、光。

まぶしさに目を細めながら、エルディアーナは顔を上げた。看守の顔を、まっすぐに見据えるために。

そこに立っていたのは、寝間着姿の見知らぬ少年だった。

——時は五分ほど遡る。

高瀬湊人、高校二年。深夜一時。トイレに起きたら、部屋の押し入れから物音がした。

ねずみかな、と思った。次に地震の前触れかなと思った。押し入れの前に立って耳を澄ます。

——衣擦れの音がした。

中に、何かいる。

心臓が嫌な音を立てた。開けるか。開けないか。いや、開けないという選択肢はない。ここで開けなかったら朝まで眠れない。

湊人は取っ手に指をかけ、一息に開けた。

がらり。

囚人服の美少女が、正座していた。

「…………」

「…………」

湊人は、静かに押し入れを閉めた。

がらり。ぴしゃ。

夢だ。そうに決まってる。寝ぼけてるんだ、俺は。トイレに行って、水を飲んで、布団に戻ろう。そうすれば明日の朝には全部——

見なかったことにする。それは、得意なはずだった。

……この襖は、だめだった。確認しないと逆に眠れない。

もう一度、開けた。

がらり。

「…………」

「…………」

いた。金髪の美少女が、客用布団の上で背筋を伸ばして正座していた。しかも今度は彼女のほうが優雅に一礼してきた。

「夜分に失礼いたします」

「しゃべった!?」

「わたくし、エルディアーナ・フォン・クロイツェルと申します。不躾ながらお尋ねいたしますが——」

彼女は押し入れの中から湊人をまっすぐに見上げた。囚人服で、正座で、それなのに玉座にいるみたいな顔で。

「ここは、どちらの牢獄でしょうか」

「……牢獄?」

「随分と、その……」

彼女は視線だけで周囲を見回した。客用布団。衣装ケース。天袋からはみ出た扇風機の箱。

「……柔らかな、牢獄ですのね」

「押し入れだよ!!」

深夜一時の絶叫だった。隣の部屋から壁を叩く音がした。母さんだ。

「あ、やば……すみません、静かに、静かにしてもらって——ていうか何!? 誰!? どこから入った!?」

彼女は答えず、部屋の中へ静かに視線を走らせた。学習机。椅子。床を這う、ゲーム機の黒いコードの束。

「……なるほど」

「何がなるほど?」

「拷問室を設えたのですね」

彼女はコードの束を一瞥した。

「ですが、あのような拘束具まで用意して……無駄な演出と申し上げておきますわ。わたくし、何も存じませんもの」

「拷問室!? 俺の部屋が!?」

湊人は思わず自分の部屋を見回した。

「ていうか俺、拷問官に見えます? パジャマですよ? ……あ、分かった。泥棒の言い訳ですか、それ」

「まあ」

彼女は心外だと言わんばかりに、わずかに顎を上げた。

「わたくしが、泥棒に見えまして?」

囚人服だった。

「…………」

「…………」

二人分の沈黙が深夜の部屋に落ちた。

……先に折れたのは、湊人だった。

「……で。結局、どこから入ったんですか」

「それは、わたくしが伺いたいのですが」

彼女は落ち着き払ったまま、すっと立ち上がり、押し入れから一歩、部屋へ降りた。所作だけ見れば、馬車から降りる貴婦人だった。

そして振り返り、自分が出てきた押し入れの中を覗き込む。

布団。衣装ケース。扇風機の箱。

石の壁も、鉄格子も、どこにもない。

「…………」

初めて、彼女の表情がわずかに揺れた。

「……戻る扉が、ございませんのね」

その声がほんの少しだけ小さかったことに、湊人は気づかないふりをした。

代わりに、努めて何でもない声で言った。

「多分……紅茶、お好きなんですよね」

「……え?」

「いや、なんとなく。飲みます? ティーバッグですけど」

(これ……異世界転移ってやつか……? いやまだ分かんないけど。でも押し入れから出てきたしな……)

「……ええ。……はい。…………はい?」

エルディアーナは生まれて初めて、言葉の継ぎ方を見失った。

尋問ではないのですか。拷問では。なぜこの少年は、囚人に茶を。

「……なるほど。懐柔策、ですのね」

「かいじゅう?」

「よろしいでしょう。いただきますわ。……ですが、申し上げておきます」

彼女はまっすぐに顎を上げた。

「毒が入っていようとも、わたくしは一滴残らず飲み干します。それがクロイツェルの誇りですもの」

「ただのティーバッグに何の覚悟してるんですか」

台所の小さな灯りの下で、彼女は紅茶を——宣言通り、一滴残らず——飲み干した。

そうして、名乗った。

「わたくしは、エルディアーナ・フォン・クロイツェル。クロイツェル公爵家の長女にございます」

声に、迷いがなかった。

「身に覚えのない罪で捕らえられ、裁きの場も与えられぬまま投獄されました。……事情は、込み入っておりますの。初対面の殿方に語る筋のものでは、ございませんわ」

「あー……はい。それは、そうっすね」

湊人はマグカップを両手で包んだまま、少し迷って口を開いた。

「……あの。笑わないで聞いてほしいんですけど。異世界転移って、分かります? 世界そのものが、別っていうか。ここ、あなたのいた世界と繋がってない場所なんじゃないかって」

エルディアーナはしばらく黙っていた。

「……転移魔法は、存じております。ですが、あれは同じ空の下を渡る術。世界が、別……?」

彼女は視線を落とし、カップの底を見つめた。

「……申し訳ありません。仰る意味が、まだ像を結びませんの。ここは、わたくしの知らぬ、遠い遠い異国——今夜のところは、そう思わせてくださいまし」

「はい。全然それで」

(まあ、俺だって半信半疑だしな……)

「それより、明日どうするかなんですけど。その……警察、行きます? 身元不明の人を保護してくれる、役所みたいなとこで」

「保護」

「まあ、事情聞かれて、身元が分かるまで施設で預かられて——」

「……また、牢ですの?」

湊人は言葉に詰まった。

彼女の声は静かだった。責めてもいない。ただ、そう尋ねただけだった。それが一番、効いた。

「……牢じゃ、ないです。ないですけど……ちょっと、考えましょう。それは明日」

「ええ。……それに」

彼女は押し入れのほうへ目をやった。

「わたくしが参ったのは、あの扉からですもの。戻る手掛かりがあるとすれば、あの場所だけですわ。離れるわけには参りません」

「ですよね……」

結局その夜、彼女は押し入れで休むことになった。湊人は最後まで「ベッド使ってください」と言ったのだが、

「囚人服の身で殿方の寝台を奪うなど、クロイツェルの名折れですわ。それに——」

彼女は客用布団を手のひらで押し、真顔で言った。

「石の床より、遥かに上等な牢ですもの」

「だから牢じゃないんだって」

翌朝。

高瀬家の母、高瀬佳代子(パート勤め・四十六歳)は六時半に台所へ降りて、凍りついた。

見知らぬ金髪の少女が、立っていた。息子のジャージを着て、髪を一つに結い、背筋をまっすぐに伸ばして。

少女は佳代子の姿を認めると、ドレスの裾をつまむように——ジャージなのに——優雅に一礼した。

「お初にお目にかかります。エルディアーナ・フォン・クロイツェルと申します」

「…………はい?」

「昨夜、やむを得ぬ事情により、ご子息のお部屋に押し掛けました。一家の主たる母君にご挨拶もなく一夜の宿を賜りました無礼、まずもってお詫び申し上げます」

深く、しかし卑屈さのない礼だった。

佳代子の頭の中をいくつもの単語が駆け巡った。彼女。家出。事件。詐欺。外国人。息子。まさか。

だが、目の前の少女の所作はそのどれとも噛み合わなかった。

「……あの、とりあえず」

佳代子は母親歴十七年の胆力で、最初の一手を選んだ。

「お茶、飲む?」

「恐れ入ります。……ですが、火の番はわたくしに。一宿の恩義がございますもの」

「え、いいのに——」

言い終わる前に、少女はやかんの前に立っていた。その立ち姿がなぜか様になっていた。

ドタドタドタ、と階段を踏み外しかけながら湊人が駆け下りてきたのは、その五分後である。

「母さん! 違うんだ、これは——」

台所では母と令嬢が向かい合わせでお茶を飲んでいた。

「湊人。……座りなさい」

「はい」

「エルディアーナさんから、だいたい聞きました。押し入れから出てきたって話以外は、だいたい分かりました」

「そこが一番肝心なとこなんだけど」

佳代子は湯呑みを置き、息子と少女を順に見た。

「警察って話も、考えたけどね。身元も分からない、保護者もいない、パスポートもない。そんな子を突き出したら、どこに送られるか分かったもんじゃない。……この子、あんたに『また牢か』って聞いたんでしょ」

「……うん」

「じゃあ、答えは出てるでしょうよ」

佳代子は、ふう、と息を吐いた。

「事情が分かるまで、うちにいなさい。お父さんには……お母さんから言っとく。どうせ次に帰るの、盆だし」

エルディアーナは湯呑みを両手で包んだまま、しばらく動かなかった。

それから、深く頭を下げた。

「……このご恩は、クロイツェルの名にかけて、必ず」

「いいのよ、そんな大げさな。ただし」

佳代子はにっと笑った。

「うちはね、働かざる者食うべからず。家のことくらいは手伝ってもらうわよ、お嬢様」

「——喜んで」

その返事だけは、即答だった。

そして、その時だった。

開け放した窓の向こう、朝の住宅街の遠くから、間延びした声が流れてきた。

『い〜しや〜きいも〜……おいも……』

エルディアーナの手が、止まった。

「…………今の詠唱は」

「詠唱?」

「何かの……儀式ですの?」

窓の外を見つめる横顔が、この朝いちばん、真剣だった。

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