押し入れという名の亡命
暗闇の中で、エルディアーナ・フォン・クロイツェルは背筋を伸ばして座っていた。
石の床は氷のように冷たい。灯りはひとつもない。ドレスは取り上げられ、粗末な囚人服が一枚。それでも彼女は膝を揃え、顎を引き、姿勢を崩さなかった。
——貴族の娘は、いかなる時も背筋を伸ばしていなさい。
お祖母様の言葉を胸の内で繰り返す。
罪状は聞かされていない。裁きの場すら与えられなかった。夜明けとともに連れ出される、とだけ看守は言った。連れ出されてどうなるのかは言わなかった。
言われずとも、分かる。
(……それでも、です)
エルディアーナは目を閉じた。
(クロイツェルの娘が、うつむいて最期を迎えるわけには参りません)
どれほどの時が経ったか。
ふいに、音がした。
——がらり。
鉄の扉の重い軋みではない。木と木が擦れる、拍子抜けするほど軽い音。
そして、光。
まぶしさに目を細めながら、エルディアーナは顔を上げた。看守の顔を、まっすぐに見据えるために。
そこに立っていたのは、寝間着姿の見知らぬ少年だった。
*
——時は五分ほど遡る。
高瀬湊人、高校二年。深夜一時。トイレに起きたら、部屋の押し入れから物音がした。
ねずみかな、と思った。次に地震の前触れかなと思った。押し入れの前に立って耳を澄ます。
——衣擦れの音がした。
中に、何かいる。
心臓が嫌な音を立てた。開けるか。開けないか。いや、開けないという選択肢はない。ここで開けなかったら朝まで眠れない。
湊人は取っ手に指をかけ、一息に開けた。
がらり。
囚人服の美少女が、正座していた。
「…………」
「…………」
湊人は、静かに押し入れを閉めた。
がらり。ぴしゃ。
夢だ。そうに決まってる。寝ぼけてるんだ、俺は。トイレに行って、水を飲んで、布団に戻ろう。そうすれば明日の朝には全部——
見なかったことにする。それは、得意なはずだった。
……この襖は、だめだった。確認しないと逆に眠れない。
もう一度、開けた。
がらり。
「…………」
「…………」
いた。金髪の美少女が、客用布団の上で背筋を伸ばして正座していた。しかも今度は彼女のほうが優雅に一礼してきた。
「夜分に失礼いたします」
「しゃべった!?」
「わたくし、エルディアーナ・フォン・クロイツェルと申します。不躾ながらお尋ねいたしますが——」
彼女は押し入れの中から湊人をまっすぐに見上げた。囚人服で、正座で、それなのに玉座にいるみたいな顔で。
「ここは、どちらの牢獄でしょうか」
「……牢獄?」
「随分と、その……」
彼女は視線だけで周囲を見回した。客用布団。衣装ケース。天袋からはみ出た扇風機の箱。
「……柔らかな、牢獄ですのね」
「押し入れだよ!!」
深夜一時の絶叫だった。隣の部屋から壁を叩く音がした。母さんだ。
「あ、やば……すみません、静かに、静かにしてもらって——ていうか何!? 誰!? どこから入った!?」
彼女は答えず、部屋の中へ静かに視線を走らせた。学習机。椅子。床を這う、ゲーム機の黒いコードの束。
「……なるほど」
「何がなるほど?」
「拷問室を設えたのですね」
彼女はコードの束を一瞥した。
「ですが、あのような拘束具まで用意して……無駄な演出と申し上げておきますわ。わたくし、何も存じませんもの」
「拷問室!? 俺の部屋が!?」
湊人は思わず自分の部屋を見回した。
「ていうか俺、拷問官に見えます? パジャマですよ? ……あ、分かった。泥棒の言い訳ですか、それ」
「まあ」
彼女は心外だと言わんばかりに、わずかに顎を上げた。
「わたくしが、泥棒に見えまして?」
囚人服だった。
「…………」
「…………」
二人分の沈黙が深夜の部屋に落ちた。
……先に折れたのは、湊人だった。
「……で。結局、どこから入ったんですか」
「それは、わたくしが伺いたいのですが」
彼女は落ち着き払ったまま、すっと立ち上がり、押し入れから一歩、部屋へ降りた。所作だけ見れば、馬車から降りる貴婦人だった。
そして振り返り、自分が出てきた押し入れの中を覗き込む。
布団。衣装ケース。扇風機の箱。
石の壁も、鉄格子も、どこにもない。
「…………」
初めて、彼女の表情がわずかに揺れた。
「……戻る扉が、ございませんのね」
その声がほんの少しだけ小さかったことに、湊人は気づかないふりをした。
代わりに、努めて何でもない声で言った。
「多分……紅茶、お好きなんですよね」
「……え?」
「いや、なんとなく。飲みます? ティーバッグですけど」
(これ……異世界転移ってやつか……? いやまだ分かんないけど。でも押し入れから出てきたしな……)
「……ええ。……はい。…………はい?」
エルディアーナは生まれて初めて、言葉の継ぎ方を見失った。
尋問ではないのですか。拷問では。なぜこの少年は、囚人に茶を。
「……なるほど。懐柔策、ですのね」
「かいじゅう?」
「よろしいでしょう。いただきますわ。……ですが、申し上げておきます」
彼女はまっすぐに顎を上げた。
「毒が入っていようとも、わたくしは一滴残らず飲み干します。それがクロイツェルの誇りですもの」
「ただのティーバッグに何の覚悟してるんですか」
*
台所の小さな灯りの下で、彼女は紅茶を——宣言通り、一滴残らず——飲み干した。
そうして、名乗った。
「わたくしは、エルディアーナ・フォン・クロイツェル。クロイツェル公爵家の長女にございます」
声に、迷いがなかった。
「身に覚えのない罪で捕らえられ、裁きの場も与えられぬまま投獄されました。……事情は、込み入っておりますの。初対面の殿方に語る筋のものでは、ございませんわ」
「あー……はい。それは、そうっすね」
湊人はマグカップを両手で包んだまま、少し迷って口を開いた。
「……あの。笑わないで聞いてほしいんですけど。異世界転移って、分かります? 世界そのものが、別っていうか。ここ、あなたのいた世界と繋がってない場所なんじゃないかって」
エルディアーナはしばらく黙っていた。
「……転移魔法は、存じております。ですが、あれは同じ空の下を渡る術。世界が、別……?」
彼女は視線を落とし、カップの底を見つめた。
「……申し訳ありません。仰る意味が、まだ像を結びませんの。ここは、わたくしの知らぬ、遠い遠い異国——今夜のところは、そう思わせてくださいまし」
「はい。全然それで」
(まあ、俺だって半信半疑だしな……)
「それより、明日どうするかなんですけど。その……警察、行きます? 身元不明の人を保護してくれる、役所みたいなとこで」
「保護」
「まあ、事情聞かれて、身元が分かるまで施設で預かられて——」
「……また、牢ですの?」
湊人は言葉に詰まった。
彼女の声は静かだった。責めてもいない。ただ、そう尋ねただけだった。それが一番、効いた。
「……牢じゃ、ないです。ないですけど……ちょっと、考えましょう。それは明日」
「ええ。……それに」
彼女は押し入れのほうへ目をやった。
「わたくしが参ったのは、あの扉からですもの。戻る手掛かりがあるとすれば、あの場所だけですわ。離れるわけには参りません」
「ですよね……」
結局その夜、彼女は押し入れで休むことになった。湊人は最後まで「ベッド使ってください」と言ったのだが、
「囚人服の身で殿方の寝台を奪うなど、クロイツェルの名折れですわ。それに——」
彼女は客用布団を手のひらで押し、真顔で言った。
「石の床より、遥かに上等な牢ですもの」
「だから牢じゃないんだって」
*
翌朝。
高瀬家の母、高瀬佳代子(パート勤め・四十六歳)は六時半に台所へ降りて、凍りついた。
見知らぬ金髪の少女が、立っていた。息子のジャージを着て、髪を一つに結い、背筋をまっすぐに伸ばして。
少女は佳代子の姿を認めると、ドレスの裾をつまむように——ジャージなのに——優雅に一礼した。
「お初にお目にかかります。エルディアーナ・フォン・クロイツェルと申します」
「…………はい?」
「昨夜、やむを得ぬ事情により、ご子息のお部屋に押し掛けました。一家の主たる母君にご挨拶もなく一夜の宿を賜りました無礼、まずもってお詫び申し上げます」
深く、しかし卑屈さのない礼だった。
佳代子の頭の中をいくつもの単語が駆け巡った。彼女。家出。事件。詐欺。外国人。息子。まさか。
だが、目の前の少女の所作はそのどれとも噛み合わなかった。
「……あの、とりあえず」
佳代子は母親歴十七年の胆力で、最初の一手を選んだ。
「お茶、飲む?」
「恐れ入ります。……ですが、火の番はわたくしに。一宿の恩義がございますもの」
「え、いいのに——」
言い終わる前に、少女はやかんの前に立っていた。その立ち姿がなぜか様になっていた。
ドタドタドタ、と階段を踏み外しかけながら湊人が駆け下りてきたのは、その五分後である。
「母さん! 違うんだ、これは——」
台所では母と令嬢が向かい合わせでお茶を飲んでいた。
「湊人。……座りなさい」
「はい」
「エルディアーナさんから、だいたい聞きました。押し入れから出てきたって話以外は、だいたい分かりました」
「そこが一番肝心なとこなんだけど」
佳代子は湯呑みを置き、息子と少女を順に見た。
「警察って話も、考えたけどね。身元も分からない、保護者もいない、パスポートもない。そんな子を突き出したら、どこに送られるか分かったもんじゃない。……この子、あんたに『また牢か』って聞いたんでしょ」
「……うん」
「じゃあ、答えは出てるでしょうよ」
佳代子は、ふう、と息を吐いた。
「事情が分かるまで、うちにいなさい。お父さんには……お母さんから言っとく。どうせ次に帰るの、盆だし」
エルディアーナは湯呑みを両手で包んだまま、しばらく動かなかった。
それから、深く頭を下げた。
「……このご恩は、クロイツェルの名にかけて、必ず」
「いいのよ、そんな大げさな。ただし」
佳代子はにっと笑った。
「うちはね、働かざる者食うべからず。家のことくらいは手伝ってもらうわよ、お嬢様」
「——喜んで」
その返事だけは、即答だった。
*
そして、その時だった。
開け放した窓の向こう、朝の住宅街の遠くから、間延びした声が流れてきた。
『い〜しや〜きいも〜……おいも……』
エルディアーナの手が、止まった。
「…………今の詠唱は」
「詠唱?」
「何かの……儀式ですの?」
窓の外を見つめる横顔が、この朝いちばん、真剣だった。




