送り火という名の選ぶ手
八月の、十六日の夕方だった。
焙烙と、おがらが、玄関先に出された。去年と同じ場所に、同じ順で。ただ、火をつける前に、佳代子が、一度だけ、手を止めた。
「……去年と、逆ね」
誰も、答えなかった。
去年のこの火は、ご先祖様を送るだけの火だった。今年は、この火が消えるまでに、エルが、行く。
父が、マッチを擦った。
「エルディアーナさん」
「はい」
「点けるか」
エルは、マッチを受け取った。受け取って、少し迷ってから、火を、おがらへ移した。
小さな炎が、上がった。
*
玄関先には高瀬家の三人と、エルと、老人が一人、いた。
ヨハンは玄関の内側の三和土に控えていた。仕着せの埃は、佳代子が払った。「うちに来た人だから」と、それだけ言って。老人は恐縮して、日本式に何度も頭を下げ、それから宮廷式に一礼した。作法が二つ、混じっていた。
湊人は、火の前に立っていた。
昨夜も、その前も、彼はほとんど喋らなかった。行くなとも、行けとも、もう言わなかった。ただ、荷造りを手伝った。何を持っていけばいいか誰にも分からないので、結局、大したものは詰められなかった。
着ているのは麻のワンピースだった。去年、洋品店ふじさきで、対価分を働いてから頂いた、あの一着だった。皺は、伸ばしてあった。
荷物は紙袋が一つきりだった。安物の扇子と、剥げた箔と、プラスチックの冠と。まひるの父の最終便が、そのまま入っていた。
「それ」と、湊人が言った。「本当に、持ってくんですか」
「持って参ります」
「向こうで、笑われませんか。……そんな、安物」
「笑う者がおりましたら」
エルは、紙袋を抱え直した。
「その者は、この一年の価値を知りませんの。……哀れなことですわ」
湊人は、少し笑って、それから、うつむいた。
*
火が、半分になった頃だった。
通りの向こうから、人の気配が近づいてきた。エルが顔を上げると、そこに、いた。
八百屋のおばちゃんが、袋を提げていた。まひると凛が、並んで立っていた。純喫茶のマスターは、店の前掛けのまま。洋品店の小百合は白髪を結い上げ、よそ行きの恰好だった。源さんは腕を組んで、いちばん後ろにいた。
「……なぜ」
「なんでって」と、八百屋のおばちゃんが言った。「そりゃ、送るからよ」
誰も、何も、言っていないはずだった。エルはどこの誰にも、行くとは告げていない。
なのに、この人たちは、来ていた。
「エルちゃんさあ」と、まひるが言った。「ここんとこ、店ぜんぶ回ってたでしょ。買い物でもないのに。……あれ、挨拶でしょ」
「……」
「バレバレなんだよ」
凛が無言で缶ジュースを差し出した。エルは、それを受け取った。
小百合が、前へ出た。手に、白い封筒があった。
「……今月分」
エルは、両手で受け取った。
「確かに、頂戴いたしました」
「中、確認しないの」
「藤咲小百合様が、数え違えるはずが、ございませんもの」
小百合はふん、と鼻を鳴らした。それから舞台の人の目で、エルを頭から爪先まで、一度だけ検分した。
「……衣装、役に負けてないよ」
「お蔭様で」
「店は畳まないからね。あんたの棚は、そのままにしとく」
小百合は、腕を組んだ。
「……次の給料日は、決めてないけどさ」
エルは封筒を紙袋の中へ収めた。まひるの父の最終便の、隣だった。
「……では、決めておいてくださいまし」
小百合は、答えなかった。
答えずに、エルの襟を、一度だけ直した。洋品店の、手つきだった。
マスターが紙のカップを差し出した。中身は、冷たいコーヒーだった。
「……頂戴いたします」
源さんは何も持ってこなかった。ただ、腕を組んだまま、火を見ていた。
「行くのか」
「参ります」
「そうか」
それきりだった。この人は、いつも、そこまでしか言わない。
*
火が、小さくなっていった。
エルはその人たちの前に立った。
挨拶をしなければならない、と思った。この一年で受け取ったものの分だけ、言葉を尽くさねばならない、と。
けれど、口を開いたとき、出てきたのは、短い一言だった。
「……いって参ります」
この国の言葉で、いちばん短い、また会う約束の言葉だった。
「はい、いってらっしゃい」
佳代子が、即座に、そう返した。声は、震えていなかった。この人はこの一言のために、二日かけて、練習していたのだった。
エルは、頭を下げた。深く。宮廷式ではなく、この街の、玄関先の礼で。
顔を上げたとき、まひるが、泣きそうな顔をしていた。泣きそうな顔のまま、笑っていた。
「エルちゃん」
「はい」
「あんた、ほんと」
まひるは、そこで、一度、言葉を探した。探して、いちばん古い一言を、選んだ。
「……変な子」
街の噂が最初にこの人に貼った言葉だった。悪意で、貼られた言葉だった。
それが今、いちばん惜しまれる者への、餞になっていた。
エルは、それを受け取った。訂正も、謙遜も、しなかった。
「……ええ」
彼女は、微笑んだ。
「よく、言われますの」
*
火が、消えた。
送り火が、消えた。ご先祖様が、帰る。押し入れも、じきに、閉じる。
エルは、家の中へ入った。ヨハンが先に立って、押し入れの前に膝をついた。
襖が、開いていた。
闇が、そこにあった。冷たい、石の匂い。黴と、鉄錆の。この一年あまり、何度も彼女を怯えさせた、あの匂いが。
エルは、その闇を見た。
怖かった。あちらには彼女を罪人と呼ぶ国がある。名を奪った人がいる。牢がある。もう一度あそこへ入る可能性が、確かに、ある。
それでも、彼女は、足を出した。扉に引かれたからではない。宿命でも、血でもない。
あの子を、迎えに行くと、決めたからだった。
「エルディアーナさん」
湊人だった。
振り返ると、彼が、廊下に立っていた。何か言おうとして、言葉が見つからなくて、それでも口を開いた顔をしていた。
「……あの」
「はい」
「必ず、帰ってきてください」
エルは、彼を見た。
この一年あまり、この少年は、彼女を一度も呼び捨てにしなかった。押し入れから出てきた娘を、ずっと「エルディアーナさん」と呼び続けた。
「……はい」
彼女は、そう答えた。「かしこまりました」でも、「努力いたします」でもなかった。
「うん」
言ってしまってから、エルは、自分の口を、少し押さえた。
この国の、いちばん短い、いちばん近い返事だった。令嬢が、決して使わない言葉だった。
湊人が、目を、見開いた。
エルは何事もなかったように、背筋を伸ばした。
「……では」
「はい」
「行って参ります」
*
彼女は、闇へ、足を踏み入れた。
ヨハンが、続いた。
襖が、内側から、閉じられていく。細くなっていく隙間の向こうで、湊人が、まだ、こちらを見ていた。その後ろに、佳代子と、父が。
隙間が、なくなった。
——み、と。
最後に、一度だけ、建具が鳴った。
それきり、押し入れは、ただの押し入れになった。
湊人が、襖を開けた。
中には季節外れの毛布と、古い扇風機と、埃の匂いしか、なかった。
石の匂いは、しなかった。
*
その夜、高瀬家の茶の間は、静かだった。
テレビは、点いていた。誰も、見ていなかった。
水槽の中で、生還者が、ひとりで、水草の間を巡っていた。
「……ご飯」と、佳代子が言った。「食べなきゃね」
「ああ」
三人分の茶碗が、並んだ。
去年の春から、四人分並んでいたものが、三人分に戻っただけだった。それだけのことだった。
誰も、そのことに、触れなかった。
湊人が、箸を取って、止めた。
「……来年」
「ん?」
「来年の盆、迎え火、早めに焚こうよ」
父が、湊人を見た。
「目印だから。……分かりやすいほうが、いいでしょ」
佳代子が、袖で、目を押さえた。
「……そうね」
「ああ」と、父が言った。「早めに焚こう」
窓の外で、蝉が、鳴いていた。
盆が、終わろうとしていた。




