表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
32/33

送り火という名の選ぶ手

八月の、十六日の夕方だった。

焙烙と、おがらが、玄関先に出された。去年と同じ場所に、同じ順で。ただ、火をつける前に、佳代子が、一度だけ、手を止めた。

「……去年と、逆ね」

誰も、答えなかった。

去年のこの火は、ご先祖様を送るだけの火だった。今年は、この火が消えるまでに、エルが、行く。

父が、マッチを擦った。

「エルディアーナさん」

「はい」

「点けるか」

エルは、マッチを受け取った。受け取って、少し迷ってから、火を、おがらへ移した。

小さな炎が、上がった。

玄関先には高瀬家の三人と、エルと、老人が一人、いた。

ヨハンは玄関の内側の三和土に控えていた。仕着せの埃は、佳代子が払った。「うちに来た人だから」と、それだけ言って。老人は恐縮して、日本式に何度も頭を下げ、それから宮廷式に一礼した。作法が二つ、混じっていた。

湊人は、火の前に立っていた。

昨夜も、その前も、彼はほとんど喋らなかった。行くなとも、行けとも、もう言わなかった。ただ、荷造りを手伝った。何を持っていけばいいか誰にも分からないので、結局、大したものは詰められなかった。

着ているのは麻のワンピースだった。去年、洋品店ふじさきで、対価分を働いてから頂いた、あの一着だった。皺は、伸ばしてあった。

荷物は紙袋が一つきりだった。安物の扇子と、剥げた箔と、プラスチックの冠と。まひるの父の最終便が、そのまま入っていた。

「それ」と、湊人が言った。「本当に、持ってくんですか」

「持って参ります」

「向こうで、笑われませんか。……そんな、安物」

「笑う者がおりましたら」

エルは、紙袋を抱え直した。

「その者は、この一年の価値を知りませんの。……哀れなことですわ」

湊人は、少し笑って、それから、うつむいた。

火が、半分になった頃だった。

通りの向こうから、人の気配が近づいてきた。エルが顔を上げると、そこに、いた。

八百屋のおばちゃんが、袋を提げていた。まひると凛が、並んで立っていた。純喫茶のマスターは、店の前掛けのまま。洋品店の小百合は白髪を結い上げ、よそ行きの恰好だった。源さんは腕を組んで、いちばん後ろにいた。

「……なぜ」

「なんでって」と、八百屋のおばちゃんが言った。「そりゃ、送るからよ」

誰も、何も、言っていないはずだった。エルはどこの誰にも、行くとは告げていない。

なのに、この人たちは、来ていた。

「エルちゃんさあ」と、まひるが言った。「ここんとこ、店ぜんぶ回ってたでしょ。買い物でもないのに。……あれ、挨拶でしょ」

「……」

「バレバレなんだよ」

凛が無言で缶ジュースを差し出した。エルは、それを受け取った。

小百合が、前へ出た。手に、白い封筒があった。

「……今月分」

エルは、両手で受け取った。

「確かに、頂戴いたしました」

「中、確認しないの」

「藤咲小百合様が、数え違えるはずが、ございませんもの」

小百合はふん、と鼻を鳴らした。それから舞台の人の目で、エルを頭から爪先まで、一度だけ検分した。

「……衣装、役に負けてないよ」

「お蔭様で」

「店は畳まないからね。あんたの棚は、そのままにしとく」

小百合は、腕を組んだ。

「……次の給料日は、決めてないけどさ」

エルは封筒を紙袋の中へ収めた。まひるの父の最終便の、隣だった。

「……では、決めておいてくださいまし」

小百合は、答えなかった。

答えずに、エルの襟を、一度だけ直した。洋品店の、手つきだった。

マスターが紙のカップを差し出した。中身は、冷たいコーヒーだった。

「……頂戴いたします」

源さんは何も持ってこなかった。ただ、腕を組んだまま、火を見ていた。

「行くのか」

「参ります」

「そうか」

それきりだった。この人は、いつも、そこまでしか言わない。

火が、小さくなっていった。

エルはその人たちの前に立った。

挨拶をしなければならない、と思った。この一年で受け取ったものの分だけ、言葉を尽くさねばならない、と。

けれど、口を開いたとき、出てきたのは、短い一言だった。

「……いって参ります」

この国の言葉で、いちばん短い、また会う約束の言葉だった。

「はい、いってらっしゃい」

佳代子が、即座に、そう返した。声は、震えていなかった。この人はこの一言のために、二日かけて、練習していたのだった。

エルは、頭を下げた。深く。宮廷式ではなく、この街の、玄関先の礼で。

顔を上げたとき、まひるが、泣きそうな顔をしていた。泣きそうな顔のまま、笑っていた。

「エルちゃん」

「はい」

「あんた、ほんと」

まひるは、そこで、一度、言葉を探した。探して、いちばん古い一言を、選んだ。

「……変な子」

街の噂が最初にこの人に貼った言葉だった。悪意で、貼られた言葉だった。

それが今、いちばん惜しまれる者への、餞になっていた。

エルは、それを受け取った。訂正も、謙遜も、しなかった。

「……ええ」

彼女は、微笑んだ。

「よく、言われますの」

火が、消えた。

送り火が、消えた。ご先祖様が、帰る。押し入れも、じきに、閉じる。

エルは、家の中へ入った。ヨハンが先に立って、押し入れの前に膝をついた。

襖が、開いていた。

闇が、そこにあった。冷たい、石の匂い。黴と、鉄錆の。この一年あまり、何度も彼女を怯えさせた、あの匂いが。

エルは、その闇を見た。

怖かった。あちらには彼女を罪人と呼ぶ国がある。名を奪った人がいる。牢がある。もう一度あそこへ入る可能性が、確かに、ある。

それでも、彼女は、足を出した。扉に引かれたからではない。宿命でも、血でもない。

あの子を、迎えに行くと、決めたからだった。

「エルディアーナさん」

湊人だった。

振り返ると、彼が、廊下に立っていた。何か言おうとして、言葉が見つからなくて、それでも口を開いた顔をしていた。

「……あの」

「はい」

「必ず、帰ってきてください」

エルは、彼を見た。

この一年あまり、この少年は、彼女を一度も呼び捨てにしなかった。押し入れから出てきた娘を、ずっと「エルディアーナさん」と呼び続けた。

「……はい」

彼女は、そう答えた。「かしこまりました」でも、「努力いたします」でもなかった。

「うん」

言ってしまってから、エルは、自分の口を、少し押さえた。

この国の、いちばん短い、いちばん近い返事だった。令嬢が、決して使わない言葉だった。

湊人が、目を、見開いた。

エルは何事もなかったように、背筋を伸ばした。

「……では」

「はい」

「行って参ります」

彼女は、闇へ、足を踏み入れた。

ヨハンが、続いた。

襖が、内側から、閉じられていく。細くなっていく隙間の向こうで、湊人が、まだ、こちらを見ていた。その後ろに、佳代子と、父が。

隙間が、なくなった。

——み、と。

最後に、一度だけ、建具が鳴った。

それきり、押し入れは、ただの押し入れになった。

湊人が、襖を開けた。

中には季節外れの毛布と、古い扇風機と、埃の匂いしか、なかった。

石の匂いは、しなかった。

その夜、高瀬家の茶の間は、静かだった。

テレビは、点いていた。誰も、見ていなかった。

水槽の中で、生還者が、ひとりで、水草の間を巡っていた。

「……ご飯」と、佳代子が言った。「食べなきゃね」

「ああ」

三人分の茶碗が、並んだ。

去年の春から、四人分並んでいたものが、三人分に戻っただけだった。それだけのことだった。

誰も、そのことに、触れなかった。

湊人が、箸を取って、止めた。

「……来年」

「ん?」

「来年の盆、迎え火、早めに焚こうよ」

父が、湊人を見た。

「目印だから。……分かりやすいほうが、いいでしょ」

佳代子が、袖で、目を押さえた。

「……そうね」

「ああ」と、父が言った。「早めに焚こう」

窓の外で、蝉が、鳴いていた。

盆が、終わろうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ