迎え火という名の選び直し
九月になっても、押し入れは、ただの押し入れだった。
湊人は季節外れの毛布をそこへ戻した。扇風機も、同じ場所に。元通りに詰め込んでも、何かが余った。人ひとりが座れるだけの、空きが。
布団を敷けば、寝られる。誰も、寝なかった。
*
十月に、まひるが訪ねてきた。
「お父さんがさ」
まひるは玄関先で、紙袋を差し出した。
「また、買っちゃって」
中は、房のついた栞だった。
「いや、いないの分かってるんだよ。分かってて、買うんだよ、あの人」
「……もらっとく」
湊人は、それを受け取った。
その袋は、押し入れの上の段に置かれた。翌月、もう一つ増えた。その次の月も。
*
十一月に、湊人は進路の紙を出した。
書いた学部は、法学部だった。
「……なんで」と、佳代子が訊いた。
「別に」
湊人は、それだけ言った。
言わなかったことがあった。買い取り屋の前で、字の読めない老人が囲まれていたこと。その紙の意味を、誰も教えてやれなかったこと。あの日、前へ出たのは、この街の誰でもなく、押し入れから来た娘だったこと。
言わなかったが、佳代子は、たぶん、分かっていた。
何も訊かずに、判子を、押してくれた。
*
十二月の、寒い朝だった。
湊人は商店街で焼き芋の幟を見た。
源さんの窯には、火が入っていた。窯の前に、若い男が立っていた。源さんの息子だった。焼き加減を源さんが横から見ていた。何か言い、息子が頷き、また何か言った。
湊人はその前を通り過ぎようとして、足を止めた。
「……一本、ください」
「おう」
紙に包まれた芋は、熱かった。
湊人は、その場で、半分食べた。残り半分は、持ち帰った。
家で、佳代子が、それを見て、何も言わずに、皿を出した。三人で、半分を分けた。ひと口ずつしか、なかった。
*
正月が来た。
父が帰ってきて、三日いて、また行った。
佳代子は、おせちを作った。去年より、少しだけ量が少なかった。
「……去年は」と、佳代子が言いかけて、やめた。
去年は、黒豆の意味を訊かれた。栗きんとんの色に、感心された。伊達巻を、これは書物ですかと言われた。
誰も、その話を、しなかった。
水槽の中で、生還者が、正月も変わらず、水草の間を巡っていた。
*
二月に、湊人は試験を受けた。三月に、結果が来た。
佳代子が玄関で封を切って、声を上げた。父が単身赴任先から電話をかけてきて、同じことを二度訊いた。
卒業式の日、まひるが写真を撮ろうと言って、三人で並んだ。凛は自分から、フレームのいちばん端に立った。
湊人はその写真を、押し入れの上の段の、紙袋の隣に置いた。
報せたい相手が、ひとり、足りなかった。
*
三月の終わりに、豆腐屋のシャッターが、開いた。
湊人は、驚いて、足を止めた。
中から出てきたのは、若い夫婦だった。工具箱を提げて、壁を叩いて、何か相談していた。惣菜の店を始めるのだという。豆腐屋は、戻らない。あの店は、終わったままだった。ただ、その場所で、別の誰かが、始めようとしていた。
シャッターの前は、その日も、掃かれていた。
湊人は、それを、あの人に見せたいと思った。
思ってから、その「あの人」が、今どこにいるのかを、知らないことに、気づいた。
*
四月。
湊人は電車で通うようになった。定期券に、知らない駅の名が、二つ並んでいた。
五月。
押し入れの上の段の紙袋は、五つになっていた。
六月に、湊人は押し入れの襖を開けた。開けて、しばらく、そこに座っていた。
石の匂いは、しなかった。
鳴りもしなかった。
彼は襖を閉めた。
*
七月、佳代子が暦を買ってきた。
台所の壁に、貼った。盆の日に、丸がついていた。
「……早めに焚くんでしょ」と、佳代子が言った。
「うん」
「じゃあ、おがら、多めに買っとかないと」
その夜、湊人は、自分の部屋で、去年の帳面を開いた。エルが残していった、暦の帳面だった。冬至から数えた、あの数字の列。
最後の頁の続きが、白いままだった。
湊人は鉛筆を持って、その続きに、日付を書いた。
次の日も、書いた。
誰にも、言わなかった。
*
八月十三日。
高瀬家の玄関先に、焙烙が出された。おがらは、いつもの三倍あった。
「多くない?」と、湊人が言った。
「目印なんでしょ」と、佳代子が言った。
父も、帰ってきていた。今年は、盆の三日前から。
火は、まだ明るいうちに、点けられた。近所の家より、ずっと早く。
炎が、上がった。
通りの向こうから、八百屋のおばちゃんが、顔を出した。
「あら、もう焚いてる」
「早めなんです」と、湊人が言った。
「そう。……そうよね」
おばちゃんはそれだけ言って、自分の店に戻った。戻って、店先の提灯に、火を入れた。
豆腐屋の跡の惣菜屋も、灯りを点けた。純喫茶ロマンの窓も、明るくなった。源さんの窯には、季節外れの火が、入っていた。
誰かが、示し合わせたわけではなかった。
ただ、この街の灯りが、いつもの盆より、少しだけ、多かった。
*
その夜だった。
湊人は押し入れの前に座っていた。去年、彼女がそうしていたのと、同じ場所だった。
何時になっても、何も、起きなかった。
開くとは、限らない。それは去年、あの人自身が言っていたことだった。暦は、扉の約束ではない、と。
日付が、変わった。
湊人は、まだ、そこにいた。
——み、と。
音が、した。
湊人の背中が、跳ねた。
——み、と。
二度、鳴った。
去年までは、一度きりだった。今年は、二度。まるで、内側から、確かめるように。
襖が、開いた。
*
石の匂いが、した。
冷たい、石の匂い。黴と、鉄錆の。
その匂いの中から、出てきたのは、痩せた娘だった。
旅装の裾は、汚れていた。髪は、結わえ直したばかりだった。頬は、去年より、削げていた。
けれど、背筋は、伸びていた。
「……ただいま、戻りました」
湊人は、動けなかった。声も、出なかった。
娘はその顔を見て、少しだけ困ったように微笑んだ。
「……お出迎えは、ございませんの」
「あっ、あの、」
「冗談ですわ」
廊下の奥で、足音がした。佳代子が、走ってきた。父が、その後ろから。
佳代子は何も言わずに、その痩せた身体を抱きしめた。抱きしめて、それから、殴るような手つきで、背中を叩いた。
「……遅い!」
「申し訳、ございません」
「一年! まる一年!」
「はい」
「ご飯は!」
「……いただいて、おりません」
「炊きます!」
佳代子は、そう言って、台所へ走っていった。深夜一時だった。
*
エルは、茶の間に座った。
一年ぶりの、その部屋だった。テレビも、水槽も、卓袱台も、去年と同じ場所にあった。生還者が水草の間から、こちらを見ていた。
「……お変わりなく」
そう言ってから、エルは湊人を見た。見て、言い直した。
「……いえ。湊人様は、お変わりになりましたわ」
「そうですか」
「学生服では、ございませんもの」
「四月から、大学生なんで」
「……まあ」
エルは、目を細めた。
「一年、きちんと、進んでおられましたのね」
「勝手に、進むんですよ。カレンダーが」
「ええ」
エルは、頷いた。
「……そういうもので、ございますわね」
「あんたは、変わったよ」と、父が言った。「痩せた」
「向こうの食事は、味が濃うございますの」
エルはそう言って、それから、少し黙った。
「名は」と、湊人が訊いた。「……晴れたんですか」
「晴れました」
彼女は、静かに言った。
「クロイツェルの名は、戻りましたわ。……宰相は、位を退きました。裁かれたのではありません。……あの方を裁ける者は、あちらにはおりませんもの。ただ、退きました。それだけです」
それだけです、とエルは言った。
その一年に何があったのか、彼女は、それ以上は語らなかった。ヨハンがどこで何をしているのかも。
「……アニカは」
エルの手が、湯呑みの上で、止まった。
「見つけました」
「……」
「牢に、おりました」
佳代子が台所から、こちらを見た。
「わたくしを逃がした咎で。……一年半、あの子は、あそこに」
エルは、そこで、言葉を切った。
「今は、出ております。クロイツェルの屋敷で、休んでおります。……歩けるようになるまでには、まだ、かかりますけれど」
「連れて、こなかったんですか」
「誘いましたわ」
エルは、微笑んだ。
「断られました。『お嬢様のお帰りになる場所を、お守りするのが侍女の仕事です』と。……あの子は、そういう子ですの」
誰も、何も言えなかった。
エルは湯呑みを両手で持った。
「わたくしは、あちらで、名を取り戻しました。屋敷も、戻りましたわ。使用人も、揃えられました。……立派な、公爵家の当主ですのよ、今は」
「じゃあ、なんで」と、湊人が言った。「なんで、戻ってきたんですか」
エルは、湯呑みを置いた。
そして、この一年、ずっと考えていたことを、言った。
「あちらでわたくしを待っていたのは、名と、屋敷と、責務ですわ。……こちらで待っていたのは、人ですもの」
*
「あちらの屋敷は、広うございました」
エルは、続けた。
「部屋は三十。庭には泉。使用人は四十人。……夜は、静かでしたわ。誰も、わたくしの部屋の前を、うるさく通りませんの」
彼女は、茶の間を見回した。
六畳。テレビ。金魚。冷めた麦茶。
「あの屋敷で、わたくしは、思い出しておりましたの。……この部屋を、以前、なんと申し上げましたかしら」
「牢」と、湊人が言った。「柔らかい牢だって、言ってました」
「ええ。……申しましたわね」
エルは、笑った。それから、その笑いを消した。
「訂正させていただきますわ」
彼女は卓袱台に両手をついた。深く頭を下げた。宮廷式でもなく、玄関先の礼でもなく。ただ、深く。
「この世界は、牢などでは、ございませんでしたわ」
佳代子が、台所で、しゃがみ込む音がした。
「牢は、向こうにございました。……あの子が入れられていた、あの牢です。わたくしは、それを見て参りました。それから、思いましたの。……わたくしが、この一年、押し入れの匂いを恐れながら、ここで暮らしていたこの家が」
エルは、顔を上げた。目が、濡れていた。
「どれほどの、場所であったか」
*
湊人は、それを聞いていた。
それから、口を開いた。
「エルさん」
エルの、まばたきが、止まった。
一年前の、この人は、その呼び方を、しなかった。押し入れから出てきた不審な娘に、堅苦しい距離を保ったまま、ずっと「エルディアーナさん」と呼び続けた。距離は、彼の誠実さだった。
その距離が、いま、詰められた。
「……お待たせ、いたしました」
エルは、そう答えた。
答えた声が、少し掠れていた。
*
夜が明ける頃、飯が炊けた。
四人分の茶碗が、並んだ。
誰も、そのことに触れなかった。触れずに、食べた。エルは、二杯、食べた。
「……お代わりを、頂戴できますか」
「三杯目でしょ」
「……侍女の仕事ではございませんので」
「意味が分かんないよ」
窓の外が、白み始めていた。
迎え火の灰が、玄関先に残っていた。おがらを三倍焚いた、その灰が。
*
エルはその日の午後、商店街へ出た。
最初に、八百屋のおばちゃんが、悲鳴を上げた。それから、まひるが走ってきて、凛が走ってきて、マスターが店から出てきた。源さんは窯の前で、腕を組んだまま、ふん、と鼻を鳴らした。
「戻ったのか」
「戻りました」
「そうか」
それきりだった。この人は、いつも、そこまでしか言わない。
ただ、その日の焼き芋は、一本、多かった。
*
洋品店ふじさきだけ、誰も出てこなかった。
エルが、硝子戸を引いた。
店のいちばん奥の棚は、そのままだった。一年分の埃が、積もっていた。誰も、触っていなかった。
小百合は、レジの奥にいた。顔も上げずに、はたきを一本、出してきた。一年前と、同じ場所からだった。
「じゃ、棚から」
「……かしこまりました」
エルははたきを両手で受け取った。
「小百合様」
「なあに」
「……次の給料日は、いつでございましょう」
「来月の、二十五日」
小百合はそっぽを向いて言った。
「決まってんのよ、うちは。昔から」
*
その夜、エルは押し入れの前に座った。
襖は、閉まっていた。石の匂いは、もう、しなかった。
送り火は、明後日だった。
彼女は、明後日、帰らない。今年は、この街に、いる。向こうの責務は、片がついた。ヨハンが、屋敷を守っている。アニカが歩けるようになったら、来年の盆に、こちらへ連れてくると約束した。
けれど、来年、扉が開く保証は、どこにもなかった。
去年、一度きりだった軋みが、今年は二度だった。それが何を意味するのかも、誰にも分からない。
毎年、この季節に、彼女は、また選ばねばならない。行くか、留まるか。開くか、開かないか。それは、暦にも書いていなかった。
(それで、よろしいのですわ)
と、エルは思った。
二度と、選ばずに済む場所へは、戻らない。名も、家も、居場所も、与えられて手に入れたものは、一度、ぜんぶ取り上げられた。
だから、これからは、毎年、選ぶ。
彼女は、襖に手のひらを当てた。
——み、と。
建具が、ひとつ、鳴った。
……み、と。
もうひとつ。
まるで、返事のように。
「……ええ」
エルは、そう答えた。
「また、参りますわ」
台所から、佳代子の声がした。「エルちゃん、お風呂!」「はい、ただいま参ります!」
エルは、立ち上がった。
押し入れは、閉じたまま、そこにあった。ただの押し入れとして。来年の夏まで、眠るのだ。
廊下の灯りが、あたたかかった。




