最終便という名の凪
盆の、十四日。
送り火は、明日の夕方だった。
朝から、商店街は、盆の顔をしていた。休む店と、休まない店が、半々だった。休まない側の筆頭が八百屋のおばちゃんだった。
「エルちゃん! いいところに来た!」
声が通りの端から飛んできた。エルは、足を止めた。買い物籠を提げた、いつもの午前だった。
「ちょっと、これ、持ってって」
差し出されたのは、南瓜だった。丸ごと一玉、抱えるほどの大きさがあった。
「……こちらは」
「もらいもん。うち、多いのよ。煮ても焼いても減らないの」
「頂戴いたします。……ただ、これは」
エルはその南瓜を両手で受け取った。受け取って、少し傾いだ。
「重うございますわね」
「あら、いける口でしょ、あんた。米も担いでたじゃない」
「担ぎました」と、エルは言った。「あの時は、若うございましたので」
「一昨日の話だよ」
*
豆腐屋の前を、エルは通った。
シャッターは、下りたままだった。あの朝から、ずっと。
その前が、掃かれていた。ちりひとつ、なかった。左隣の八百屋が自分の店先を掃くついでに掃いたのだった。
その右隣に、もう一枚、下りたシャッターが増えていた。乾物屋だった。そちらの前も、同じように、掃かれていた。
店は、二軒、死んだ。掃く手は、まだ、消えていない。
エルはその掃かれた地面の前で足を止めた。南瓜を抱えたまま、頭を下げた。深く。誰にも、見えない角度で。
この街は、救えなかった店の前も、掃く。誰に頼まれるでもなく、いつものように。
わたくしは、それを、覚えて帰るのだ、と思った。
*
純喫茶ロマンには、人が集まっていた。
入った瞬間に、エルは事態を察した。奥のテーブルに、見覚えのある紙袋が、積んであった。
「エルちゃん、来た!」
まひるだった。凛も、いた。マスターはカウンターの中で、我関せずという顔をして、豆を挽いていた。
「最終便です」と、凛が、真顔で言った。
「……最終便」
「お父さんが」と、まひるが言い直した。「エルちゃん用に集めてたやつ。溜まってたの、全部。持ってきた」
紙袋の口から、覗いていた。
扇子。日傘。刺繍の手袋。房のついた栞。どこで手に入れるのか、誰も知らない、「令嬢グッズ」の類。まひるの父がこの一年、見つけるたびに買い集めていた、あれだった。
「ご厚意は、ありがたく存じますが」
「あ、返品不可でーす」
「そのようなお店の作法は」
「うちの父の作法です」
エルは、紙袋を覗き込んだ。
扇子を、一本、取り出した。開くと、金の箔が、剥げかけていた。安物だった。あちらでなら、侍女が持ってきた時点で、下げさせている品だった。
エルはそれを丁寧に開いて、ひと扇ぎした。
「……よい風ですわ」
「本物っぽい!」と、まひるが叫んだ。
「本物ですわ」
*
凛が紙袋の底から、何かを引っ張り出した。
「これ、なんですか」
冠だった。銀色の、プラスチックの、子供用のティアラだった。
沈黙が、降りた。
「……お父様は」と、エルが言った。「わたくしを、いくつだとお思いなのでしょう」
「たぶん、七歳」
「まひる」
「ごめんて」
まひるはその冠を、エルの頭に載せた。
載せられた。エルは、抵抗しなかった。背筋を伸ばしたまま、プラスチックの冠を、頭に載せたまま、静かにコーヒーを一口飲んだ。
凛が、口を押さえた。マスターが、豆を挽く手を止めた。
「……似合ってます」と、凛が、震える声で言った。
「存じております」
まひるがテーブルに突っ伏した。
「だめ、無理、この人、無理」
「無理とは」
「褒めたの! ぜんぶ褒めたの!」
窓の外を、自転車が、通り過ぎていった。蝉が、鳴いていた。
エルは、冠をそっと外した。外して、両手で持った。
「……大切に、いたしますわ」
その声が、少しだけ、いつもと違った。
まひるが、顔を上げた。凛も、見た。
けれど、エルは、もう、いつもの顔に戻っていた。
「マスター。おかわりを、頂戴できますか」
「あいよ」
マスターは、それだけ言って、豆を挽き始めた。挽く音が、店の中の、余計な間を、埋めていった。
*
夕方近く、エルは、源さんのいつもの角を通った。
窯の火が、落ちていた。盆のあいだは、商いを休むのだという。源さんは軽トラの脇の椅子で、団扇を使っていた。
「よう」
「ご無沙汰しております」
「南瓜、重そうだな」
「ええ。……頂戴いたしました」
源さんは、団扇を止めた。エルの持っている紙袋と、南瓜と、その両方を見た。
「持てるのか、それ」
「持てます」
「持てねえだろ」
源さんは、立ち上がった。そして、何も言わずに南瓜だけを取り上げた。
「家まで、持ってく」
「そのようなご迷惑は」
「迷惑じゃねえ。ついでだ」
ついででは、なかった。源さんのいつもの角から高瀬家までは、逆方向だった。エルは、それを知っていた。知っていて、何も言わなかった。
二人は、並んで歩いた。
しばらく、どちらも、何も言わなかった。
商店街の端まで来たところで、源さんが、ぼそりと言った。
「盆は、どこの家も、帰ってくる時期だ」
「……ええ」
「行くところがあるなら、行きゃあいい。……けどな」
源さんは、南瓜を抱え直した。
「帰ってくるところも、ちゃんと、ある。それだけは、覚えとけ」
エルは、答えなかった。
答えられなかった、と言うほうが、正しかった。
源さんは、返事を待たなかった。ただ、南瓜を抱えて、先を歩いた。この人は、いつも、そこまでしか言わない。
*
高瀬家の玄関で、源さんは、南瓜を置いて、帰っていった。「じゃあな」の一言だけで。
エルは玄関先に立って、その背中を見送った。
通りの向こうで、盆提灯が、いくつか灯り始めていた。明日の夕方、あの提灯の火が、送り火になる。ご先祖様を、彼岸へ帰す火になる。
そして、押し入れが、閉じる。
エルは、紙袋を持ち直した。安物の扇子と、剥げた箔と、プラスチックの冠と。あちらへ持って帰れるかどうかも、分からない品々だった。
佳代子が、玄関を開けた。
「あら、源さん? ……南瓜、まあ、大きい」
「頂戴いたしました。煮ても焼いても減らないそうですわ」
「じゃあ、今夜、煮ましょうか」
「はい」
佳代子は南瓜を持ち上げようとして、その重さに、うっとなった。
「……お父さん! ちょっと!」
奥から、父が出てきた。父も、持ち上げて、うっとなった。
エルが、片手で、持ち上げた。
二人が、それを見ていた。
「……エルちゃん」
「なんでしょう」
「あんた、そういうとこよ」
「どういうとこですの」
佳代子は、答えなかった。かわりに、笑った。この二日で、初めて笑った顔だった。
台所から、出汁の匂いがしてきた。夏の夕方の、いつもの匂いだった。
明日の夕方、火が焚かれる。
けれど、今夜は、南瓜を煮る。




