命という名の一番
明くる朝の、茶の間だった。
押し入れは、閉めてあった。閉めても、それが昨夜と同じ押し入れでないことを、この家の全員が知っていた。ヨハンは、今、その中にいる。畳の上ではなく、闇の側の、境のあたりに。あの老人は「では、境で待ちます」とだけ言って、身を退いた。
卓袱台に、四人が座っていた。
誰も、箸を取らなかった。味噌汁だけが、湯気を立てていた。
最初に口を開いたのは、エルだった。話を切り出す役目は自分にあると、彼女は思っていた。
「昨夜、ご覧になったとおりですわ」
三人が、顔を上げた。
「扉は、開きました。迎えも、参りました。……盆のあいだだけ、開いております。送り火が焚かれれば、また、閉じますわ」
「……いつ」と、父が言った。「いつ、行くつもりだ」
「送り火の、前に」
佳代子の手が、湯呑みの縁で止まった。
「向こうで、わたくしを待っている者がおります。名は、まだ、罪人のままです。……それを、晴らしに参ります」
「晴らしにって」と、湊人が言った。「その、宰相って人が、まだ、いるんですよね」
「おります」
「その人が、あんたを牢に入れて、殺そうとしたんですよね」
「ええ」
「じゃあ、帰ったら」
湊人はそこで、言葉を詰まらせた。詰まらせて、それから、絞り出すように言った。
「……また、同じことに、なるんじゃないんですか」
エルは、答えなかった。答えなかったことが、答えだった。
*
湯呑みの置かれる音が、鳴った。
佳代子が、置いたのだった。乱暴ではなかった。ただ、いつもより、硬い音だった。
「エルちゃん」
「はい」
「行かないで、とは、言わないつもりだったの」
佳代子の声は、震えていなかった。それが、かえって、恐ろしかった。
「昨日の夜、ずっと考えてた。あんたには、あんたの家がある。守りたい名前がある。待ってる子がいる。……止める権利なんて、こっちには無いって」
「……佳代子様」
「でもね」
佳代子が、顔を上げた。目が、赤かった。
「殺されに行くのを、見送る親が、どこにいるの」
茶の間が、静まり返った。
「あんた、さっき、なんて言った? また同じことになるんじゃないかって湊人に訊かれて、なんにも答えなかったでしょう。……答えられないってことは、そういうことでしょう」
「……」
「名前が大事なのは、分かる。誇りが大事なのも、分かった。この一年で、いやってほど分かった。……でもね、エルちゃん。命が、一番なのよ」
佳代子の声が、そこで、初めて崩れた。
「名前は、あとからでも、なんとかなる。……命は、ならないの」
*
「お母さんの言うとおりだ」
父だった。
この人が、こんなふうに話すのを、エルは、初めて聞いた。単身赴任の、盆と正月しか帰らない、口数の少ない人。去年の夏、玄関先で「いるか」と訊いただけの人。
「エルディアーナさん。俺は、あんたを一年、この家に置いた。……置いた以上、責任がある」
「そのようなご負担を、おかけするつもりは」
「負担の話は、してない」
父は味噌汁の椀を脇へ寄せた。
「うちの子が、死にに行くのを、黙って見送れるかって話だ」
うちの子、と、この人は言った。
その一言が、エルの背筋を、真っ直ぐに保っていた何かを、内側から押した。
「……わたくしは」
声が、掠れた。
「わたくしは、この家の子では、ございません」
「そりゃそうだ」と、父は言った。「戸籍もないしな。……それでも、うちの子だ。そう思ってる者が、ここに三人いる。あんたが違うと言っても、こっちの気持ちまでは、消せない」
エルは、何も言えなかった。
あちらでは、家名を汚したと言われた。娘であることを、剥がされた。
こちらでは、戸籍のない娘を、うちの子だと、言われている。
*
「行かせません」
湊人だった。
立ち上がっていた。拳を握っていた。昨夜、廊下で握ったのと、同じ拳だった。
「そんな、殺されるって分かってるところに、行かせるわけないでしょう」
「湊人様」
「俺が行きます」
空気が、止まった。
「あの押し入れ、開いてるんですよね。あの爺さんが、案内できるんですよね。だったら、俺も行きます。……エルディアーナさん一人で、行かせない」
「湊人様」
「向こうがどんなとこか知らないけど。相手が偉い奴だろうが、なんだろうが。俺は——」
その先の言葉を、湊人は、言い終えることができなかった。
「湊人。おやめなさい」
声が、鞭のように鳴った。
湊人が、口を閉じた。
二度目だった。この人が、様を落として、彼の名を呼んだのは。一度目は、彼が事なかれに逃げようとしたときだった。今度は、逆だった。彼が、行こうとしたときだった。
*
「河原の話を、覚えておいでですか」
エルの声は、静かだった。静かすぎた。
「勝てぬと知りながら、自転車で、突っ込んだ。……あなたは、それを、恥じておられなかった。わたくしも、恥じるべきとは、思いませんでした」
「じゃあ」
「けれど、あれは、河原ですわ」
エルは、立ち上がった。
「向こうは、河原では、ございません。あちらには、法がありません。少なくとも、わたくしのような者を守る法は。……剣を持った者が、身分のない異邦人を斬って、罪に問われぬ場所ですのよ」
「それでも」
「湊人様」
彼女は、彼の正面に立った。
「あなたが、あの門を潜れば。三日で、死にますわ」
断言だった。慰めも、比喩も、無かった。
「わたくしは、それを、見送れません」
「……あんたは」と、湊人が言った。声が、震えていた。「あんたは、それを、俺たちにさせるんですか」
エルの唇が、開いて、閉じた。
言葉が、無かった。
*
「掴みなさい」
しばらくして、エルが、そう言った。
「え」
「わたくしの、腕を。……力いっぱい、掴んでご覧なさい」
湊人は意味が分からないまま、その手首を掴んだ。掴んだ、と思った。
次の瞬間、湊人の視界が、天井になっていた。
背中が、畳に着いていた。何をされたのか、まったく分からなかった。痛みは、無かった。ただ、掴んだはずの手首が、いつのまにか、こちらの肘の内側を、押さえていた。
「……え」
湊人は天井を見たまま、間の抜けた声を出した。
「え、強っ……」
「クロイツェルの娘は、狙われる家の娘ですの」と、エルは、彼の腕を離しながら言った。「六つの頃から、仕込まれておりますわ。……人を投げるためではなく、逃げ延びるために」
エルは、彼を起こしてやった。
「わたくしは、訓練を受けております。あなたは、受けておられない。……そういう場所へ、行くのですわ」
湊人は畳に座り込んだまま、動かなかった。
それから、ぽつりと言った。
「……ずるい」
「ええ」
「そうやって、俺が、絶対に足手まといだって分からせて。……行かせないように、するんだ」
「ええ」
エルは、否定しなかった。
「それが、いちばん、確かですもの」
*
佳代子が、泣いていた。声を殺して、割烹着の袖で、目を押さえていた。
父は腕を組んだまま、天井を見ていた。
湊人は畳に座って、うつむいていた。
誰も、勝っていなかった。
エルはその三人の前に膝をついた。宮廷の作法ではなく、この家の畳の上に、ただ正座した。
「……申し訳、ございません」
「謝るな」と、父が言った。「謝られると、こっちが、引き下がるしかなくなる」
「では、謝りません」
エルは、顔を上げた。
「けれど、行きます」
三人が、彼女を見た。
「わたくしが、命より名を選ぶ女だから、では、ございません。……わたくしは、命が惜しゅうございます。処刑の前の夜に、あれほど怖かったのですもの。今も、怖いですわ」
膝の上の手が、握られていた。
「それでも、参ります。あの子を、置いてはおけません。……わたくしが、わたくしでいるために」
佳代子が、袖を下ろした。
「……エルちゃん」
「はい」
「必ず、帰ってきなさい」
命令だった。頼みでも、願いでもなかった。
「帰ってこないなら、行かせない。……帰ってくるなら、行っていい。それだけよ」
エルはその言葉の重さを受け取るのに、少し時間が要った。
「……努力、いたします」
「努力じゃ、だめ」
「……」
「帰ってきますって、言いなさい」
エルは、佳代子を見た。それから、父を、湊人を、順に見た。
誓ってはならない、と思った。誓えば、嘘になるかもしれない。あちらで何が待っているか、彼女自身、知らないのだから。
けれど。
誓わなければ、この人たちは、今夜、眠れない。
「……帰って、参ります」
エルは、そう言った。
言ってしまった。
その一言で、この家に、帰る場所ができた。帰らねばならない理由が、向こうと、こちらの、両方に、できてしまった。
味噌汁は、とっくに冷めていた。
それでも、四人は、それを飲んだ。誰も、味の話は、しなかった。




