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命という名の一番

明くる朝の、茶の間だった。

押し入れは、閉めてあった。閉めても、それが昨夜と同じ押し入れでないことを、この家の全員が知っていた。ヨハンは、今、その中にいる。畳の上ではなく、闇の側の、境のあたりに。あの老人は「では、境で待ちます」とだけ言って、身を退いた。

卓袱台に、四人が座っていた。

誰も、箸を取らなかった。味噌汁だけが、湯気を立てていた。

最初に口を開いたのは、エルだった。話を切り出す役目は自分にあると、彼女は思っていた。

「昨夜、ご覧になったとおりですわ」

三人が、顔を上げた。

「扉は、開きました。迎えも、参りました。……盆のあいだだけ、開いております。送り火が焚かれれば、また、閉じますわ」

「……いつ」と、父が言った。「いつ、行くつもりだ」

「送り火の、前に」

佳代子の手が、湯呑みの縁で止まった。

「向こうで、わたくしを待っている者がおります。名は、まだ、罪人のままです。……それを、晴らしに参ります」

「晴らしにって」と、湊人が言った。「その、宰相って人が、まだ、いるんですよね」

「おります」

「その人が、あんたを牢に入れて、殺そうとしたんですよね」

「ええ」

「じゃあ、帰ったら」

湊人はそこで、言葉を詰まらせた。詰まらせて、それから、絞り出すように言った。

「……また、同じことに、なるんじゃないんですか」

エルは、答えなかった。答えなかったことが、答えだった。

湯呑みの置かれる音が、鳴った。

佳代子が、置いたのだった。乱暴ではなかった。ただ、いつもより、硬い音だった。

「エルちゃん」

「はい」

「行かないで、とは、言わないつもりだったの」

佳代子の声は、震えていなかった。それが、かえって、恐ろしかった。

「昨日の夜、ずっと考えてた。あんたには、あんたの家がある。守りたい名前がある。待ってる子がいる。……止める権利なんて、こっちには無いって」

「……佳代子様」

「でもね」

佳代子が、顔を上げた。目が、赤かった。

「殺されに行くのを、見送る親が、どこにいるの」

茶の間が、静まり返った。

「あんた、さっき、なんて言った? また同じことになるんじゃないかって湊人に訊かれて、なんにも答えなかったでしょう。……答えられないってことは、そういうことでしょう」

「……」

「名前が大事なのは、分かる。誇りが大事なのも、分かった。この一年で、いやってほど分かった。……でもね、エルちゃん。命が、一番なのよ」

佳代子の声が、そこで、初めて崩れた。

「名前は、あとからでも、なんとかなる。……命は、ならないの」

「お母さんの言うとおりだ」

父だった。

この人が、こんなふうに話すのを、エルは、初めて聞いた。単身赴任の、盆と正月しか帰らない、口数の少ない人。去年の夏、玄関先で「いるか」と訊いただけの人。

「エルディアーナさん。俺は、あんたを一年、この家に置いた。……置いた以上、責任がある」

「そのようなご負担を、おかけするつもりは」

「負担の話は、してない」

父は味噌汁の椀を脇へ寄せた。

「うちの子が、死にに行くのを、黙って見送れるかって話だ」

うちの子、と、この人は言った。

その一言が、エルの背筋を、真っ直ぐに保っていた何かを、内側から押した。

「……わたくしは」

声が、掠れた。

「わたくしは、この家の子では、ございません」

「そりゃそうだ」と、父は言った。「戸籍もないしな。……それでも、うちの子だ。そう思ってる者が、ここに三人いる。あんたが違うと言っても、こっちの気持ちまでは、消せない」

エルは、何も言えなかった。

あちらでは、家名を汚したと言われた。娘であることを、剥がされた。

こちらでは、戸籍のない娘を、うちの子だと、言われている。

「行かせません」

湊人だった。

立ち上がっていた。拳を握っていた。昨夜、廊下で握ったのと、同じ拳だった。

「そんな、殺されるって分かってるところに、行かせるわけないでしょう」

「湊人様」

「俺が行きます」

空気が、止まった。

「あの押し入れ、開いてるんですよね。あの爺さんが、案内できるんですよね。だったら、俺も行きます。……エルディアーナさん一人で、行かせない」

「湊人様」

「向こうがどんなとこか知らないけど。相手が偉い奴だろうが、なんだろうが。俺は——」

その先の言葉を、湊人は、言い終えることができなかった。

「湊人。おやめなさい」

声が、鞭のように鳴った。

湊人が、口を閉じた。

二度目だった。この人が、様を落として、彼の名を呼んだのは。一度目は、彼が事なかれに逃げようとしたときだった。今度は、逆だった。彼が、行こうとしたときだった。

「河原の話を、覚えておいでですか」

エルの声は、静かだった。静かすぎた。

「勝てぬと知りながら、自転車で、突っ込んだ。……あなたは、それを、恥じておられなかった。わたくしも、恥じるべきとは、思いませんでした」

「じゃあ」

「けれど、あれは、河原ですわ」

エルは、立ち上がった。

「向こうは、河原では、ございません。あちらには、法がありません。少なくとも、わたくしのような者を守る法は。……剣を持った者が、身分のない異邦人を斬って、罪に問われぬ場所ですのよ」

「それでも」

「湊人様」

彼女は、彼の正面に立った。

「あなたが、あの門を潜れば。三日で、死にますわ」

断言だった。慰めも、比喩も、無かった。

「わたくしは、それを、見送れません」

「……あんたは」と、湊人が言った。声が、震えていた。「あんたは、それを、俺たちにさせるんですか」

エルの唇が、開いて、閉じた。

言葉が、無かった。

「掴みなさい」

しばらくして、エルが、そう言った。

「え」

「わたくしの、腕を。……力いっぱい、掴んでご覧なさい」

湊人は意味が分からないまま、その手首を掴んだ。掴んだ、と思った。

次の瞬間、湊人の視界が、天井になっていた。

背中が、畳に着いていた。何をされたのか、まったく分からなかった。痛みは、無かった。ただ、掴んだはずの手首が、いつのまにか、こちらの肘の内側を、押さえていた。

「……え」

湊人は天井を見たまま、間の抜けた声を出した。

「え、強っ……」

「クロイツェルの娘は、狙われる家の娘ですの」と、エルは、彼の腕を離しながら言った。「六つの頃から、仕込まれておりますわ。……人を投げるためではなく、逃げ延びるために」

エルは、彼を起こしてやった。

「わたくしは、訓練を受けております。あなたは、受けておられない。……そういう場所へ、行くのですわ」

湊人は畳に座り込んだまま、動かなかった。

それから、ぽつりと言った。

「……ずるい」

「ええ」

「そうやって、俺が、絶対に足手まといだって分からせて。……行かせないように、するんだ」

「ええ」

エルは、否定しなかった。

「それが、いちばん、確かですもの」

佳代子が、泣いていた。声を殺して、割烹着の袖で、目を押さえていた。

父は腕を組んだまま、天井を見ていた。

湊人は畳に座って、うつむいていた。

誰も、勝っていなかった。

エルはその三人の前に膝をついた。宮廷の作法ではなく、この家の畳の上に、ただ正座した。

「……申し訳、ございません」

「謝るな」と、父が言った。「謝られると、こっちが、引き下がるしかなくなる」

「では、謝りません」

エルは、顔を上げた。

「けれど、行きます」

三人が、彼女を見た。

「わたくしが、命より名を選ぶ女だから、では、ございません。……わたくしは、命が惜しゅうございます。処刑の前の夜に、あれほど怖かったのですもの。今も、怖いですわ」

膝の上の手が、握られていた。

「それでも、参ります。あの子を、置いてはおけません。……わたくしが、わたくしでいるために」

佳代子が、袖を下ろした。

「……エルちゃん」

「はい」

「必ず、帰ってきなさい」

命令だった。頼みでも、願いでもなかった。

「帰ってこないなら、行かせない。……帰ってくるなら、行っていい。それだけよ」

エルはその言葉の重さを受け取るのに、少し時間が要った。

「……努力、いたします」

「努力じゃ、だめ」

「……」

「帰ってきますって、言いなさい」

エルは、佳代子を見た。それから、父を、湊人を、順に見た。

誓ってはならない、と思った。誓えば、嘘になるかもしれない。あちらで何が待っているか、彼女自身、知らないのだから。

けれど。

誓わなければ、この人たちは、今夜、眠れない。

「……帰って、参ります」

エルは、そう言った。

言ってしまった。

その一言で、この家に、帰る場所ができた。帰らねばならない理由が、向こうと、こちらの、両方に、できてしまった。

味噌汁は、とっくに冷めていた。

それでも、四人は、それを飲んだ。誰も、味の話は、しなかった。

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