迎え火という名の手
八月の、十三日の夕方だった。
高瀬家の玄関先に、焙烙が出され、おがらが組まれた。去年と、同じ支度、同じ順序だった。ただ、去年とひとつだけ、違うことがあった。
今年は、家じゅうが、知っていた。
父が盆に合わせて、赴任先から帰っていた。革靴を脱ぎながら「ただいま」と言った、その声が、去年より静かだった。佳代子から、何か聞いたのだろう。湊人も、いつもより、口数が少なかった。
誰も、そのことには触れなかった。ただ、いつもの盆を、いつものように迎えようとしていた。
エルは迎え火の支度を手伝った。マッチの箱を、父に手渡す。「今年から、右」と父が言い、「存じております」とエルが言った。去年、覚えたことだった。
火が、点いた。
夕暮れの玄関先で、小さな炎が、ぱち、ぱちと爆ぜた。ご先祖様がこの火を目印に、帰ってくる。迎え火。此岸へ、迎える火。
エルは、その火を見ていた。
(去年、わたくしは、この火のあとの送り火で、誓いました。……いずれ、参ります、と)
去年は、報せる相手も、いなかった。今年は、家じゅうが、その誓いの意味を、知っている。
火は、まっすぐ夕方の空へ昇っていった。
*
その夜だった。
迎え火が消え、家が寝静まったあと、エルは、押し入れの襖の前に座っていた。
去年の盆に、この建具は、一度だけ鳴った。そして、この夏、また鳴った。けれど、どちらも、気配だけだった。寝ぼけて、寝返りを打つような、微かな軋みだけだった。
今夜は、違った。
——み、と。
いつもの、あの音だった。けれど、今夜は、そこで止まらなかった。
襖が、内側から押された。気配ではなく。軋みではなく。確かな力で、木と紙の建具が、指の幅だけ、開いた。
石の匂いが、流れ出した。冷たい、石の匂い。黴と、鉄錆の。今度は、一筋ではなかった。押し入れの闇の、その奥から、まっすぐ届いてきた。
エルは、動かなかった。息を、殺していた。
開いた隙間から——手が、伸びてきた。
*
皺の寄った、老いた手だった。
エルは、その手を知っていた。
いつか、闇の中で、彼女の背に触れた手だった。押したのか、引き戻そうとしたのか、ずっと分からなかった、あの手。……そして、それよりもっと昔に、幼いエルの手へ羽ペンを持たせ、初めて字が書けた日に、その頭を撫でてくれた、あの同じ手でもあった。
同じ、一人の手だった。
襖が、さらに開いた。
闇の中から、身をかがめて、一人の老人が、こちらへ出てきた。白髪の、痩せた老人だった。仕着せは埃と旅の汚れにまみれていた。胸に紋のあった場所だけが、四角く、色濃く残っていた。もう、どこの家のものでもない、仕着せだった。
老人は畳の上に、片膝をついた。そして、深く頭を垂れた。宮廷の作法だった。罪人にではなく、主に対する、礼だった。
「……お迎えに、あがりました」
声は、掠れていた。長く使っていなかった声のようだった。
エルは、その老人を見た。見て、分かった。あの夜、闇の中で背に触れたのは、突き落とす手ではなかった。掬い上げようとした、手だった。間に合わなかった、手だった。
(……あなただったのですね)
エルの唇が、ひとつの名を、かたちづくった。
「……ヨハン」
老人の、垂れた頭が、わずかに震えた。名を、呼ばれたことに。
「一年、かかりました」と、ヨハンは言った。頭を垂れたまま。「この扉を、探すのに。……この扉は、盆にしか、開きませぬ。それも、開くとは、限りませぬ」
どうやって探したのかも、その一年に何を賭けたのかも、老人は語らなかった。ただ、紋の消えた仕着せと、掠れた声と、痩せた背だけが、その値段を、代わりに語っていた。
*
「お嬢様の御名は」と、ヨハンは続けた。「まだ、晴れてはおりませぬ。……けれど、晴らせぬ、とは、決まっておりませぬ」
エルは、何も言えなかった。
一年以上、誰も、彼女を「お嬢様」とは呼ばなかった。罪人の令嬢を、忽然と消えた娘を、そう呼ぶ者は、いなかった。その呼び名をこの老人は、片膝をついて、当たり前のように差し出していた。
押し入れの奥の闇は、まだそこにあった。冷たい石の匂いも、牢の匂いも、消えてはいない。けれど、その闇の入り口に、片膝をつく、一人の味方が、いた。
エルは、開いた扉を見た。
この扉の向こうに、晴らすべき名がある。取り戻すべき、あの子がいる。……アニカが。
行かねばならない。
けれど。
エルは、扉に吸い寄せられなかった。立ち上がりも、しなかった。扉が開いたから、というだけでは、足が動かなかった。それは、扉が決めることでは、なかった。行くと決めるのは——わたくしだ。
「ヨハン」
「はい」
「少し、……待っていただけますか」
「幾らでも」と、老人は言った。「わたくしは、一年、待ちました。……あと一晩くらい、どうということも、ございません」
*
背後で、廊下の、板の軋む音がした。
エルが振り返ると、襖の細く開いた向こうに、父と、佳代子と、湊人が立っていた。
石の匂いに気づいたのか、冷たい隙間風に気づいたのか。あるいは、ただ、眠れずにいたのか。三人とも、寝間着のまま、廊下に立ち尽くしていた。
開いた押し入れ。見知らぬ老人。そして、この世のものでない石の匂いが、そこに流れ出していた。
エルが、これまで、言葉でしか話せなかったものが、今、そこに、現に、開いていた。
誰も、動かなかった。
佳代子が、口許に手を当てた。あの夜の茶の間で、そうしたように。今度は、声も立てなかった。
湊人は開いた扉と、老人と、エルを順に見た。それから、拳を握った。あの日、買い取り屋の前で握ったのと、同じ拳だった。
父は、何も言わなかった。
ただ、去年の夏、玄関先で「いるか」と訊いた、あの人が。今、その答えを連れ去りにくる扉を、まっすぐに見ていた。
迎え火は、ご先祖様を、此岸へ迎える火だった。
けれど今、同じ盆の火が照らしていたのは、エルを、彼岸へ帰す、その道だった。
誰も、まだ、何も言わなかった。言えば、崩れる、というふうに。
押し入れの闇は、開いたまま、静かにそこにあった。盆が明けるまでの、幾晩かを、数えるように。




