茶の間という名の雪冤
その夜、茶の間の灯りは、いつもどおり、あたたかかった。
夕餉は済んでいた。点けっぱなしのテレビが、低い音で、どこかの旅番組を流していた。水槽の中で、生還者が、水草の間を巡っていた。三本のポイの犠牲の上に生きている、あの出目金は、今夜も呑気だった。
佳代子が冷やした桃を剥いていた。湊人が一切れ、行儀悪くつまんだ。「行儀」と佳代子が言い、「はい」と湊人が言った。いつもの夜だった。
「そういえば、エルちゃん」
桃を剥く手を止めずに、佳代子が言った。
「秋になったらさ、衣替えしよっか。冬物、今年はちゃんと買お。去年は、間に合わせばっかりだったから」
「……はい。ぜひ」
「駅前のとこ、セールになったらね」
それだけだった。何気ない、ただの——盆の、向こう側の話だった。
盆までの日を、数えてきたのは、わたくしだけだった。この家は、盆の向こう側を数えていた。そこに、当たり前のように、わたくしの欄を置いて。
エルは、その光景を見ていた。
灯りのあたたかさも、桃の甘い匂いも、生還者の呑気な回遊も。この一年と少しで、あたりまえになった、この夜のぜんぶを。
そして、思った。
(……この人たちに、わたくしは、まだ、いちばん大事なことを話していない)
嘘は、ついていない。ただ、黙っていた。訊かれなかったから、ではない。この人たちが、一度も訊かなかったから。素性の知れぬ娘を、押し入れから出てきたというだけの娘を、この家は、一度も問い詰めなかった。
その優しさに甘えて、黙っていた。
もう、盆までは、十日を切っていた。
*
「佳代子様」
エルの声に、佳代子が、桃を剥く手を止めた。
「湊人様も。……聞いていただきたいお話が、ございますの」
その声の色がいつもと違うことに、二人とも、すぐに気づいた。湊人がテレビのリモコンに手を伸ばし、音を消した。
茶の間が、静かになった。
「ずっと、申し上げられなかったことです。……長くなります」
「いいわよ」と、佳代子が言った。桃の皿を、そっと脇へ寄せて。「聞くわ」
エルは膝の上で両手を重ねた。背筋はいつものとおりに伸ばそうとして、少しだけ伸びきらなかった。
「わたくしは、この国の人間では、ございません。……それは、もう、お察しかと存じます」
「まあ」と、湊人が言った。「なんとなくは」
「あちらで、わたくしは公爵家の娘でした。クロイツェル、と申します。エルディアーナ・フォン・クロイツェル。……それが、わたくしの、本当の名ですの」
佳代子は、何も言わなかった。ただ、まっすぐに、エルを見ていた。
「けれど、その名は、今、あちらで、罪人の名になっております」
*
「身に覚えのない罪を、着せられました」
エルは、淡々と言おうとした。淡々と言えなかった。
「わたくしは、やっておりません。ただの、一度も。……けれど、証は、握り潰されました。わたくしの言葉は、誰にも届きませんでした。公爵家の娘の言葉さえ、ですわ」
「……それで」と、佳代子が、静かに促した。
「牢に、入れられました。そして——」
エルは、一度、言葉を切った。
「処刑の、前の夜に。……気がついたら、この家の、押し入れの中に、おりましたの」
佳代子の手が、口許へ上がった。声は、立てなかった。ただ、その目が、みるみる濡れていった。
湊人は、動かなかった。膝の上で、拳を握っていた。
「どうやって、ここへ来たのか。それは、わたくしにも分かりません。調べても、分かりませんでした。……ただ、来てしまった。処刑の、前の夜に」
*
「わたくしを、陥れた人が、おります」
エルの声が、そこで、一段、低くなった。
「あちらで、いちばん、力のある方でした。……その方が、弱い者を踏みつける場に、わたくしは、口を出しました。衆目の中で。退きなさい、と。……ただ、それだけのことで」
湊人が、はっと顔を上げた。
「その方は、笑っておられました。口許だけで。目は、笑っておられなかった。そして、静かな声で——わたくしの、一生を、畳まれたのです」
エルは、そこで、また、言葉を切った。
次の一言を、口にするのに、息が要った。
「宰相、コンラート」
その名は、一年以上、誰にも言わなかった名だった。声に出せば、あの夜が、そのまま立ち上がる名だった。茶の間の、あたたかい灯りの下で、その名は、ひどく、場違いに響いた。
佳代子も、湊人も、その人を知らない。顔も、声も、知らない。それでも、二人には、分かった。エルが、その名を口にするのに、どれだけの、重さが要ったか。
——先日の。
と、湊人が思い当たった。
「……あの、買い取り屋の前で。エルディアーナさんが、急に、真っ白になった。あれ」
「ええ」と、エルは頷いた。「あの方を、思い出しておりました」
湊人は、それ以上言わなかった。ただ、握った拳の、その関節が、白かった。
*
「そして、もう一人」
エルの声が、初めて、揺れた。
「アニカ、と申します。……わたくしの侍女でした。同い年の。いちばん、近くにいた子です」
この名だけは、あの低い節に乗せて呼びたくなった。歌詞のない、同じところへ何度も戻る、あの節に。けれど、エルは、こらえた。
「……灯りを、返す子でしたの。夜、わたくしが手燭を二度掲げますと、厨の窓から、同じ高さの灯りが、二度。誰に教わったのでも、ございませんのに」
「罪人の令嬢が、忽然と、消えました。その夜、いちばん近くにいた者が、無事で済むはずが、ございません。……問われて、疑われて、あるいは」
あるいは、の先を、エルは言わなかった。
「わたくしが、消えたせいで。あの子は今、誰にもあやしてもらえない夜の中に、いるかもしれません。……わたくしの、せいで」
膝の上の両手が、少し震えていた。
「わたくしが、帰らねばならないのは。名を、取り戻すためだけでは、ございません。……あの子を、迎えに行くためですわ」
茶の間は、しんとしていた。生還者だけが、水草の間を、変わらず、巡っていた。
*
最初に動いたのは、佳代子だった。
剥きかけの桃も、濡れた頬も、そのままに。立ち上がって、卓袱台を回り込んで、エルの隣に、座り直した。そして、その震える両手の上に、自分の手を重ねた。
「……そんな重たいものを」
佳代子の声は、掠れていた。
「あんた、ずっと、一人で。この家で、笑いながら。ずっと」
「申し訳、ございません。……黙って、おりました」
「謝ることじゃ、ないでしょう」
佳代子はそれだけ言うと、エルの手を握った。強く。もう離さない、というふうに。
「エルちゃんは、エルちゃんよ」
それは、短い言葉だった。
「どこの、誰でも。何を、着せられてても。……この家の、エルちゃん。それだけは、あちらの誰にも、決めさせない」
あちらでは、その名が、罪人の名に落ちた。証は握り潰され、言葉は誰にも届かなかった。
こちらでは、同じ名が、いちばんあたたかい灯りの下で、両手ごと、握られていた。
エルはそれに応える言葉を探した。見つからなかった。かわりに、握られた手を、握り返した。それが、精一杯だった。
湊人はまだ何も言えずにいた。ただ、握っていた拳を、ゆっくりとほどいた。ほどいて、それから、ぼそりと言った。
「……盆に、帰るかもしれないって、ことですよね。その、扉が開いたら」
「……分かりません。開くとも、限りませんもの」
「でも、開いたら。行くんですよね。その、アニカのところへ」
エルは、答えなかった。答えは湊人にも分かっていた。
佳代子が、何か言いかけて——やめた。今夜、言うことでは、ない、というふうに。かわりに、握った手に、もう少しだけ力を込めた。
テレビは、消えたままだった。旅番組の、行った先も、分からないままだった。それで、じゅうぶんだった。
水槽の中で、生還者が、ひとつ、跳ねた。
盆までは、あと、十日を切っていた。父が、その盆に、帰ってくる。




