判子という名のお白洲
盆が近づくと、街に、見慣れぬ車が増えた。
黒い、大きな車だった。乗っているのはこの街の人間ではなかった。意向調査の紙が回ってから、そういう車が、シャッターの下りた区画を、検分して回るようになっていた。値踏みするような、緩やかな速さで。
その日、純喫茶ロマンの前に、その車が停まっていた。
スーツの男が、三人。真ん中の一人が書類挟みを開いていた。囲まれているのは乾物屋のご主人だった。この春、店を畳んだ、あの人だった。
「ですから、ね。難しい話は、抜きにして」
真ん中の男の声は、柔らかかった。柔らかすぎた。
「今日、この場で判子をいただけたら、上乗せします。明日になったら、この額は、出せません。……ご主人、お歳ですし。細かい字を、いちいち読むのも、大変でしょう。こちらで、ぜんぶ、いいようにしますから」
「……いや、しかし、その」
「判子だけ、ですよ。判子だけ」
乾物屋のご主人は書類の細かい字を、老眼鏡越しに睨んでいた。読もうとして、読みきれずに、萎れていく顔だった。三月ほど前、純喫茶ロマンの奥のテーブルで、一字ずつ、指で辿ったあの顔とは、逆向きの顔だった。
遠巻きに、人が集まり始めていた。八百屋のおばちゃんも、マスターも、店先から見ていた。誰も、前へは出なかった。相手が、この街の者ではなかったから。
*
湊人と並んで角を曲がってきたエルが、その場で足を止めた。
「エルディアーナさん。……あれ、やばい感じの」
「ええ」
エルは、動かなかった。しばらく、その輪を見ていた。囲む三人と、囲まれた一人と、遠巻きの人垣を。
彼女の正義感は、めったに動かない。町の作法の粗などでは、眉一つ動かさない。けれど、弱い立場の者の、その尊厳が、踏まれているとき。そのときだけ、この人は、動く。
エルの足が、動いた。
「エルディアーナさん」と、湊人が小さく言った。「あいつら、たぶん、堅気じゃ……」
「存じておりますわ」
彼女は、まっすぐ輪の中へ入っていった。背筋は、いつものとおり、伸びていた。
*
「お話し中、失礼いたします」
三人の男が、振り返った。エルはその誰にも正対しなかった。まず、乾物屋のご主人の、隣に立った。
「ご主人。……先だっては、交付金の字を、ご一緒いたしましたわね」
「あ、……ああ、あんた」
「あのとき、申しました。分からぬ言葉が来たら、そのたびにお問いなさい、と。……この紙も、同じですわ」
エルは書類挟みを見た。ただし、手には取らなかった。
「お読みになってから、お決めなさい。一字ずつで、よろしいのです。……日が暮れるまで、隣におりますわ」
「おい、あんた」と、真ん中の男が、笑顔のまま、割って入った。「悪いけど、話の途中でね。部外者は——」
「ええ。わたくしは、部外者ですわ」
エルはそこで初めて、その男を、まっすぐ見た。
「ですから、うかがいますの。……この方は、判子をお売りになるのではございませんでしょう。お読みになってから、お決めになる。それだけのこと。……それだけのことに、なぜ、そうお急がせになりますの」
男の笑顔が、一瞬止まった。
「日暮れまで待てば、額が下がる、と仰せでしたわね。……読ませたくないものを、急がせて、判を捺させる。……そういう作法を、この国では、なんと申しますの」
エルは声を荒げなかった。あざけりもしなかった。ただ、静かに問うた。問いを、遠巻きの人垣の、そのぜんぶに聞こえる声で。
柔らかい男が、答えを持っていないことが、その場の全員に、分かった。
*
男は、まだ笑っていた。けれど、その笑いは、もう、誰にも効かなくなっていた。
「……買い被りですよ。うちは、善意で」
「でしたら」
エルは、一歩、退いた。男の前から。
「善意でいらっしゃるなら、明日、また、いらしてくださいまし。字を読み終えたご主人が、それでもと仰るなら、そのときは、わたくしは、一言も申しません」
道を、譲る形だった。追い詰めもせず、恥もかかせず。ただ、退く場所を、こちらから、開けてやる。
男は、その、開いた道を、見た。
しばらくして、書類挟みを、ぱたりと閉じた。
「……また、うかがいます」
三人は黒い車に乗り、緩やかな速さで、去っていった。来たときと、同じ速さで。
誰も、勝ち鬨は上げなかった。乾物屋のご主人が、詰めていた息を、長く吐いた。それだけだった。
*
その、静まった拍だった。
エルはまだ輪の中央に立っていた。人垣の視線がぜんぶ、彼女に集まっていた。労いと、驚きと、少しの畏れとが、そこに混じっていた。
——あの時も。
と、彼女は、思った。
あの時も、こうして、一歩、前に出た。衆目の中で。囲まれた誰かの、隣に立って。
視界の色が、変わった。
いま自分に集まっている視線に、遠い、別の視線が、重なった。あの夜の、大広間の視線だった。囲まれていたのは、あのときも、彼女だった。そして、その視線の中には、憎悪だけが、混じっていた。
その中央に、目が、あった。
笑っていない目だった。口許は、たしかに、笑みの形をしていた。けれど、目だけが、笑っていなかった。
声が、した。柔らかい声だった。柔らかすぎる声だった。ついさっき、聞いたばかりの声と、同じ質だった。
——お美しい、正しさですこと。
その声は、荒らげられなかった。あざけりもしなかった。ただ、静かな声で、彼女の一生を、畳んだ。
——クロイツェルのお嬢様は。いつも、正しくていらっしゃる。
目が、顔になった。頬の線が、額が、削いだような輪郭が、そこに現れた。笑っていない目の、その持ち主の、顔の、ぜんぶが。
そして、名が。
——宰相。……コンラート。
名が、ひとりでに、置かれた。一年以上、口にしなかった名だった。口にすれば、あの夜が、そのまま立ち上がる名だった。
*
エルは、まばたきを、一つ、した。
純喫茶ロマンの前だった。夏の光が、戻っていた。黒い車は、もう、いなかった。
わたくしは、いま。
牢に入れられた、その原因を、ためらいもなく繰り返した。あの正しさを。あの一歩を。あれのために名を奪われ、家を汚され、処刑の前夜まで、行った。それを、知っていて。
それでも。
彼女は、退く気には、なれなかった。あのときも、いまも。もう一度あの夜に戻されるとしても、乾物屋のご主人の隣に、また、立つだろう。それだけは扉が開こうと閉じようと、関わりのないことだった。それは、わたくしが、決めることだった。
膝の裏が、少し笑っていた。気づかれない程度に。
「……エルディアーナさん?」
湊人が、隣に来ていた。
「顔、真っ白ですよ。……さっき、なんか、途中で、どっか行ってた」
「……いえ」
エルはいつもの背筋に戻ろうとした。戻りきれずに、半分だけ、戻った。
「少し、昔を思い出しましたの」
「昔」
「ええ。……よく似た笑い方をする人が、おりましたの。ずっと、昔」
湊人は、それ以上、訊かなかった。訊いてはいけない種類の「昔」だと、彼には分かった。ただ、いつもより半歩だけ、エルの隣に、近く立った。
エルは、それに、気づかないふりをした。
*
「——余計なことを、しやがって」
声のほうを見ると、源さんが、腕を組んで、道の向こうに立っていた。窯の様子を見に、通りかかったのだった。
「ああいう手合いは、後で、面倒になる。……覚えとけ」
「はい」
「筋は、悪くねえ。……けどな。無茶だ。相手を、選べ」
「……肝に、銘じますわ」
源さんはそれだけ言うと、ふん、と鼻を鳴らして、行ってしまった。本物とは、言わなかった。この人は、いつも、そこまでは、言わない。
乾物屋のご主人が書類の代わりに、皺だらけの手を、エルのほうへ、少しだけ差し出しかけて——やめて——結局、ぽつりと言った。
「……明日、来たら。あんた、いてくれるか」
「日が暮れるまで、隣におりますわ」
「日が暮れるまで、って」
「必要なら、朝まで」
乾物屋のご主人が、ふ、と笑った。あの春の日と、同じ、笑い方だった。
人垣がゆっくりとほどけていった。八百屋のおばちゃんが、「あんた、大根、持っていきな」と、押しつけがましく、袋を握らせた。マスターが、「コーヒー、冷たいの、飲んでけ」と、窓の中から言った。
この街は、彼女を、囲まなかった。
同じ一歩を、同じ衆目の中で、踏み出したのに。あちらでは、それが、牢だった。こちらでは、それが、大根と、冷たいコーヒーだった。
エルはそのことを、誰にも言わなかった。言えば、たぶん、膝が、もう一度、笑いそうだった。だから、言わなかった。
——いつか、話さねばならない。
この家の人たちに。あの夜のことを。宰相の名を。……アニカのことを。名を奪われた者が名を取り戻すには、いちばん大事な場所で、先に、話さねばならない。
けれど、それは、今日ではなかった。
今日は、大根と、冷たいコーヒーの日だった。
湊人が麦茶を買って、半分、エルに渡した。エルは、両手で受け取った。
「本来なら、侍女の仕事ですけれど」
「その台詞、麦茶にも、つくんですね」
「ええ。……この家の一員ですので」
夏の光が、じりじりとアスファルトを灼いていた。盆までは、あと、半月ほどになっていた。




