暦という名の刻限
七月の、いちばん暑い盛りだった。
図書館の、天文と暦の棚の前にエルはいた。膝の上に帳面を広げ、閉じた本の背を、指で一冊ずつ辿っていた。冷房の効いた館内は外の蝉の声を、遠くに追いやっていた。
湊人はその斜め後ろの椅子で、麦茶のペットボトルを、汗の浮いたまま持て余していた。
「エルディアーナさん。……もう二時間、ここにいますよ」
「二時間で足りると思うほうが、傲慢ですわ」
「何を、そんなに調べてるんです」
エルは帳面の頁を、湊人のほうへ向けた。細かな数字が几帳面な字で、隙間なく並んでいた。日付と、月の満ち欠けと、日の長さ。冬至から今日まで、一日も欠けずに。
「冬至から、数えておりますの。日の長さを。……月の、太りようを」
「冬至って、去年の?」
「ええ」
湊人はその頁をしばらく見ていた。半年以上、毎晩つけられた数字の列を。
「……これ、毎日?」
「怠けた日は、ございません」
エルは、なんでもないことのように、頁を戻した。
*
「この国の暦は、よくできておりますわ」
エルはまた一冊棚から抜いた。
「月の暦と、日の暦を、両方、無理なく畳んでおりますの。盆は、もとは月の暦の行事。それを、七月に据える土地と、八月に据える土地がある。……先祖を迎える夜を、どこに置くか。土地ごとに、違いますのね」
「へえ」
「この街は、八月。……ですから、あと、一月ほど」
湊人の、麦茶を持つ手が、止まった。
エルは湊人のほうを見なかった。棚の背表紙をまた指で辿りながら、言った。
「昨年、あの建具が鳴ったのも、盆の夜でしたわ。……偶然かもしれません。土地の言い伝えかもしれません。誰も、確かめた者はおりませんもの」
「……でも」
「ええ。……確かめようがないからこそ、数えるのですわ」
エルは帳面を閉じた。
「数えることは、できますの。あと何日で、その季節が来るのか。……けれど、数えたところで、あれが応えてくれるとは、限りません。暦は、扉の約束では、ございませんもの」
彼女はそこで、初めて湊人を見た。
「わたくしにできますのは、季節の来る日を、間違えないことだけ。……あとは、待つことですわ」
湊人は何か言おうとして、やめた。
窓の外で、蝉が、また鳴き始めていた。
*
その夜だった。
エルは自室の机で、帳面を写していた。図書館では書き写せなかった、月の出の時刻を、一段ずつ。シャンデリアの灯りが、頁の上で、少し傾いでいた。
窓は、開けてあった。夜になっても、風は、生ぬるかった。
筆を動かしながら、彼女は、いつからか、口の中で、低く何かを繰り返していた。
節だった。歌ではない。歌詞もない。ただ、同じところへ、何度も、何度も戻っていく。低く、低く、あやすためだけの——。
筆が、止まった。
エルは自分の口が、その節を辿っていたことに気づいた。
——アニカ。
名が、ひとりでに浮かんだ。同い年の、いちばん近くにいた侍女。怖がる幼い子を、いつもこの同じ節であやしていた、あの低い声。
わたくしは、いつのまに、あの子の節を、覚えていたのだろう。
あの子が、わたくしをあやしたのではない。わたくしが、あの子の節で、いま、自分をあやしていた。
エルは筆を置いた。
あの子は、今、誰にあやしてもらっているのだろう。罪人の令嬢が消えた夜、いちばん近くにいた者が。……わたくしのせいで。
机の上の帳面が、あと一月、と告げていた。
帰る季節は、近づいている。けれど、いちばん帰りたい理由は、その季節の向こうで、わたくしの手の届かないところにいる。
エルは、灯りをそのままにして、部屋を出た。
*
押し入れの襖の前に、彼女は、座った。
昨年の盆の夜も、こうして座った。あれから、この建具は、一度も鳴っていない。石の匂いも、一度もしなかった。夏が過ぎ、秋が来て、冬を数え、また夏が来た。ずっと静かなままだった。
良い一年だった、と思った。焼き芋の焼き方を覚え、暦を数え、この街の人を、一人ずつ知った。
(……この一年は)
思いかけた、その時。
——み、と。
音が、した。
風もないのに。誰も触れていないのに。木と紙の建具が、内側から押されたように、微かに軋んだ。
エルは、動かなかった。
ただ、匂いがした。
夏の畳の匂いに、ほんの一筋——冷たい、石の匂い。黴と、鉄錆の。一年、忘れていた。忘れたつもりでいた。かつて毎晩そこで眠っていた、あの牢の匂い。
昨年と、同じだった。
エルは音を立てずに襖ににじり寄った。手のひらを、襖に当てる。
建具は、もう、鳴らなかった。石の匂いも、気のせいだったように、夏の夜の匂いに戻っていった。
「……どなた、ですの」
昨年と、同じ問いだった。
答えは、なかった。それも、昨年と同じだった。
けれど、昨年とひとつだけ、違うことがあった。今のエルはこの季節に、これが鳴る理由を、半年かけて数えていた。だから、驚かなかった。
暦は、間違っていなかった。盆が近づき、境が薄れ、扉が、寝返りを打つように、寝ぼけて、鳴った。
(……覚めかけて、おられるのですね)
彼女は、手のひらを当てたまま、長いこと、そのままでいた。
覚めかけている。けれど、覚めるとは、限らない。昨年もこうして鳴り、そして、また眠った。この盆、本当に開くのか——それは、暦のどこにも、書いていなかった。誰にも、書けなかった。
彼女は、手のひらを、そっと離した。
遠くで、盆提灯を売り始めた店の、幟の音が、風にはたはたと鳴っていた。
*
翌朝の、台所だった。
佳代子が麦茶のポットを、冷蔵庫にしまいながら、ふと言った。
「エルちゃん。……昨日の夜、遅くまで、起きてた?」
「ええ。……暦を、写しておりましたの」
「そう」
佳代子は、それ以上、訊かなかった。かわりに、冷蔵庫の扉を閉めて、なんでもないことのように言った。
「今年もね、お盆、近いのよ。……迎え火、そろそろね」
エルは麦茶のコップを持つ手を一瞬止めた。
「……ええ」
それだけ、答えた。佳代子も、それだけで、話をしまった。この人は、いつも、聞きかけて、やめる。エルはその半歩を、ありがたく思った。
二階から、湊人が降りてきた。あくびをして、それから、机に置きっぱなしのエルの帳面を、目に留めた。
「エルディアーナさん。……昨日の、あと一月って」
「はい」
「盆が来たら、その、……」
湊人はそこで、言葉に詰まった。訊いていいのか、分からない、というふうだった。
エルはコップを置いて、まっすぐに彼を見た。
「湊人様」
「はい」
「わたくしは、いつか、帰らねばなりませんの」
「……知ってます。前に、聞きました」
「ええ。……あの時は、いつか、と申しました」
彼女は、一拍、置いた。
「今は、あと一月、と申せますわ」
湊人は、何も言えなかった。言葉が、見つからなかった。
エルはそれ以上は言わず、コップを流しに運び、丁寧に洗った。
「本来なら、侍女の仕事ですけれど」と、彼女は、蛇口の水を止めながら、いつもの一言を添えた。「……今は、この家の一員ですので」
その背中に、湊人は、何も返せなかった。
窓の外はもう、じりじりと暑くなり始めていた。
盆までは、あと一月。
扉は、また、眠っていた。けれど今年は、エルは、それがいつ寝返りを打つのか、知っていた。




