補償書類という名の手習い
純喫茶ロマンの、いちばん奥のテーブルに、書類が広げられていた。
補償の案内だった。細かい字が、隙間なく並んでいた。年寄りが三人、それを遠くから睨んでいた。老眼鏡越しに。
「……だめだ。何が書いてあるか、さっぱりだ」
その時、ベルが鳴った。
エルが、入ってきた。コートも脱がず、けれど奥へは進まず、入口で一度、足を止めた。
八百屋のおばちゃんが、その年寄りたちに、常連の顔で言った。優しい声だった。
「無理しなさんな。年寄りに、こんな細けえの、読めるわけないよ。判子ついて、もらうもんもらえば、それでいいんだから」
入口の、エルの足が、動いた。
*
「……分からないのでは、ございませんわ」
エルはまっすぐそのテーブルへ来た。
「分かるに値すると、誰も、あなた方を扱ってこなかった。ただ、それだけですの」
店が、しん、とした。
「エルディアーナさん」と、湊人が慌てて後ろから言った。「言い方。……今の、けっこうキツいですよ」
「本当のことですわ」
年寄りの一人——豆腐屋の隣で、乾物屋を畳んだばかりの、あの主人だった——が、しばらくエルを見て、それから、ぷっと噴き出した。
「……あんた、きっついな」
「————」
「けど、年寄り扱いは、してねえな。……久しぶりだよ、そういうの」
*
エルは椅子を引いて書類の前に座った。ただし、それを自分の側へは引き寄せなかった。
「わたくしは、代わりに読みません。施しは、いたしませんもの」
彼女は書類を主人の側へそっと押し戻した。
「お読みなさい。一字ずつで、よろしいのです。分からぬ言葉が来たら、そのたびにお問いなさい。……日が暮れるまで、隣におりますわ」
「日が暮れるまで、って」
「必要なら、朝まで」
乾物屋の主人は、老眼鏡をかけ直した。それから、いちばん上の一行を、指で追い始めた。
その指をエルは隣から見ていた。
一字を押さえ、口の中で確かめ、それから次へ。遅い指だった。急かしてはならない指だった。
——わたくしは、これを、誰から教わったのだったか。
答えは、すぐに出た。あの手だった。
あの手は、一度も急かさなかった。
エルは書類の上へ伸ばしかけた自分の手を膝へ戻した。
代わりに読まぬというのは、そういうことだった。
「……『こう、ふ、きん』?」
「交付金、ですわ。……お上から渡されるお金のことですの」
「なんだ。……金の話か。だったら、先にそう書きゃいい」
「ええ。本当に」
エルは、真面目な顔で頷いた。役所の文章への、静かな異議だった。
*
しばらく、一字ずつの、遅い読み合わせが続いた。残りの二人も、乾物屋の主人の指の先を、目で追っていた。
八百屋のおばちゃんが、それを後ろから覗いていた。だんだん、前のめりになっていた。
やがて、彼女が、小さく手を挙げた。
「……あのさ。あたしも、いい?」
「はい」
「その……あたしも、実は、読んでないんだよ。うちに来た書類。難しくて。……でも、『年寄りだから分からない』って言うのは、簡単だからさ。それにして、隠してた」
彼女はばつが悪そうに笑った。
「隠してたのは、あの人たちだけじゃ、なかったんだね。……あたしも、混ぜて」
「もちろんですわ」
エルは椅子を一つ詰めた。
輪が、一つ広がった。「無理しないで」と言った側の人が、いちばん熱心に、辞書を引き始めた。
*
窓の外が夕暮れになりかけていた。
乾物屋の主人が、ふと顔を上げた。
「……そういや、あんたも。最初、日本語、読めなかったろ。押し入れから出てきて」
「ええ」
「今、こんなに達者だ。……誰に、習った」
エルは、手を止めた。
それから、書類の細かい字に目を落としたまま、言った。
「……この街に。問い詰めもせず、幾度でも、付き合ってくださいましたの」
それ以上は、言わなかった。
言えば、たぶん、少し泣きそうだった。だから、言わなかった。
*
「さ。次の行ですわ」
エルは、また書類を指した。
「『げん、か、しょう、きゃく』?」
「減価償却。……これは、わたくしも、初めて見る言葉ですわ。一緒に、調べましょう」
「なんだ。あんたも、分からないのか」
「ええ。……ですから、一緒に参りましょう」
それから、エルは、後ろの席を振り返った。
「湊人様」
「……嫌な予感しかしないんですけど」
「この書類の中の、『再算定』ですとか、『特段の事情』ですとか。……ああいう言葉が、どちらに有利にできているのか。明日、学校の図書室で、お調べになって」
「なんで俺が」
「わたくしには、字は読めても、この国の決まりの側が、読めませんの。……この席で、それができそうなのは、あなただけですわ」
「…………」
湊人はしばらく黙って、それから、鞄から手帳を出した。さいさんてい、と書いた。書いてから、自分が断らなかったことに、気づいた。
乾物屋の主人がその手元を見て、にやりとした。
「……坊主も、混ざったな」
その夜、純喫茶ロマンの、いちばん奥のテーブルの灯りは、ずいぶん遅くまで消えなかった。




