十三話◇ 不穏の足音
聞きそびれた言葉
『わたしがいなくなっても――』
深々と突き刺さった言葉のナイフに、色々とぶちまけて泣いてしまったあの日から。
表面上は何も変わらないまま、僕たちの302号室での時間は少しずつ終わりに近づいていった。
「アシェルくん、本当にありがとう。多分、これでもう論文は完成なんだと思う」
「思う、ですか?」
凪いだ水面みたいな穏やかさで、ダリルさんが告げる。
その曖昧な言葉に小さな違和感を覚えて、僕はオウム返しのように問いかけていた。
「うん。きっとどこまで突き詰めてもこれ以上の結論は出ないけど、これって結局はイデア頼りでしょう?」
「……あ」
ダリルさんは、何かを咎めるわけではなく、事実を口にしただけだったけど。
僕はそれを聞いて言葉を失くしてしまった。
(実際に魔力漏れはイデアの外壁の損傷と連動していそうだから、その事象そのものの解決法は立証されたけど……僕が"イデアフィールド自体"の概念を確立しないと、ダリルさんの論文も完全な形では公表できないんだ……)
じわじわと血の気が引いていく感覚がしたけど、ダリルさんの声だけは遠のきかけた意識にもくっきりと響いた。
「だから、アシェルくんの『感情・イメージによる術式構築理論』に決着がついてからしか、最後の仕上げは出来ないと思う」
「ごっ、ごめんなさいっ……まさかそんなことになるなんて、考えが及びませんでしたっ……!」
座ったまま机に手をついて頭を下げると、ガチャンとカップとソーサーが揺れる音がした。
……中身がほとんど残っていなくてよかった。
謝罪しないといけないことが、増えるところだった。
「謝らないでよ、アシェルくん。大丈夫」
俯いた僕の視界に、ダリルさんのしなやかな指先が入り込む。
真実だけを語って冷静な温度を保っていたはずの彼の声は、いつの間にか、陽だまりのような柔らかさに戻っていた。
「でもっ……」
「あのね、今のままでもじゅうぶん卒論は通るから、本当に大丈夫なんだよ? それに、わたしはアシェルくんに感謝してるのに……責めるわけないでしょう?」
ダリルさんはそう言いながら、自身も身体を低く傾けて、僕の顔を覗き込む。
その瞳に宿る温かな光が、僕の強張った肩を少しずつ解いていった。
「ダリルさん……」
「だから、もう謝ったりしないで。無理に理論の完成を急ぐ必要もないし、無茶はしないでね……?」
言い聞かせるような優しい響き。
けれど、それは僕が一番守れそうにない約束だった。
「…………はい」
迷いを飲み込んで、僕は短く答える。
すると、ダリルさんはふっと目を細めて、独り言のように小さく笑った。
「本当に分かってるのかなぁ……」
「それは、どういう――」
問い返そうと顔を上げた。
けれど、言葉の先を紡ごうとした唇は、ダリルさんの吸い込まれそうに深い蜂蜜色を前にして、どんな音を乗せようとしたのか忘れてしまう。
「ふふっ、やっと顔を上げてくれたね。俯いてるのは、アシェルくんらしくないよ?」
上体を起こして微笑むダリルさんの束ねられた髪が、少し遅れてさらりと揺れた。
見惚れるところが多すぎて、呼吸の仕方を忘れそうになる。
「僕らしく、ないのは……よくない…………ですね。あれっ、僕は何を言ってるんだろう……?」
「あははっ、ほんとになに言ってるの? ……アシェルくんてば。こんなに大きくなったのに、面白くて可愛いままなんだから……」
「う……」
せっかく対等に近付いてきたかもと思えるようになってきた矢先。
また"弟分"のカテゴリに入ってしまう可能性が出てきて、僕は複雑な気持ちを抱えて呻き声を漏らした。
だけど――
こんな風に大きく口を開けて笑うダリルさんなんて滅多に見られないから。
(……可愛いはやっぱりイヤだけど…………たまになら、いいかな……)
笑いすぎて少し潤んだ目尻を、指先でそっと拭うダリルさん。
こんな無防備な姿を見せてくれるのも、僕のことを"可愛い"と思ってくれているからこそなのかもしれない。
前までならそれだけで満足していただろうけど、今は違う。
卒業という二文字が、音もなく足元から這い上がってくるような。
そんな焦燥が、今の充足感すら塗りつぶそうとしていた。
「……置いていかないでよ……」
漏れ出たのは、自分でも驚くほど縋るような声だった。
言葉にするつもりなんかなかったのに、僕はこのあとどうすればいいんだろう。
「ん? アシェルくん、いま何か言った?」
「っ、いえ……なにも。それよりダリルさん、泣くほどおかしかったですか……?」
幸いにもダリルさんには聞こえていなかったようで。
慌てて取り繕って、僕はわざと拗ねたような口調で誤魔化した。
「えっ、あ……ごめん。笑いすぎちゃったね」
「別にいいですけど……。ダリルさんって、意外と涙腺ゆるいですよね」
「え…………う……うん。そう、だね? そうかもしれない……」
ダリルさんが視線を泳がせる。
そのわずかな「間」に、彼が抱えている――僕の知らない何かの重みが混じった気がしたけれど。
僕はそれ以上踏み込む勇気を持てなくて、軽口で蓋をする。
「ふふ。涙もろいダリルさんも、可愛くて好きですよ」
「っ!? なっ、なに言ってるのアシェルくんっ!お…………上級生をからかうもんじゃありません……!」
ダリルさんは顔を真っ赤にして狼狽えながら、まるで小学校の先生のような口調で反論した。
「僕の成長」を見てくれているようで、その実、いまだに僕を「子供」としてしか見ていないかもしれない彼への、精一杯の意地だった。
「泣くほど笑われたお返しなので……許してください」
「…………それは、ごめん」
痛いところを突かれたみたいな顔をして、渋々謝罪を口にするダリルさん。
実は納得がいっていないのが丸分かりで、それなのにちゃんと律儀に謝ってくれるのがダリルさんらしくて……。
僕は自然と満面の笑みになって、とっておきのカードを切った。
「じゃあ、おあいこってことで、いいですか?」
「うーん。どっちもどっち……だったのかなぁ? いいよ。今回は、痛み分けで」
僕らはいったい何の勝負をしてるんだろう。
なんだかおかしくなって、二人で顔を見合わせて笑ってしまった。
さっき泣いたばかりなのに、またそんなに笑ったら涙が出てきちゃうんじゃないの?なんて思ったけど、今度は大丈夫そうだった。
(神様がいるのなら……。勝手にこんな世界に転生させて、ダリルさんと出会わせておいて……今さら引き離そうだなんて、意地が悪すぎるよ)
まさか、僕がダリルさんのことを『女神』だなんて言っていたから、本物の神様が怒ったんだろうか。
そんな有りもしない空想が広がり始めたとき、ダリルさんがふと真面目な顔になって、僕の目をじっと見つめた。
「あのね、アシェルくん。実はわたし、」
ガシャン――と。何かが割れる音が、壁越しに聞こえた。
ダリルさんと二人、咄嗟に音の方へと顔を向ける。
続いて何かの物音がしたかと思うと、バタンと強く扉が閉まる音が響いた。
「え…………今のって、隣の部屋から……」
「……っ、ちょっと見てきます!」
声を張りながら急いで部屋を飛び出したけれど、目に見える範囲には人影すらなくて。
静かな廊下には、誰かの走り去る足音だけが響いていた。
ドアを開いた体勢のまま立ち尽くしていた僕の隣に、いつの間にかダリルさんが立っていた。
「アシェルくん……。一度、部屋を確認してみた方が、いいかも……」
「そう…………です、ね」
心配そうな顔で、でも正しく僕を導いてくれる彼の言葉に、僕は茫然自失のままなんとか返事をする。
なにが起こったのか分からない不安を、何らかの確定事項にするために……。
僕は意を決して301号室の扉を開いた。
「……これは……」
部屋の中は、特に荒らされた様子ではなかったけど。
机に置かれた器具に固定していたはずのフラスコが、床に破片として散らばっていた。
認めたくなかったけれど、『何者かがこの研究室に侵入した』という可能性が、疑いようのない事実となってしまった。
いったい誰がだなんて、今さら言うつもりもない。
(そんなこと、決まり切ってる。レイナがついに…………また動いたんだ……)
「アシェルくん……大丈夫? ガラス、危ないね……。魔法で片付けちゃおうか」
「あ……はい、僕がやります……」
労わるように肩に置かれたダリルさんの手に、深く潜りそうだった意識を呼び戻される。
結局ダリルさんも手伝ってくれて、二人で破片の処理をしながら。
僕はまた、帰ったら三人にも今日の報告と相談をしなきゃと、ため息を飲み込んでいた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
(じれじれ警察のしわざでしょうか……?)
よければまたアシェルに会いに来てくださいね!
☆乙兄の更新は週2回(火・土 20:00)の予定です。




