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辺境領にある湖は透き通った緑色をしている。青と緑が重なったように見えるその色は、何度見ても美しい。
「綺麗ね、ニルヴェル」
「そうですね、ところでお嬢様、出立の準備はされたんですか」
ニルヴェルが手配した仕立て屋の仕立ては驚くほど早かった。ドレスを三着、用意するように伝えると、震えながら急ぎますと言ってくれて本当に急いでくれた。そのおかげで、私たちは明日の朝には辺境領を発つことができる。
「もう少しゆっくりでもよかったのに」
「いつまでもご厄介になるわけにはいきません」
「そうよね」
湖に来ることは城の誰にも知らせずに来た。知らせれば止めるだろうし、止まらないとわかれば大規模な護衛隊が編成されてしまうだろう。それでは意味がない。
午前に出発して、ずっとここで日向ぼっこをしているけれど、もうそろそろ帰らなくてはならない。自慢ではないけれど、明日の準備は一つもしてない。
「王家から催促の馬も来ました」
「それならお兄様が迎えにくればいいのよ」
そう言ってニルヴェルが用意してくれた果物を口に運ぶ。湖のそばの草原も気持ち良くて、寝転がるとニルヴェルに苦言を呈された。フィオレ様を湖に誘ったけれど断られてしまった。魔物が出るという話を聞いていたフィオレ様は、私に何か言いたげだったけれど結局何も言わなかった。フィオレ様の表情は注意深く観察していないとわかりづらい。
もう少し仲良くなりたかったな、と思っていると山の向こうに小さな影が見えた。
「ニルヴェル、来たわ」
立ち上がると、影はもうそこまで来ている。長く鋭い嘴、人間よりも余程大きな体を自由に操って、現れたのは危険だからと言われた魔物だった。ニルヴェルが下がるのを目で確認して護衛たちを置いてきてよかったと思った。護衛が来ていたら、警戒して姿を現さなかったかもしれない。
これをお肉屋さんに持っていって解体してもらい、内臓を売り飛ばしてお小遣いにしよう。ドレス三着分くらいにはなるはずだ。右手に力を込めると、視界の端で何かが動いた。あ、と思っているうちに体の方が先に反応して鳥の魔物に雷を落とす。見事命中、よくやった、と自分を褒める。
ほぼ同時に飛び込んできたフィオレ様が私のことを突き飛ばす。その必死な表情に全てを察することができた。
フィオレ様は私のことを決死の覚悟で助けに来たに違いない。だって彼女は私の魔力量を知らない。私の身体がぐらりと揺れて湖側に倒れていく。湖に落ちたらさすがに怒られるかな、と思った瞬間、私の手が湖とは逆側に引っ張られた。
「さすが」
私の手を引っ張ったのはノースで、変化が遅れたのか目が金色だった。四つ足で走ってきてくれたのだろう。息が上がっている。ノースは私のことを自分の背後に庇ってフィオレ様に対峙した。柄に手が掛かっていて、私はその手を思わず押さえた。誤解している。
「ご説明を」
ノースにそう言われたフィオレ様は何も言わない。ただ固まっているだけだ。必死の表情も今はもういつもの微笑みに変わっている。何も言わないフィオレ様のことをノースはじっと見つめている。フィオレ様の様子を見ていると、だんだん不安になってきた。助けようとしてくれたと思っていたけれど、私の都合の良い勘違いだったのでは。そう思って視線を下げると、フィオレ様の手が細かく震えているのが目に入ってきた。怖がっている。
「ノース、フィオレ様は私のことを何も知らないの」
ノースは私のことを見ることもしない。フィオレ様から視線を外さない。私はため息をついて、右手に力を込めた。
「フィオレ様、私、初夏に咲く黄色の花が大好きなんです。見ていて」
私の足元から黄色と白の花が咲き乱れていく。すぐに湖の周りを取り囲み、森の中まで花が咲き誇り始める。フィオレ様はその様子を目を見開いて何も言わずに見ていた。ノースが止めないことをいいことに、もっと魔力を込めようとして、ニルヴェルの表情が凍っていることに気づく。ニルヴェルは私が魔力を暴走させることを恐れている。私がここで魔力を暴走させてしまえば、あっという間に辺境伯の城は緑の草に覆われることになるだろう。そうしたら、私の力のことが諸侯に知られてしまうかもしれない。
それどころか、フィオレ様が悪意を持って私の力のことを喧伝するかもしれない。ニルヴェルはそこまで考えているのだろう。
「お嬢様」
静かな声に、右手に力を込めるのをやめた。幼少期は力が暴走して、何度も人を傷つけた。魔力のコントロールは私の最重要課題で、そして現在も未知数だ。私は私の力を思い切り使ったことがない。
「これは」
「今見たことは他言なさらないでください」
ノースがフィオレ様が話そうとしたのを遮ってそう言う。私の力のことは一部の貴族たちしか知らない。知らせたわけではない。私の力の暴走を間近で見てしまった者たちだ。ノースは私の力の暴走を知っている。
「初めて見ました。魔法が使える方はごくわずかでした」
「我が国にはまだ少し、魔法が使える者が生きています。私もその一人ですわ」
「美しい魔法ですね」
フィオレ様がそう言って微笑む。その微笑みは貼り付けたような笑みではなく、本物の微笑みのように思えた。初めて笑ってくれた。そして、フィオレ様の視線が地面に落ちる。何か言おうと視線を上げては下げるのを繰り返して、フィオレ様は諦めたようにいつもの笑みを貼り付けた。
「助けようとしてくれたのではないですか」
私がそう言うと、フィオレ様は驚いた顔をした。その表情に自分の予想があっていたことを確信して微笑む。ノースがその表情を見て柄にかけていた手を離す。私も自然とノースの手を押さえていた手を離した。フィオレ様が視線を下に向けたまま、静かに口を開く。
「何を言っても言い訳になると思いました」
その言い方が何もかもを諦めているように感じられて、私は思わず眉間に皺を寄せてしまう。何を言っても言い訳だと言われたことがあるのだろう。フィオレ様のいた環境はどのようなものだったのだろう。やはり、悪女というのは嘘なのではないか。彼女がそのような人物にはとても見えない。
「突き飛ばしたことは事実です。大変申し訳ありませんでした」
そう言ってフィオレ様が深く頭を下げる。それに近づいて、肩を持って頭を上げさせる。近くで見たフィオレ様は、銀糸の髪が美しく、そしてやはりとても細かった。
「謝罪する必要はございません。私の力を知らなかったのなら、殺されてしまうと思ったのではありませんか」
顔を上げたフィオレ様が何故か泣き出しそうな表情になった。銀糸の髪のみならず、美しい人。
「あなたは危険を顧みず、私のことを助けてくださいました。あの場にいれば、あなたが殺されたかもしれないのに。本当にありがとうございました」
そう言って私が微笑むと、フィオレ様の目に涙が浮かんだ。お礼ひとつで泣き出しそうになるなんて、かの国はどんな扱いをこの令嬢にしてきたのだろう。調べさせる必要がありそうだ。
そして、お兄様はやはりこの令嬢を深く愛するだろう。だって、お兄様は人のために自分を犠牲にしてしまう人間を本当に尊敬している。それは人間の行為において、もっとも美しいが残念な行いだと言っていた。
「さあ、城に帰りましょう」




