第三話 藍川秋冬伝記
「ただいま……」
灯りの点いていない家へ帰宅する。
両親は共働きだ。
いつものことだと分かっている。
それでも、ほんの少しだけ胸の奥が寂しくなった。
洗面所で手を洗い、うがいを済ませる。
鏡に映るのは、前髪を目元まで伸ばした地味な少女だった。中学時代から何も変わっていない自分。
(高校では変わろうと思ったのに……)
(また噛んじゃった)
昔から自己紹介が苦手だった。
人前に立つと頭が真っ白になる。
何を話せばいいのか分からなくなる。
そうして失敗して、気まずくなって、人と距離ができる。
いつも同じだった。
(みんな笑ってたな……)
悪意があったわけじゃない。
きっとただ面白かっただけだ。
それでも胸は痛かった。
中学の頃もそうだった。
失敗して笑われて。
距離ができて。
気付けば教室で居場所をなくしていた。
(私がもっとちゃんとしてれば違ったのかな……)
自室に戻ると、学校から配布された書類を鞄から取り出す。
その中でひときわ存在感を放っていたのが、『藍川秋冬伝記』だった。
「……何で私だけ三冊もあるんだろう」
藍川秋冬。
自分とは正反対の人間だ。
高校の入学式で新入生代表を務めるだけでも凄いのに、自分が美しすぎて泣き出してしまうほどの自己愛の持ち主。
真似はできない。
いや、正直したくもない。
それでも――。
人前で堂々と話せることは羨ましかった。
周囲の視線を気にしない強さも。
何より、自分を信じられることが。
(……変わりたい。私も)
高校では変わると決めた。
今日の自己紹介は失敗してしまったけれど、まだ始まったばかりだ。
もしかしたら、この伝記に何かヒントがあるかもしれない。
人前でも動じずに話せる秘訣。
周囲を気にせず自信を持つ方法。
そして――自分を好きになる。
阿井はずっしりとした伝記を手に取った。
紙質も装丁も妙に本格的だ。
少なくとも個人で適当に作った冊子には見えない。
出版社に依頼したのではないかと思うほど、無駄に金がかかっていた。
『第一章 誕生』
『その日、世界は祝福に包まれた』
(閉じよう)
ダメだ。
冒頭から難しすぎる。
入学試験で満点を取るような人間と自分とでは、きっと頭の構造そのものが違うのだろう。
「ま、まだ……」
「ここで逃げたら今までと変わらない」
阿井は勇気を振り絞り、もう一度伝記を開いた。
『生後三ヶ月にして自身の美しさを理解する』
(理解できるわけないよね⁉︎)
(というか、どうやって確認したの⁉︎)
生後三ヶ月の赤ん坊である。
まともに物も見えていないはずだ。
ましてや、自分の容姿について考えるなどあり得ない。
言葉すら話せない時期に、美しさを理解していたというのだから滅茶苦茶だった。
『生後六ヶ月』
『自らの美しさを理解した俺は鏡と対話を始めた』
(鏡と対話……?)
『一歳』
『保育園の先生が俺を見て泣いた』
(怖かったんじゃなくて?)
『クラスメイトたちは俺に嫉妬して泣いた』
(絶対怖かったんだよ!)
こんな保育園児は嫌すぎる。どこまでが妄想で、どこまでが真実なのか。
その後もページをめくっていくが、ろくなことが書かれていなかった。
『俺が美しすぎて学級閉鎖になる』
『他校の女子生徒がバレンタインデーに押しかける』
『芸能事務所が俺を獲得しようと躍起になる』
いっそのこと全て妄想であってほしいと思う。しかし、絶世の美男子であることは事実であり、内容にも妙な現実味があるため反応に困ってしまう。
自分のような地味な人間に話しかけてくることなどないだろうが、万が一クラスメイトに『藍川秋冬伝記』について話を振られても困る。最後まで目を通しておこう。友達を作るためのシミュレーションなら昔から得意だ。
なかなかの苦行だったが、ついに終盤である。自分で自分を褒めたくなる衝動に駆られるのは、この伝記の影響なのだろうか。
『俺は常に自分を信じている』
『何故なら俺が俺だからだ』
(少なくとも、自分を嫌い続けるよりは前を向いている)
最後の一文だけは、少しだけ心に響いた気がした。
****
「伝記は好評だったな。まさかA組全員が欲しがるほどとは」
藍川秋冬は満足そうに頷いた。
「もっとも、まさか大半が削除されるとは思わなかったが」
「二巻に向けて編集部とは一度話し合う必要がありそうだな」




