第十六話 守りたかったもの
完成は目前だった。
八枚目の原稿用紙を前に、阿井は何度も文章を読み返していた。
主人公の少女は旅人と出会った。村の外の景色を知った。知らなかった世界に憧れた。
そして今、少女は選ぼうとしている。ずっと閉じこもっていた村を出るのか。それとも今まで通りの日常を選ぶのか。
「もう少し……」
シャーペンを握る。
結末は決まっていた。最初から決まっていたはずなのに、最後の一文だけがどうしても書けない。
窓の外へ視線を向けた。
グラウンドでは運動部が練習している。
楽しそうな声。
吹き抜ける風。
いつもと変わらない放課後。
だけど阿井にとっては少しだけ特別な日だった。初めて書いた物語が、今まさに完成しようとしている。
それだけで景色は少し違って見えた。
「よし……」
小さく息を吐く。
少女は一歩を踏み出す。
ならば作者も最後まで書き切らなければならない。シャーペンの先が原稿用紙を走った。
——そして。
「や、やった……」
思わず声が漏れる。積み重ねてきたものが、ようやく形になった。傍から見れば小さな一歩かもしれない。
それでも阿井にとっては違う。
原稿用紙を前に立ち止まり続けていた自分が、ようやく辿り着いた場所だった。
原稿用紙八枚。
そこには阿井の字がびっしりと並んでいる。
他の誰でもない。阿井自身の言葉で綴られた、初めての物語だった。
(できた……)
教室を出た後も、阿井は何度も原稿用紙へ視線を落としていた。
八枚。決して長い物語ではない。
だけど阿井にとっては違う。
一行書くのに十分悩んだ日もあった。
三行しか進まず落ち込んだ日もあった。
消しゴムの跡だらけになった原稿用紙もある。
それでも最後まで書き切った。自分の力で。
「えへへ……」
思わず頬が緩む。誰かに見られたら恥ずかしいくらい嬉しかった。
このまま文芸部へ向かえばいい。そう思いながら歩いていたはずなのに、気付けば足は中庭へ向いていた。
放課後の校内は静かだった。運動部の掛け声だけが遠くから聞こえてくる。
阿井は木陰のベンチへ腰を下ろした。
「少しだけ……」
原稿用紙を膝の上へ広げる。
少しだけ読み返そう。初めて最後まで書き上げた物語なのだから。
ページをめくる。見慣れたはずの文字。自分で書いた文章。それなのに不思議な気分だった。
主人公の少女は旅人と出会う。
外の世界の話を聞く。
知らなかった景色を知る。
そして少しずつ変わっていく。
「……」
阿井は静かに続きを読んだ。そして最後のページへ辿り着く。
主人公が村の外へ踏み出すラスト。
自分のことのように嬉しくなる。
阿井が書いた作品は完璧じゃない。誤字もあるかもしれない。文章も拙い。……それでも。
(私、ちゃんと最後まで書けたんだ)
その事実が嬉しくて堪らない。これまで踏み出すことのできなかった一歩がやっと出たのだ。どんなに小さな一歩でも、それは確かに前進だった。
ベンチから立ち上がる。
物語の中で少女は村を出た。
ならば自分も進もう。
向かう先は文芸部だった。
——強い風が吹いた。
阿井が手にした原稿用紙がまとめて吹き飛ぶくらいに。
「ま、待って!」
幸いにも原稿用紙が散らばることはなかった。偶然こちらに向かって歩いてきていた女子生徒二人の元へ飛んでいく。
「あ、あのすみません!」
阿井の声が届いたからかは分からないが、女子生徒が原稿用紙を拾い上げる。危なかったと安堵する。
お礼を伝えようと駆け足で近付くが、こちらが名乗る前に呼ばれる名前。二人の女子生徒は同じ一年生だった。
「あれ、もしかして阿井さん?」
「うわぁ、気付かなかったよ地味すぎて。青葉高校にいたんだ。まっ、知ってるけど」
聞き覚えのある声だった。中学時代、阿井が最も苦手だった種類の人間。
****
教室から勢いよく飛び出していく阿井を、月城は偶然目にした。何かトラブルでもあったのかと思ったが、すぐに違うと分かる。
あの嬉しそうな横顔。最近の阿井を見ていれば理由は想像できた。ここ数日、阿井はずっと原稿用紙と向き合っていた。
休み時間も。
昼休みも。
放課後も。
観察を続けている月城でなくても、その変化には気付いているだろう。
文芸部の阿井が小説を書いている。今ではそれがA組の共通認識になっていた。
(完成したんだ……)
見せてもらったわけじゃない。
ほとんど話したこともない。
それでも月城は確信していた。
何枚書いたのかは知らない。内容だって知らない。けれど、あれだけ毎日頑張っていたのだ。
きっと最後まで書き切ったのだろう。そう思うと気になってしまう。
内容はどうなのか。
周囲はどんな反応をするのか。
そして書き上げた本人は、今どんな気持ちなのか。
気付けば月城は足を速めていた。
別に深い意味はない。本当に少しだけ気になっただけだ。
――そう自分に言い訳しながら、阿井の後を追う。
校舎を出ると、中庭の方に阿井の姿が見えた。
(あれ?)
文芸部へ向かうと思っていたのに途中で足を止めている。
木陰のベンチへ腰を下ろした阿井は、大切そうに原稿用紙を広げていた。
(読んでるんだ)
その表情を見て月城は少し驚く。宝物を眺める子供のような笑顔だった。
人気者になった時とも違う。
テストで良い点を取った時とも違う。
純粋に好きなことを最後までやり遂げた人間の顔。
――少しだけ羨ましいと思った。
その時だった。
強い風が吹いた。
バサッと音を立てて原稿用紙が宙へ舞う。
「ま、待って!」
阿井が慌てて立ち上がる。
飛ばされた原稿用紙は、中庭を歩いていた二人の女子生徒の足元へ落ちた。
女子生徒たちはそれを拾い上げる。
そして。
その顔を見た瞬間、月城は思わず眉をひそめた。
(うわ……)
懐かしくも嫌な感覚だった。
小学生の頃、自分をいじめていた子と同じ空気を感じる。
先生の前では良い子。
見えない場所でだけ人を傷付ける。
相手が反撃しないと分かれば、どこまでも調子に乗る。
そんな種類の人間。
だから月城は足を止めた。別に怖いわけではない。今の月城なら、あの頃とは違う。
やろうと思えばいくらでもやり返せる。
だからこそ冷静に様子を見る。
何かあればすぐ割って入れる距離を保ちながら。
「あれ、もしかして阿井さん?」
「うわぁ、気付かなかったよ地味すぎて。青葉高校にいたんだ。まっ、知ってるけど」
月城は確信した。
(あー……やっぱりそういうタイプか)
面白いおもちゃを見つけた子供のように笑っている。その笑顔の奥にある悪意だけが、はっきりと見えた。
一方の阿井は俯きがちに小さくなる。……少し前まであんなにも明るい笑顔だったのに。それをこのバカたちが曇らせた。
「地味子は高校でも変わらないねー」
「ウケる。鏡見たことないんじゃない」
「……」
ギャハハと下品な笑い声が誰もいない中庭に響く。陰湿な空気が漂っていた。
「そんな根暗で人生楽しいわけ?」
「私だったら恥ずかしくて学校来れないよ」
阿井を無視してベラベラと下品な会話を続ける二人。……何も知らないくせに勝手なことを言う。それが無性に腹立たしかった。
「それでぇ? この紙は何?」
「読書感想文? あれみたいでやな感じぃ」
阿井が一生懸命書いた原稿用紙を無造作に広げる二人。汚れていて汚いなど勝手なことを言っている。
「え〜と……ここは異世界のとある村」
「うわぁ、オタク全開じゃん」
外の世界を知らない内気な少女。毎日のように本を読んで過ごす少女が主人公の物語らしい……こんな形で知りたくなかった。
「これってもしかして阿井さんがモデル?」
「痛い痛い……自分を主人公に見立てて小説書いたの? それはキモいわ」
「ち、違う……」
反論しようとする阿井だが、いつも以上に萎縮してしまい声が出ていない。……もう止めたい。勝手なことを言う二人に制裁を与えたいが、今出て行っても解決には繋がらない。それがもどかしい。
「あのねぇ、阿井さん? 妄想ばかりしてないで現実を見なよ」
「マジそれな。隠キャが目立っても意味ないでしょ。普通にキモいから」
「……」
スマホでずっと撮影はしている。少しでも決定的なことがあればそれを証拠に使う……もちろんそれは最後の手段。どうやって口で負かしてやるか。頭の中には怒りが占める。
「てか、長いから。こんな読んでられない」
「はぁ〜、気分悪くなった。だから、ね?」
二人の表情が悪意で染まる。
阿井の努力の結晶、やっと踏み出せた一歩を二人は躊躇いもなく壊してしまう。
「あ⁉︎ 手が滑っちゃった〜」
——ポチャン。
濁った水面に原稿用紙が沈む。
八枚。
初めて最後まで書き切った物語。
阿井が何度も消して、何度も書き直した八枚だった。
中庭にある溜池……お世辞にも綺麗とは言えない池に女子生徒は原稿用紙を投げ捨ててしまう。
(あ、あいつら……!)
月城の怒りが漏れる前に先に動いていたのは阿井だった。躊躇することなく池に降りる阿井。見るからに汚れている池なのだ。靴はもちろん、膝下までが浸かって汚れる。
「ちょ⁉︎ 何やってんのこの子……」
「……いや、それはヤバいってキモすぎ」
自分が汚れることなどお構いなしに、投げ捨てられた原稿用紙を一枚一枚大切に拾う。全て回収して池から出てきた阿井は泥まみれだった。——原稿用紙はそれ以上に悲惨なことになっていた。
持っていたハンカチで慎重に原稿用紙をふくが、汚れが消えることはない。それどころか酷い物は水没の影響で破れてしまっている。
「私たちが悪いのこれ?」
「……何必死になってんの? だからオタクはキモいんだよ」
阿井は何も反論しない。ただ原稿用紙を少しでも綺麗にしようと必死になっていた。それが二人には面白くないのだろう。追撃が続く。
「てかさぁ、阿井さん最近調子に乗ってない?」
「本当それ。あのイケメンと一緒にいるからって勘違い? ウケるんだけど」
あのイケメン……間違いなく藍川だろう。
変人でヤバいエピソードも多いが、根本的な部分で言えば美少年そのものなのだ。女子はイケメンに弱い。そして近くにいる女子に嫉妬する。……この流れはまずい。
「アンタみたいな隠キャに誰も興味ないから」
「そうそう。気まぐれで構ってもらってること理解してる?」
阿井が少しでも水気を飛ばそうと広げていた原稿用紙。それをこの女は靴で踏みつける。
「や、やめて……」
「え? 何かな? 聞こえない」
グリグリと紙を踏む嫌な音が聞こえる。水で濡れていたのだ。原稿用紙は簡単に千切れてしまう。
(どうして反論しないの? いや、もうそれはいい。もう見てられない)
証拠は十分に押さえた。もういい逃れはできない。イタズラや嫌がらせの限度を超えている。これはもう犯罪だ。
出て行こうとする月城に気付かずまだ続ける二人。矛先はいつのまにか変わっていた。
「てかさ、あの藍川とか言う奴ヤバいっしょ」
「うん、あれはおかしい。狂ってるよ」
「…………」
阿井がピタリと止まる。
「顔しか取り柄のないやつに痛さがプラスされた感じ?」
「そう、それ! 自分の本配ったり、全ての部を体験するとかイカれてる」
「やめて……」
二人は藍川の悪口に夢中なのか阿井の変化に気付けない。それに気が付いたから月城の足は自然に止まっていた。
「てかさ、新入生代表挨拶のアレはもはや伝説! スマホで撮ってればよかった」
「バズること間違いなし!」
「もう、やめて……」
ずっと縮こまり俯いていた阿井。肉食獣にいいようにされていた小さなもの。——だがそれは間違いだった。
追い詰められた草食獣は時に肉食獣を凌駕する。
「やめてよ!!」
「「……」」
不快な囀りを遮るように少女の叫びがこだまする。
「私のことは、どれだけ悪く言ってもいいよ……」
「な、何なの?」
「急にキレたよこの子……」
それは明確な怒りだった。これまでの観察で一度も見たことのなかった怒り。大人しく、優しい普段の阿井とは異なる新たな一面だった。
「小説だって、また書けばいい……」
「時間はかかるかもしれないけど、また書けばいい……」
強く握る拳がプルプルと震えている。それは二人に対する恐怖ではなく、怒りである。
「でも……」
一瞬の静寂。世界から音が消えたかのように静まり返る。
——そして、一気に爆発する。
「藍川君のことだけは悪く言わないで!!」
鼓膜が破れるんじゃないかと思うくらいの声。それを近くで食らった二人は動揺を隠せない。
「藍川君は凄いんだよ! 優しいんだよ! 私みたいな地味な子にも対等に接してくれるんだよ!」
掴みかかるんじゃないかというくらい阿井は二人に迫る。反撃された経験がないのか口をぱくぱくさせるだけで言葉が出ていない。
「私を笑わなかった人なんだよ! 私の大事な友達なんだよ! 何も知らないくせに藍川君を否定しないで!」
叫びながら涙を流す阿井。決して素晴らしい場面ではない。胸糞悪いシーンであることに違いはない。ただ、今の阿井はとても綺麗に見えていた。
「な、何よ……」
「し、しらけたわ。も、もう行くから」
今度はいじめっ子が阿井にビビっていた。みっともなく尻尾を巻いて逃げ出すしかない。優しい阿井はこれ以上は追撃しないだろう。……でも、月城は違う。
敵対する相手は徹底的に打ちのめす。色々な手段を講じて確実に潰す。何故なら彼女たちは月城の青春に不要な存在だからだ。
(——絶対に許さないから)
スマホをしまい今度こそ出ていく。逃げるように早足で去ろうとする二人に声をかける。
——否、声をかけようとした。
月城よりも早く動いたのはいじめっ子二人でも、阿井でもなかった。
この場にいるはずのない、美少年だった。
「ふむ、これはどういう状況だ?」
藍川の視線が泥まみれの阿井へ向く。
次に千切れた原稿用紙。
最後に逃げようとしている二人。
「なるほど」
——小さく頷く。
月城は初めて見た。藍川秋冬から笑みが消えた瞬間を。




