第十話 最後の一球
――面白い。
真田は口元を吊り上げた。
野球を始めて十年以上。同世代に負けたくないと思った相手は何人もいた。だが、打席に立つだけで腹の底が熱くなる相手は初めてだった。
「もう手加減するつもりはない」
ボールを握り直す。
今度は遊びじゃない。
プロ注目だとか、一年生エース候補だとか。そんな評価はどうでもよかった。
目の前の男を打ち取る。
今はそれだけだ。
(悪いが勝ちに行かせてもらう)
真田はマスクを被る二年生――黒崎へサインを送る。
一瞬だけ驚いた表情を見せた黒崎だったが、すぐに真田の意図を察したのか力強くミットを構えた。
――内角高めのストレート。
手加減なしの全力投球。
(見せてやるよ。お望みの百四十キロを!)
先程までとは明らかに違う。大きく振りかぶり、脚を高く上げる。長身から投げ下ろされる剛速球。
真田直哉の本気が、今まさに解き放たれた。
コントロールに狂いはない。白球は黒崎のミットへ一直線に突き進む。
誰もがそう思った。
――次の瞬間までは。
カキィィン!!
乾いた快音がグラウンドに響き渡る。
「なっ――」
真田は目を見開いた。
打たれた。それだけではない。完璧に芯で捉えられていた。
内角高め。実力者でも差し込まれることの多い本気の速球。
それを藍川は迷いなく振り抜いた。
――まるで最初からそこへ来ると分かっていたかのように。
「おいおい、マジかよ……」
黒崎が呆けたように言葉を漏らす。
打球はまたしてもライト方向へ飛んでいた。
高く、高く舞い上がる。球場なら間違いなくスタンドイン。そんな一振りだった。
「あ、ありえない……」
相手は速球に強い打者だった。だから打てたに違いない。そう結論づける。
――でなければ、自分が積み上げてきたものが揺らいでしまう。
真田は黒崎へサインを要求した。
次はカーブ。連続したストレートの後だからこそ生きる一球だ。
速度差。落差。
高校生相手なら問題なく空振りを奪える。そう確信して投げ込む。
だが――。
カキィィン!!
再び快音が響いた。
「なっ……」
藍川は全く泳がされていなかった。
タイミングを外されることもなく、変化を見極めた上で振り抜いている。
打球は再びライト方向へ。またしても長打コースだった。
(こんなの……認められるか!)
歯を食いしばる。偶然じゃない。まぐれでもない。
それだけは嫌というほど分かっていた。だからこそ認めたくなかった。
真田は次のボールを握り締める。まだ終わっていない。十球勝負は、始まったばかりだ。
真田は投げ続けた。
ストレート。
カーブ。
スライダー。
フォーク。
持てる球種を次々と投じる。何年も続けてきた練習の成果。真田直哉の人生そのものである。
だが――。
カキィィン!!
快音だけが何度もグラウンドへ響いた。
誰も声を出せない。野球部員も。見学者たちも。
ただ打球の行方を目で追うことしかできなかった。
気付けば九球が終わっていた。結果は――九球連続ヒット。
いや。ヒットという表現すら生ぬるい。全てが長打だった。
(俺は野球だけを続けてきたんだ)
幼い頃から野球中心の生活だった。誰かに強制されたわけじゃない。周りに野球好きが多かったわけでもない。
自分で野球をやりたいと思い、自分の意思でここまで続けてきた。
(俺には野球しかないんだよ)
最初はキャッチボールすらまともにできなかった。ボールを投げるのも取るのも下手だった。肩は弱く、コントロールも悪い。フライは距離感が掴めず、ゴロは怖くて避けてしまう。
(野球しかなかったんだよ)
何度バットを振ってもボールは飛ばない。足も遅く、いつもビリだった。コーチや監督に叱られるのは日常茶飯事。ユニフォームをもらえず、ベンチの外から応援していたこともある。
――それでも辞めなかった。
野球が好きだったから。
ただ、それだけの理由で。
誰よりも投げた。
誰よりも走った。
誰よりも野球のことを考えた。
それだけが、真田直哉の誇りだった。
だからこそ。
たった今現れた男に、自分の全てを否定されるわけにはいかなかった。
(お前みたいなポッと出に負けるはずがないんだ……!)
真田はロージンバッグを強く握り締めた。もうサインは求めない。黒崎も理解しているのだろう。何も言わず静かにミットを構えた。
全てを懸ける。ただそれだけ。
「最後の一球だ」
「……」
藍川は何も答えない。
驕りはない。見下している様子もない。
ただ相変わらず綺麗なフォームで打席に立ち、静かに投球を待っていた。
ここまで何本も長打を放っているはずなのに、疲労の色はまるで見えない。
真田は深く息を吸った。
これが最後。
十年以上積み重ねてきた野球の全てを、この一球に込める。
プロ注目。
一年生エース候補。
そんな肩書きはどうでもいい。
証明したいのは一つだけだった。
自分が歩んできた道は間違っていなかったと。
「行くぞ」
大きく振りかぶる。脚を高く上げる。全身の力を連動させ、白球を解き放った。
今日最速。
真田直哉が十年以上積み重ねてきた全てを乗せた一球だった。
(俺が――ナンバーワンだあああ!)
――カキィィィン!!
誰よりも速く。
誰よりも重く。
誰よりも自信のあった一球。
それが打ち返される。
……いや。
打ち返されたなどという表現では足りなかった。
白球は一直線に空へ突き上がる。
グラウンドの誰もが見上げる。
そして――。




