第9話 元勇者は朝に弱い
目が覚めた時、最初に思ったのは腰が痛いということだった。ソファーでも寝られる。寝られるのだが、快適かどうかは別問題らしい。
「……いてて。慣れが必要だな」
軽く腰を押さえながら起き上がる。
昨日から母さんは俺の部屋で寝て、明日香は母さんの部屋で寝ている。急に始まった三人暮らしにしては、何とか形になっている方だと思う。
俺は顔を洗ってから、朝の支度を始めた。
炊飯器を確認して、味噌汁を温める。鮭と卵を焼き、作り置きのきんぴらを小皿に移す。ついでに洗濯機を回した後、流しに残っていたマグカップを洗う。
「伊吹ー、母さんもう行くからねー」
廊下から出勤用の服に着替えた母さんが顔を出す。
「朝飯は?」
「今日は職場で食べるから。それより、明日香ちゃんのことお願いね」
「わかってる」
答えるが、返事がない。
洗っていた鍋から視線を母さんに戻すと、なにやら安心したように頷いていた。
「なんの頷きだよ」
「頼りになるときの顔つきで安心したってだけ」
「どんな顔つきだ」
「そんな顔つき」
んなこと言われてもわかんないっての。鍋に付いた汚れと格闘してただけだ。
「昨日の夜、明日香ちゃんとベランダで話してたでしょ?」
「聞いてたのかよ」
「トイレに起きた時、見かけただけ。なに話してるかまでは聞こえなかったけど」
「別になんもない。寝つきが悪いって言ってたから、話し相手になっただけだ」
「ふ~ん。ならいいけど」
母さんは楽しそうに笑ってから、玄関へ向かう。
「明日香ちゃん、緊張してると思うから。頼んだわよ」
「わかってるって。母さんも気を付けろよ。ここのところ忙しそうだから」
「わかってる。じゃ、行ってきます」
「行ってらっさい」
玄関の扉が閉まり、家の中が静かになった。
慌ただしい母親だと思いつつも時計を見ると、まだ少し余裕はある。
昨日の夜、明日香は眠れないと言ってベランダに出ていた。慣れない場所で、慣れない布団で、慣れない平和な夜を過ごした。
少しぐらいの寝坊は許してやらないと可哀想だ。
そう思って朝食の準備を終わらせた。
白飯。味噌汁。卵焼き。焼き魚。ウィンナー。きんぴら。味のり。
朝から豪華というほどじゃないが、初登校の日に腹を空かせて行かせるわけにはいかない。明日香は昨日の様子を見る限り、飯を食べるとわかりやすく元気になるタイプだ。
つまり、食いしん坊。これだけあれば十分だろう。
適当にテレビを付けて起きて来るのを待つ……。が、予定の時間になっても明日香が起きてこない。
「まだ寝てるのか?」
もう五分待つ。物音はない。
さらに三分待つ。やっぱり何も聞こえない。
さすがに初日は早めに登校しておきたい。
俺は部屋の前まで行き、軽くノックした。
「明日香、起きてるか?」
返事はない。
「そろそろ起きないと予定の時間に出れないぞ」
やっぱり返事はない。
「入るぞ。いいか?」
数秒待つ。返事なし。
「入るからな。無言は肯定と受け取るからな」
念のため声をかけてから、そっと扉を開けた。
カーテンの隙間から朝の光が細く差し込んでいるだけで、部屋の中は薄暗い。
そんな中、明日香は俺のジャージを着たまま、布団をぎゅっと抱き込むようにして眠っていた。袖は少し余っていて、指先が半分隠れている。銀色の髪は枕の上に広がり、細い毛先が朝の光を受けて光っている。
頬を布団に押しつけて、少しだけ唇を緩めて、安心しきったみたいに眠っている。枕の端を指で掴んでいる姿は、勇者というより完全に寝ぼけた子供のようだ。
「勇者も寝てる時は無防備になるんだな」
思わず小声で呟いてしまう。が、悠長なことをしてる時間はない。
「明日香。朝だぞ」
「んっ」
小さく反応。ただ、それだけだ。
「起きろ。学校だ」
「あと、五分。せめて見張りの交代まで……」
「見張りはいらない」
「それじゃあ魔物は?」
「いないし出ない。少なくともこの世界じゃな」
「平和ってことね。安心した。じゃあ寝るわ……」
「寝るな。平和でも朝は起きるんだよ」
布団を引っぺがすも、明日香の力が強すぎて引き剥がせない。俺より小さいこの身体の、どこからそんな力が湧いて出るんだと不思議に思うほど力強い。
「起きろ明日香。もう朝だ」
「あと5分だけだから……」
ダメだ。想像以上に寝起きが悪いぞこの勇者。
「朝飯、冷めるぞ」
「ごはん?」
ぴくり、と明日香の眉が動いた。
「炊き立ての白飯と暖かい味噌汁。あま~い卵焼き」
「……たまご」
「焦げ目がついた焼き魚もある」
「……さかな」
目は閉じたままなのに、明らかに意識がこちらへ向き始めている。
寝起きが弱いのも食べ物に弱いのも。あまりにも弱点がわかりやすい勇者だ。
「早く起きないと食べないで出かけることになるぞ」
「それは嫌……。起きる、起きるわ」
明日香はゆっくりと上体を起こした。
だが、目は半分しか開いていない。銀色の髪はあちこち跳ねていて、頬には枕の跡がうっすらついている。ぼんやりした蒼い瞳で俺を見る姿は、昨日までの明日香とは別人だった。
「おはよう、伊吹くん……」
声はまだ完全に寝ている。うわごとだ。
「おはよう」
「魔王は?」
「いない」
「そう。なら平和ね……」
そう言って、明日香はまた布団へ倒れようとした。
「もういいって! それはさっきやったから!」
俺は慌てて明日香の手を取る。
小さくて、細い手。昨日の夜にも触れた手だ。剣を握っていた名残みたいな硬さはあるのに、今は力が抜けきっていて、握れば潰れてしまいそうになるほど。
「伊吹くん、朝から厳しい……」
「初登校から遅刻したら面倒なことになるぞ」
「勇者にも休息は必要だと思うの」
「勇者は今日から高校生になったんだよ。俺と同じ普通の学生だ」
「伊吹くんと同じ、普通の学生……」
抵抗が止んだところで、手を繋いだまま歩き出す。寝ぼけた明日香は、ほとんど足元を見ていなかった。俺が一歩進むと、明日香も一歩ついてくる。俺が止まると、明日香も遅れて止まる。
完全に親に手を引かれる子供のようだ。
「伊吹くん……」
「なんだ」
「手、あったかい……」
「いまそういうこと言わないでいいから」
いらん意識を割かせるな。俺だって恥ずかしいんだから。
明日香の手を引いて、洗面所まで辿り着く。
蛇口をひねって水を出してから。
「顔を洗って目を覚ませ」
「冷たいの?」
「目を覚ますには十分なほどにはな」
「そう……」
短い返事の後、明日香はきゅっと蛇口を止める。
「なんで止めた?」
「お水は貴重よ。出しっぱなしにしたらダメ」
「なんで俺が怒られる側になってんだよ……」
俺は小さく息を吐き、タオルを水で濡らして軽く絞った。
「明日香。こっち向け」
「ん?」
明日香がぼんやりと顔を上げる。
俺は濡れタオルを、そっと明日香の頬に当てた。
「ひゃ……」
小さな声が漏れる。
「冷たいか?」
「つめたい……」
「我慢しろ。顔拭かないと目が覚めないぞ」
そう言って、俺はできるだけ優しく頬を拭いた。
近くで見ると、明日香の肌は驚くほど綺麗だった。白くて、きめ細かくて、寝起きのせいか頬のあたりだけほんのり赤い。まつ毛は長く、伏せられた蒼い瞳が濡れた光を含んでいる。
普通に可愛い。
そんな気持ちを隣に置いて、俺は余計なことを考えないようにタオルを動かすことだけに集中する。
「目、閉じてろ」
「ん……」
明日香は言われた通りに目を閉じる。その素直さがまた危ない。寝ぼけているせいで警戒心が薄くなっているのか、完全に俺に任せきっている。
額、頬、口元の近くを避けながら顎のあたりまで拭いていく。
すると、明日香が少しだけ苦しそうに眉を寄せた。
「……ん、つめたい。もう、いい」
明日香は濡れた頬を少しだけ震わせて、恨めしそうにこちらを見る。しかしその顔も、寝起きで目元がとろんとしているせいで全然怖くない。むしろ、拭かれたばかりの頬がしっとりしていて、妙に幼く見える。
「伊吹くん。ひどい」
「起きない方が悪い」
「私は起きてる」
「起きてるやつは自分で顔を洗うんだよ」
俺は乾いたタオルで軽く水気を取ってから、明日香の手をもう一度取った。
「ほら。朝飯だ」
「……ごはん」
その単語に、また明日香の目が少しだけ開く。
まったく、早くしないと遅刻しちまうぞ、これじゃあ。




