第8話 小さい手
数分くらい経ち、呼吸もだいぶ落ち着いた頃に俺は起き上がった。
リビングは暗い。カーテンの隙間から外の灯りが差し込んでいて、それだけで物の形がうっすら見える。
ベランダの方へ目を向けると、そこに明日香がいた。
ガラス越しでもわかる。ぶかぶかのジャージ姿のまま手すりの近くに立って、夜の街をぼんやり眺めている。
寝られないのか。それとも、さっきの件で気持ちが落ち着かないのか。たぶん両方な気がするけど。
俺は静かに立ち上がって、ベランダの窓を少しだけ開けた。
「風邪ひくぞ」
声をかけると、明日香の肩が小さく揺れた。
けど、昼みたいに飛び上がったりはしない。
振り向いた顔は少しだけ驚いていて、それからすぐに困ったような笑みに変わる。
「起こしちゃった?」
「いや、寝返りをうったらソファーから落ちただけだ」
言いながらスリッパに履き替えてベランダに出ると、夜風が肌を撫でた。昼間よりずっと冷たい。だが、明日香のせいで火照った身体を冷やすには丁度いい。
「眠れないのか?」
肩を並べてから問いかける。
明日香は少しだけ考えるみたいに沈黙して、それから頷いた。
「眠れない……。そうね、そんな感じかも」
「曖昧だな」
「寝ようとすれば寝れるけど、落ち着かないの。寝ても身体を休められる気がしない」
「寝れば疲れは取れると思うけどな」
俺の単純な返事に、明日香は小さく笑った。
その笑い方は昼間みたいに柔らかくはない。
「ベッドが柔らかすぎるの」
「あっちじゃベッドを使ってなかったのか?」
「ええ。あと、静かすぎるし、戸締りもしっかりし過ぎてる。人の気配もないし、魔物も気配もない。……安全な場所って、逆に落ち着かないものね」
「なるほど。そういうパターンもあるのか」
納得の返事をするが、気持ちは理解できない。安全な場所は安心するだろ。と小学生並みの感想しか俺には持ち合わせていないのだ。
「向こうの夜は違ったのか」
「ええ」
明日香はベランダの手すりに触れながら、遠くに光る街灯を見つめる。
「夜って休む時間ではあったけど、同時に一番気を張る時間でもあったの。夜行性の魔物がいつも殺気を放ってるし、焚火の音が消えることはなかった。城の中だって絶対に安全とは言えなかったから」
「そうか。勇者って大変なんだな」
「勇者じゃなくても、向こうはだいたいそんな感じよ」
さらっと言うなよ、おっかない。どうやら厳しめの世界に行ってたみたいだな。
「じゃあ初めてみたいなもんか? 何も気にしなくていい夜は」
「今も気になる夜ではあるんだけど」
言いながら、明日香が横眼をこちらに寄こす。様子を窺うような目線。
「気になる夜とは?」
「……いえ。静かな夜もあったけど、久しぶりすぎちゃって。どうすればゆっくり休めるのか忘れちゃった」
明日香はそこで、自分の袖を少しだけ握った。
「いっぱい眠って、何事もなく一夜が明けたら、それはそれで、少し怖いの」
その言葉は小さかった。泣きそうとか、震えてるとか、そういうのじゃない。ただ、ぽつんと置かれた本音みたいな声。
「怖い、か」
何事もないならそれでよくない? とか言ったらデリカシーがない男になるんだろうな。俺にはわからんが。
やっぱり明日香は異世界帰りなのか、俺とはかなり過ごしてきた環境が違うらしい。
明日香は小さく頷いて、少しだけ笑う。
「変でしょう?」
「驚くほどでもないけどな」
俺は部屋で寝ているであろう母さんの方を見る。
「環境の違いってやつだろ。明日香から見たら俺は変だし。俺から見たら明日香は変だし。なんなら明日香より母さんのほうがよっぽど変人だ」
言ってから、少し偉そうだったかと思った。どこから目線で語ってんだと自分で思う。
明日香はすぐには否定しなかった。むしろ、言葉の意味を理解するように黙ってから、柔らかく笑う。
「ありがとう」
「お礼の意味がわからん」
「異世界から帰って来たって私の話、信じてくれてるんだって、そう思ったから」
「……まあ。異世界だどうだかは正直わからんないけど、日本にはいなかったって思ってるよ」
夜風がまた吹く。明日香の銀髪がふわりと揺れて、ジャージの袖も少し膨らんだ。こんなふうに静かにしていると、昼間のあれこれが嘘みたいだ。
明日香はしばらく黙ったまま、夜風に揺れる前髪を指先でそっと押さえていた。それから、何かを迷うように一度だけ目を伏せて、ふいにこちらを見る。
「……伊吹くん」
「ん?」
「ひとつ、お願いしてもいい?」
妙に改まった言い方が少し引っ掛かる。
「内容による」
「それは、そうよね」
明日香は頷いて、それでも視線は逸らさなかった。ただ、真っ直ぐ見ているわりに指先だけが落ち着かないみたいに、ジャージの袖口をそっと摘まんでいる。
「伊吹くんに、触ってもいい?」
「……はぁ?」
思わず間の抜けた声が出た。
「いったん理由を聞く」
何事においても否定はよくないからな。まずは理由を聞かないと。
「まだ、たまに思うの。こっちに戻ってきたことが本当は夢なんじゃないかって」
その声は小さかった。けれど、静かな夜だとそのくらいの方が妙にはっきり聞こえる。
「ご飯を食べた時も、お風呂に入った時も、髪を乾かしてもらった時も、いつも思うの。今はただ長い夢を見ているだけで、目を覚ましたらまた、向こうの世界に戻ってるんじゃないかって」
「それで、触るのか」
明日香は頷く。
「ちゃんと触って、確かめたいの。伊吹くんが本当にここにいるって」
なるほど……。なのか? あれだよな。夢かどうかを頬をつねって確かめるっていうあれ。
でもそれだったら自分で確かめた方がよくない? とも思うが、アニメのキャラとかもよく自分じゃなくて、相手の頬を抓ったりしてるか?
「ダメ?」
朱色に染まる頬に、不安そうにこちらを見つめる上目遣い。夜中に女の子から、そんな寂しそうな瞳でそんなことを言われたら、さすがに断りにくい。
ここで茶化すのも違う気がした。
「少しだけなら」
できるだけ平然とした声でそう言って、俺は両手を前に出した。
「ほら」
明日香は俺の様子を窺い見た後、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。それから、確かめるみたいに一歩近づいてくる。
すぐには触れない。指先がわずかに迷って、空中で一度止まる。そのあと、遠慮がちに俺の手へ自分の手を重ねた。
……小さい。指も細いし、手のひらだって同年代の女子にしては少し華奢なくらいだ。けど、柔らかいだけじゃない。
握られた瞬間にわかる。薄く、でも確かに残っている硬さがある。指の付け根や掌の一部に、何度も何かを握ってきた跡みたいなものがあった。
異世界帰りの勇者。
剣。そういう単語が、自然に頭に浮かんだ。
明日香は黙ったまま、俺の手を両手で包むように触れている。掌の輪郭を確かめるみたいに、そっと親指が動く。
変にいやらしい感じはない。ただ本当に、「いる」と確認しているだけだった。
「そろそろいいか?」
沈黙に耐えきれずに聞くと、明日香はようやく顔を上げた。
さっきより表情がやわらいでいる。その目元に、ようやく安心した色が浮かんでいた。
「大丈夫みたい」
「何が」
「ちゃんと伊吹くんはここにいるって、改めて実感できた」
そう言って、明日香は小さく頷いた。それから、照れたように目を逸らす。
「ありがとう。……これで、安心できたから」
名残惜しそうにではなく、本当に納得したように手を離す。指先が離れる瞬間だけ、ほんの少しだけ惜しむみたいに動きがゆっくりだった気がした。
「確認できたなら、もう寝るか?」
「ええ。今なら眠れそうだから」
「ならよかったよ」
そこで終わってもよかった。ただ、何となく、そのまま部屋に戻らせるのも落ち着かなかった。
だから、少しだけ言葉を付けたす。
「また何かあったら言えよ。眠れないとか、困ったとか、そういうの」
「でも、迷惑でしょう?」
振り返った明日香の表情は、申し訳なさそうというより、遠慮が先に立っている感じだった。人に頼ること自体がまだ上手くないような。
学校でもそういう奴を何人か見て来たから、それはわかる。
だから俺は先生にいつも――なんて、今はいいか。
「ストレスが溜まっ暴れられた方がヤバそうだからな。たぶん止めようとしても、俺が負けるだろうし」
「そうね。伊吹くんには喧嘩しても負けないと思う」
いや自信満々でそんなこと言うなよ。男として悲しくなるわ。
「瞬殺できるわ」
恐ろしいこと付け足してこなくていいから。
「だから、何かあったら相談してくれ。話しぐらいは聞くから」
そう伝えると、明日香はしばらく俺を見ていた。そして、ただ静かに頷いた。
「わかった。困ったら相談させてもらうわ」
部屋へ戻る前に、明日香はもう一度だけ振り向く。その時、夜風に揺れた銀髪を押さえる仕草が妙にぎこちなくて、でも本人はそれに気づいていないみたいだった。
「ありがとう。おやすみなさい、伊吹くん」
「おやすみ、明日香」
扉が静かに閉まる。ベランダに夜風だけが残る。
すぐに中へ戻ってもよかったけど、俺はしばらくそのまま立っていた。
さっき触れた手の感触が、まだ少し残っている気がする。
小さくて、細くて、でもただの女の子の手じゃなかった。
「丸太でも振り回してたのか? なんて言ったら怒られるのかな」
誰に聞かせるでもなく呟く。異世界帰りだの勇者だの、まだ全部をそのまま信じきれたわけじゃない。でも、少なくとも、明日香が俺の知らない場所で、俺の知らない時間を生きてきたことだけはわかった気がした。
夜風がまた吹く。
少し冷えた手をポケットに突っ込んで、俺はようやくリビングへ戻った。




