第7話 彼女の悪戯
俺は大抵の場所なら普通に寝られる。授業中も寝られるし、集会の時も胡坐をかきなら寝られる。電車でも寝られるし、屋外の芝生でも寝られる。
だが、今日ばっかりは自宅のソファーでも寝つきが悪かった。
眠れないわけじゃない。ただ、深くは眠れない。寝返りを打つたびに目が覚めかける。
「……伊吹くん」
そのせいか、名前を呼ばれた気がした。半分夢の中みたいな意識で、明日香の声だとぼんやり思う。今日一日、あれだけ名前を呼ばれたから夢に出て来てもおかしくはないか。
「伊吹くん。寝てる?」
また呼ばれた。今度は少しだけ近い。
「い~ぶきくん♪」
そのあと、つん、と頬を指で突かれる。
「っ」
夢ではありえない感触。あまりにもそれがはっきりしていて、一瞬で現実に引き戻された。目を閉じたままでもわかる、これ夢じゃない。たぶん明日香が寝ていると思って名前を呼んで、頬を突いたと言う現実。
「伊吹く~ん♪」
甘い呼びかけに返事をするわけにはいかない。
こんな夜中に明日香が寝ている俺の名前を呼びながら頬を突いてきた。
彼女がどういうつもりか知らないが、ここで起きたら面倒なことになる。たぶん明日香がパニックになって一悶着といったところだ。隣人から騒音の苦情を入れらるほど騒ぐだろう。
だから俺は寝たふりを続けた。起きてませんよ、という顔で、呼吸もできるだけ一定に保つ。
すると、すぐ近くで小さく息を吐く音がした。
「ほんとに寝てる」
起きてるけどな。
「伊吹くん、寝てると意外と子供っぽいかも」
んなことないだろ。子供っぽいって言われたことないぞ。
「ちょっと可愛い」
可愛い訳あるか。学校では可愛げがないひねくれ者をを売りにしてるからな。
「急に帰ってきた私のこと、嫌な顔もしないで世話してくれて。ご飯まで作ってくれて、髪も乾かしてくれて……。起きてるとしっかりしてるのに」
そりゃ起きてる時に比べたら寝てる時は無防備だろうが。
「本当に、伊吹くんが伊吹くんのままででよかった」
……勘弁してくれ。しっとした声でそんなこと言われると、胸のあたりがむず痒くなる。
「やっぱり、頼りになるんだね」
頬にまた指先が触れた。さっきより優しくて、今度は突くというより、確かめるみたいに頬がなぞられる。
「嬉しいな」
……無理! 痒い痒い痒い痒い! 痒過ぎて目を閉じてるのが限界! これ以上これを聞かされるのはこっちの心臓がもたない! 目がピクピクしちゃう!
俺はわざと寝返りを打って、ついでに寝言みたいな声を漏らしておく。
「んがぁ……」
「ひゃっ」
小さく息を呑む音。そのあと、気配が一瞬で消えた。そこにいるはずなのに、何も感じられない。
それも異世界とやらで身に着けた技術か? と思わず聞きたくなる。
数秒の沈黙のあと、気配がそっと遠ざかった。小さい足音が離れていき、ベランダの窓が開く音が小さく響く。
ようやく俺は薄く目を開けて、天井を見上げた。
「……ふぅ。疲れた」
小声の呟きに、もちろん誰も答えない。
胸の鼓動がまだ少しだけ速い。
落ち着け、と自分に言い聞かせて、しばらくそのまま目を閉じる。さっき聞いた明日香の独り言を思い出しそうになるたびに、意識して何も考えないようにした。




