第27話 パラレルワールド
カフェを出た頃には、駅前の空気はすっかり夜に近づいていた。
店の明かり。行き交う人の声。道の向こうを走るバスの音。
明日香は新しい体育館シューズの入った袋を大事そうに持って歩いている。その表情は穏やかで、カフェの出来事を思い出しているかのようだ。
「楽しそうだな」
「ええ。楽しかったもの」
「そりゃよかった。あんまりはしゃぐなよ、転んで怪我されたら困る」
「大丈夫よ。転んだぐらいで怪我をするほど軟じゃないもの」
そりゃそうか。なんなら俺の方が気を付けないといけないな。
肩を並べて駅前の人混みを抜けていると。
「あっ……」
小さい声。それと同時に明日香のの足がほんの少しだけ遅くなった。
「どうした?」
すぐに声をかけると、明日香は前方を真っ直ぐ見続けていた。その視線の先にはなにもない。まるで、何かから視線を逸らす為に、呆然と前を見ているような感じだ。
「今の人。知ってる?」
「今の人ってどの人だよ」
駅前にはまだ人混みが凄く、明日香が誰のことを言っているのかわからない。
「すれ違った男の人」
「わからないって。明日香の知り合いか?」
「いえ、知り合いというほどの仲ではないし」
明日香は首を横に振る。
「この世界では喋ったこともないわ」
「この世界?」
問い返すと、明日香は困ったように眉を下げた。さっきまで守護結界だの甘味の塔だのと言っていた顔ではない。考え込んでいる時の顔だ。
「……この先に公園があるからちょっと寄ってくか」
「えっ? でも」
「腹いっぱいくったからな。いきなり歩いて腹が痛い。少し消化を待とう」
「そう、そうね」
明日香は小さく頷いた。
公園には誰もいなかった。
住宅街の端にある小さな公園。滑り台とブランコ、古いベンチがあるだけ。街灯の光が薄く地面を照らしていて、昼間より静かに見える。
ベンチに並んで座る。
明日香は膝の上に靴の袋を置き、その持ち手を軽く握っていた。
「で。なんかあったのか?」
明日香が微かに目を伏せる。それから、ゆっくりと口を開いた。
「今日、街で色んな人を見て気付いたの。見覚えがある顔は相沢さんだけじゃないって」
その言葉に、俺は首を傾げる。
「見覚えがあるって。相沢以外にもあっちの世界で見たことある奴がいるってことか?」
「ええ。学校にはあまりいなかったからたまたまだと思ってた。相沢さんと、あとは先生の中に似ている人がいるくらい」
「先生?」
「数学の先生よ。顔立ちとか、声の感じとか。完全に一緒ってわけではないけど、向こうにいた人に似てる」
明日香は言葉を選びながら続ける。
「最初はただの偶然だと思っていたわ。似ている人なんてよくいるでしょう?」
「まあいるな」
「だから私も似ているな、としか思っていなかった。けど、街を歩いた時に何度か思ったの。あの人とは喋った事がある。あの人とは一緒に戦ったことがある。それも、見ただけですぐに気付いた。あっちの世界で出会った、あの人だって」
夜風が吹く。明日香の銀色の髪が、少しだけ揺れた。
「そんな気付けるものなのか? さっき足を止めたのだって、一瞬すれ違っただけだろ?」
「私は民の顔をなるべく覚えるようにしていたの。助けを求めていた人。道を教えてくれた人。避難所で泣いていた子。食べ物を分けてくれた人。怪我をして、それでも笑って送り出してくれた人」
「ひとりひとりをはっきりとか?」
「みんなじゃないわ。けど、忘れないようにはしていたの」
明日香は真っ直ぐ前を見た。
「勇者と呼ばれていたからこそ、守る相手の事を、知っておきたかったのよ」
その言葉に、少しだけ返事が遅れた。
白銀の勇者。明日香は向こうでそう呼ばれていたと言っていた。
俺からすると、朝起きられなくて、パフェを塔扱いして、体育で靴を壊すやつだ。でも、向こうでは人々の前に立つ存在だったのかも知れない。
「覚えている人なら、少し顔を見ればわかるの。あの人と同じだって」
「相沢と会った時と同じ感じになるのか」
「ええ」
明日香は頷いた。
「自分でもよくわからないけど、そのういう人を見ると『あっ』って身体が反応するのよ。その後、あっちの世界で会った人の顔が浮かんでくる。本当に不思議だけどね」
そこで明日香は、少し不安そうにこちらを見る。
「伊吹くん。私がいた場所は、本当に異世界だと思う?」
「いきなりだな」
「そうね。けど、たまたまでは済ませないぐらい似ている人を今日だけで何人も見たわ。あっちの世界にいた時は、こんなことはなかった」
……似ている人、ね。
俺も数十年生きてはいるが、自分とそっくりな人、友達と似ている人とは出会ったことがない。テレビでそっくりささん特集を見たことがある程度だ。
街ですれ違っただけ。
それだけで『あの人に似てる』となったことはない。
明日香がいた異世界。
魔物がいて、魔法があって、勇者がいて、魔王がいた世界。
母さんから聞いた話だ。普通に考えれば異世界でいい。
けど、相沢に似たレイナがいた。街の中にも、明日香が見覚えを感じる顔がいる。教師にも似ている人がいる。
完全に別の世界というには、妙に近いようにも聞こえる。
「……それなら、パラレルワールドってやつかもな」
「ぱられる、わーるど?」
明日香が首を傾げる。
「並行世界って言ってな、似てるけど違う世界。もしもの世界、みたいなやつ。俺もアニメで見た知識しかないから詳しくは知らないけど。たとえば」
俺は握りこぶしを作って、明日香にゆっくりと突き出す。
明日香は不思議そうにそれを見続けて――むにっと、頬に当たった。
「な、なに? 急に……」
「あっ、いや。止めると思ってやったんだけど」
慌てて手を引っ込めて、すぐに口を開く。
「いま俺達がいる世界は、俺の手が明日香の頬に当たった世界。でも、俺の手を明日香が受け止めていた世界もある」
「ないわよ。だって私は受け止めないもの」
「それは、ここが受け止めなかった世界だからだ。受け止めた世界はどこかに存在していて、俺達はその世界の人間じゃないだけ。認識できないだけってわけだ」
「なるほど?」
明日香は納得していなさそうに首を傾げる。
「そういう違いが幾つも重なって、似てるところもあるけど、歴史とか環境が違ってるから、魔法があったり魔物がいたりする並行世界、パラレルワールドがあった。明日香は異世界というよりは、そういう世界にいっていた。そういう考え方もあるんじゃないかって話だな」
説明を終えて、自分で少し笑いそうになる。
何を真面目に説明しているんだ。
ついこの前まで俺は、母さんが「異世界帰り」と言っただけで頭を抱えていたはずなのに。パラレルワールドだ並行世界だと。真面目に話してる自分がおかしくなる。
「難しくてよくわからないけど、相沢さんが好きそうな話ね」
「相沢にパラレルワールドって単語を聞かせただけで、数時間は拘束されるから覚悟しておけ」
なんなら中学二年の時に、『あたしはパラレルワールドから来た相沢玲奈よ』とか言って眼帯つけてた時期あったし。
それを放課後、二人きりのときにしてくるあたり常識人ではあるんだけ。
「数時間……。それは困るわね」
「ああ。下手のこと言うと異世界帰りのことも察してくるかも知れないしな」
明日香が少しだけ笑う。けれど、すぐにまた表情を戻した。
「でも、もし本当にパラレルワールドがあるなら。私はどっちの世界の人間なのかしら」
カフェでオムライスを食べていた時の明日香とも、体育でダンクを決めて胸を張っていた明日香とも違う。
それは、迷っている女の子の声だった。
俺は夜の公園を見回す。滑り台。ブランコ。街灯。膝の上の新しい体育館シューズ。それから、隣に座る明日香を見る。
「そりゃこっちの人だろ。子供の頃に俺と会ってるんだから。この公園でも、何回か遊んだ事あるだろ?」
伝えると、明日香は驚いたように目を大きく見開いた。
「覚えているの?」
「一緒に過ごしてるうちに、ぼんやりとだけど思い出して来たよ。子供のころ、明日香と遊んでた時のこと」
小学校に入る前か、小学低学年の記憶だ。思い出したといっても、かなり曖昧。それでも、思い出してきた。
「そう……」
明日香は短くそう言って、懐かしそうに公園を見渡した。
「まあ、異世界でもパラレルワールドでも。だからなに? って感じだろ。今更なにも変わらない」
「変わらない?」
「ああ。俺と明日香は小さい頃、一緒に遊んでて。今も一緒にここにいるってことだ」
そう言うと、明日香は黙った。
「元いた世界がどうだったってのは関係ないだろ。うちで飯を食う。朝は起きない。学校に行く。体育ではダンク禁止。パフェを塔扱いする」
「最後の方、少しおかしくない?」
「事実だろ」
「パフェを塔扱いするのは相沢さんの影響よ」
「じゃあ相沢のせいだな」
「ええ。相沢さんのせいね」
明日香はくすっと笑った。
さっきまで少し硬かった肩の力が、抜けたように見える。
「伊吹くんは、不思議ね」
「何がだよ」
「真面目な話をしていたはずなのに、いつの間にか少し軽くなるわ」
「俺に難しい話を期待するな。そんなに頭がいい方じゃない」
「そういう意味ではないの」
明日香はゆっくり首を横に振る。
「軽くしてくれるのが、嬉しいの」
「……ならよかったよ」
また、そういうことを言う。
適当に返して、俺はベンチから立ち上がった。
「そろそろ帰るぞ。遅くなる」
「ええ」
明日香も立ち上がる。新しい靴の袋を持ち直し、俺の隣に並んだ。
公園を出て、夜道を歩く。
さっきよりも、明日香の足取りは軽くなっていた。
異世界なのか。パラレルワールドなのか。
正直、俺にはまだよくわからない。
けれど、隣で新しい体育館シューズを揺らしながら歩いている明日香は、確かにここにいる。
なら今は、それでいい。
少なくとも明日の朝、こいつを起こさなきゃいけないことだけは、どんな世界でも変わらないんだから。




