第28話 今日も、起こしに行く
いつもより少しだけ早く目が覚めた。
リビングのソファーから起き上がり、薄暗い部屋を見回す。
母さんはまだ寝ている。明日香も、たぶん寝ている。というか絶対寝ている。あいつがこの時間に自分から起きてくる未来は、今のところ想像できない。
俺は軽く伸びをしてから、キッチンへ向かった。
冷蔵庫を開け、卵と昨日の残り物を確認する。
朝飯と弁当作り。
明日香が来る前からやっていたことだ。何がきっかけになったかは覚えていない。気付けば俺がキッチンに立つ時間が増えていた。それを不満に思ったことはない。
だから、別に珍しいことじゃない。
ただ最近は、作る量が増えた。
卵を割りながら、ふと思う。
明日香がこの家に来てから、まだそんなに日数は経ってない。それなのに、妙に長く一緒にいる気がする。
初日に炒飯を食べさせた時、あいつは毒見だのなんだのと言っていた。
風呂に入れば、当たり前みたいに感動していた。
俺の古いジャージを着て、なぜか新品の部屋着より気に入った。
寝起きは最悪で、朝飯の匂いがないと起きない。
学校では授業では漢字や略称に苦戦して、体育ではフリースローラインの後ろからダンクを決めて靴を壊した。
普通の女子高生としては、だいぶおかしい。けど、明日香が知らないふりをしているわけではないことも、もうわかってる。
明日香は本当に、違う世界で生きてきた。
異世界なのか、パラレルワールドなのか。正直、俺にはまだよくわからない。
わからないが、そういう世界に行っていたということは、もう信じている。
魔物がいて、魔法があって、勇者がいて、魔王がいた世界にいた。
フライパンに卵液を流し込む。じゅう、と小さな音がした。
菜箸で形を整えながら、昨日の公園での明日香の顔を思い出す。
私は、どちらの世界の人間なのかしら。
そう聞いた時の明日香は、どこか頼りなかった。
白銀の勇者。民の顔を覚えて、守る相手をただの言葉でまとめたくなかったと言った女の子。そんな明日香が、あの時は迷子みたいな顔をしていた。
考えてみれば当たり前なのかもしれない。
幼い頃に突然、知らない世界へ行った。そこで育ち、この年まで生きてきた。魔物がいて、戦いがあって、勇者と呼ばれて、魔王を倒して。
そしてまた、こっちへ帰ってきた。
楽な世界だったはずがない。
詳しい話はまだ聞いてないし、聞いても理解できるかはわからない。
けれど、楽しいことばかりではなかったはずだ。怖いことも、痛いことも、悔しいことも、きっとあった。それでも明日香は生きて、帰ってきた。
可哀想だ、なんて一言で片付けるのは違う気がする。
でも。もう少し優しくしてやってもいいのかもしれない。
朝、起こす時。
髪を乾かしてくれと言われた時。
弁当のおかずを決める時。
知らない言葉を聞かれた時。
普通なら面倒だと思うようなことでも、少しくらいなら付き合ってやってもいい。
甘やかすわけじゃない。
ただ、少しだけ手間を増やすだけだ。
そう思いながら、卵焼きを皿に移す。
弁当箱を二つ並べ、片方にいつも通りのおかずを詰める。
もう片方には、少しだけ多めに入れた。
卵焼きを一切れ。
それから、昨日の残りの唐揚げも一つ。
「……まあ、これくらいならいいだろ」
誰に言い訳しているのか、自分でもわからない。
明日香は飯を美味そうに食べる。それを見るのは、嫌いじゃない。
そういうことにしておく。
朝食の準備を終えた頃、時計を見る。
そろそろ起こさないといけない時間だった。
俺は明日香が使っている部屋の前まで行き、扉を軽く叩く。
「明日香、朝だぞ」
返事はない。まあ、予想通りだ。
部屋に入り、膨らんだ布団に声を掛ける。
「明日香」
もう一度呼ぶ。すると、布団の中からくぐもった声が聞こえた。
「……あと五分。甘味の塔の最上階が」
「夢の中でパフェ攻略してるのかよ」
「もう少しで、天空のクリーム層に」
「起きろ。学校だ」
「学校」
布団の中で明日香が少し動いた気配がする。しかし、起きる気配はない。
いつもならここで少し強めに声をかける。
だが、今朝は一瞬だけ迷った。昨日、あんな話をしたばかりだ。
少しだけ待ってやってもいいのかもしれない。
腕を組み、十秒だけ待った。
たった十秒。されど十秒。まあまあ待った方だろう。
「明日香、十秒待った。起きろ」
「短い……」
「俺の優しさはそこまでだ」
「優しさって、難しいのね……」
「布団の中から語るな」
それでも、明日香はまだ起きてこない。
仕方ないので、俺は最終手段を使うことにした。
「卵焼きあるぞ」
部屋の中が、一瞬静かになった。
「……甘い?」
「甘い」
「起きるわ」
即答だった。
布団がめくれ、寝癖のついた銀色の髪を揺らしながら、明日香が眠そうな顔で出てきた。俺の古いジャージの袖を握り、目は半分しか開いていない。
「おはよう、伊吹くん」
「おはよう。顔洗ってこい」
「ええ……」
明日香はふらふらと洗面所へ向かう。
その背中を見送って、俺は小さく息を吐いた。
やっぱり朝は手がかかる。
それでもまあ、今日は昨日より、少しだけ優しくしてやろうと思った。
朝食の席につくと、明日香は卵焼きを一口食べた。
まだ眠そうだった目が、少しだけ開く。
「……おいしい」
「そりゃよかったな」
「今日の卵焼き、少し甘いわ」
「そうか?」
「ええ。優しい味がする」
その言い方は、少し大げさだと思った。
ただ、明日香が嬉しそうに食べているなら、それでいい。
炊きたてのご飯の匂い。甘い卵焼きを食べる明日香。
異世界でも、パラレルワールドでも、どちらでもいい。
明日香がどこから帰ってきたのか、まだ全部はわからない。
けれど、今はこの家にいる。
俺の隣で朝飯を食って、今日も学校へ行く。
それだけは、たぶん変わらない。
「伊吹くん」
「なんだ」
「今日の体育は、普通のシュートを練習するわ」
「ダンクは?」
「封印する」
「よろしい」
「でも、少しだけ跳ぶのは?」
「普通の範囲でな」
「普通の範囲……。難しいわね」
「難しくても覚えろ」
明日香は真面目に頷いた。
そして、もう一つ卵焼きを口に運ぶ。
「でも、頑張るわ。相沢さんたちと一緒にやるのは嫌じゃなかったから」
「応援してるよ」
「ええ。心強いわ」
明日香は少しだけ笑った。
その顔を見て、俺も箸を動かす。
朝起こして、飯を食わせて、学校へ行く。
それだけのことだ。
けれど、明日香にとっては、そういう一つ一つがこの世界の普通を覚える練習になる。なら、俺にできることは決まっている。
朝は起こす。
飯は作る。
わからないことは、できるだけ教える。
髪を乾かすのは……まあ、たまになら考える。
弁当のおかずを一品増やすのも、たまにならいい。
そんなことを考えながら、俺は用意しておいた弁当箱を見た。
いつもより少しだけ多い明日香の弁当。
「伊吹くん」
「今度はなんだ」
「今日のお弁当、楽しみにしているわ」
「普通だぞ」
「そうなの?」
「ああ。普通の弁当だ」
明日香は不思議そうに首を傾げた。
俺は視線を逸らし、味噌汁を飲む。
普通の弁当。
少しだけおかずの多い、普通の弁当。
それを持って、明日香は今日も学校へ行く。
異世界帰りか、並行世界帰りか。そんなことは、まだわからない。
でも、明日香の普通の一日は、今日もここから始まる。
まずは、朝飯でこいつを起こすところから。
それが今の俺にとっての、いつもの朝だった。




